家族
「私の研究を、私の進むべき道を、人々は恐れ、嫌い、憎悪し、非難するかもしれない。私はそれを恐れない。ただ、たったひとつだけ、私は神に切に祈ろう。私の家族とも言うべきあの少女にだけは理解されるように、それがだめでも、せめて、せめて嫌われないように」
ーーある若手物理学者の研究ノートより。原文は英語。昭和12年11月ごろのメモか?
礼司が日本に帰国してから凡そ1週間程度経った。この1週間は宮内庁に襲爵の手続きに行き、あるいは親戚や知人、職場になる東京帝大の研究所に帰国の挨拶をして回っていた。
仕事を始めるのは、6月からと決まっていたが、元より彼の仕事は場所はあまり関係がなく、紙とペン、それに彼の頭脳さえあれば事足りるのであった。
英吉利にいた時に蔵書は予め日本に送っておいたのだが、そのうちの3冊の本を机の上に置きつつ、彼は万年筆を手に取り手紙を書いていた。
扉がノックされると、礼司の返事を待たずに扉が開けられた。
ーー寝室以外ではノックもいらないと言っておいたんだがな。
心の中で苦笑いをしつつ、芳しい香りと共に部屋に入ってきた白金色の髪をくるりと横でまとめている少女ーー芽衣を見た。
今日の芽衣は浅葱色の紬を着ていた。礼司の家ーー児玉子爵家に出仕するにあたり、みっともない恰好はさせられないということで、3着の紬を与えたらしいが、質素は大切とはいえ、年頃の少女はもっと衣装を持っていても良いのではないかと思う。
「おはようございます、旦那様」
芽衣はぺこりと頭を下げると、手にしていたお盆を礼司の書き物の邪魔にならないように置いた。お盆に載っているのは2人分の朝食とティーセットである。
朝食は英吉利帰りの礼司に合わせてもらい、パンと目玉焼き、それにベーコンと茹で野菜のスープという献立だった。普段の食事は食堂で摂るのだが、朝食は書斎で摂っていた。あまり大きな意味は無いのだが、朝起きるて身支度を整えると、礼司が書斎で作業をし始めてしまうからだろう。
「ありがとう」
礼司が本や書いていた手紙をどかすと、芽衣は彼の前に朝食と紅茶を並べた。この紅茶の豊かな香りが礼司の毎朝の楽しみとなっていた。
芽衣は食事を並べ終えると、礼司の隣りにちょこんと座った。最初の数日は一緒に食事をするということに緊張していたようだが、今ではすっかり馴染んでいた。
「いただきます」
2人は手を合わせて食事を始める。
「何を書いていたんですか?」
パンを小さくちぎりながら、芽衣は尋ねる。
「ああ、手紙だよ」
「日本語じゃなさそうでした!」
「英語だよ、英吉利や亜米利加の言葉だ」
「はえー、旦那様はすごいですねぇ……」
「そりゃあ、この前まで英吉利にいたからね……」
紅茶を飲みながら礼司は苦笑した。華族の子弟であり、父は商社勤め、母も英吉利生まれで、他の日本人と比べれば異国への垣根が低かった礼司としては、自身が英語を自在に操り、読み書き程度であれば仏語や独語、伊語、あるいはラテン語もできることはひどく当たり前なのだった。
「どなたに書いてらしたんですか?」
「あー……親戚の親戚?」
「なんで疑問形なんですか……」
「親戚として手紙を出す訳では無いからね」
「ふえ?じゃあ何て書いたんですか?てっきり日本に着いたけど元気ですーって手紙かと……」
ーー少し喋りすぎたな。
安穏としすぎて警戒心が薄れてしまっていたのか、礼司は自身の失言を認めざるを得なかった。そして、芽衣は決して莫迦ではない。彼の言葉の隙に気づき、疑問を持つくらいには知性的だった。
芽衣はおそらく尋常小学校程度の教育しか受けていないだろう。しかし、それは頭が悪いことを決して意味しない。むしろ、知的な好奇心にも溢れているのか、余暇にはよく本を読んでいるようだった。
「……いや、芽衣の言う通りだよ。今は可愛らしい使用人と一緒に暮らしてますって」
嘘をついたことでちくりと痛んだ胸は無視しなければならない。聡い彼女に本当のことを知られる訳には行かないのだから。
「か、かわっ……」
芽衣は顔を真っ赤にしていた。この容姿であれば言われ慣れているだろうと思ったが、案外そうではなかったようだ。何かを言いかけて、それでも言えずに口をぱくぱくしている様は実に可愛らしかった。
「……私のような乙女を捕まえてそんな破廉恥なことを言う方とは思いませんでした」
「……あれ?」
自分の発言を省みて、そう破廉恥なことは言っていないはずだ。やや幼いとはいえ、年頃の少女を可愛らしいというなど、英吉利ではよく見かけたし、伊太利から来ていた留学生などは誰彼構わず言っていたような……。
そこではたと気づいた。日本は奥ゆかしい国である。女性に可愛らしいと声をかけることもあまりないように思われた。礼司はあまり今まで女性に関心を持たなかったし、そもそも日本を離れたのも中学校を卒業する前のことだったから、確か15歳くらいのことである。日本の男女関係の機微などには疎くて当然であった。
「芽衣、僕はだな」
「何も言わないでください、旦那様。芽衣は旦那様がどんなに破廉恥でも誠心誠意ご奉公いたしますから」
そう言いつつ芽衣は少しだけ距離を開けた。
その距離に心に傷を負いつつ、礼司は誤解の払拭の言葉を考えた。
「英吉利では女性を褒めることが当たり前なんだよ。僕はこの前まで英吉利にいたからね、その時の感覚が残っているんだ」
「そうなんですか……?」
「そうそう」
あくまでも日本と比べると、という話であって、英吉利も仏蘭西や伊太利と比べると、堅くて真面目な部類に入るのだろう。
「……やっぱり欧州って日本と違うんですね。いいなぁ。行ってみたいなぁ」
いつか連れて行ってあげるよーー。そんな無責任なことを言いそうになって、礼司は口を閉ざした。物見遊山で海外、それも欧州などに行けるわけがないし、いずれ礼司が英吉利に戻るとしても、その時に目の前の少女を連れて行けるわけがない。
「ああそうだ、午後、一緒に出かけるから支度しておいてくれ」
「承知しました。どちらへ?」
「叔母上夫妻のところ」
路面電車を乗り継ぎ、着いた先は児玉子爵邸と比べればごくごく普通の和風の一軒家であった。とはいえ、その家の佇まいを見るに、住んでいる人物は上流階級に属するような人間であることは分かった。
「こちらが旦那様の叔母様が住んでらっしゃるんですね」
ほー、と感心したように芽衣は家を見上げていた。
「ええと、椎名、さま?」
芽衣は小首を傾げながら表札を見た。
「そう、叔母上、僕の父の妹が椎名鶴、そのご主人が椎名三郎というんだ」
言いながら、礼司は呼び鈴を鳴らした。少しばかりして、家の中から足音が聞こえてきたと思うと、がらりと引き戸が開いた。
「いらっしゃい、礼司さん。お久しぶりね」
出てきたのは、上品ではあるがごくごく普通の日本人女性であった。目鼻は整っており、かつてはさぞかし男性に人気があったのだろうと思える。
「ご無沙汰しておりました、叔母上」
そう言って、礼司は軽く頭を下げた。
「本当に久しぶりねぇ。元気そうでよかったわ。ところで……」
鶴は訝しげに、礼司の後ろに隠れるように立っている芽衣に目をやる。
「そちらのお嬢さんはどなたかしら?まさか光源氏よろしく……」
「いえ、違います」
平安時代の小説の主人公のように幼い娘を手元に置いて自分好みに養育し、成長したら収穫するような倒錯的な趣味は礼司にはない。
「これは児玉の使用人の芽衣と申します。他の使用人には全て暇をやったので、女中頭のようなものです。叔母上や叔父上にご挨拶させようと思いまして」
そして、礼司は軽く芽衣の背中を押した。
「芽衣、ご挨拶なさい」
芽衣は1歩前に出て両手を胸に当てると、深呼吸をした。
「初めまして、奥様。児玉家の使用人の川島芽衣と申します」
勢いよくぺこりと頭を下げた芽衣に、鶴も思わず顔を綻ばしたようだった。
「ご丁寧にどうも。礼司さんの叔母の椎名鶴です。これからよろしくね、芽衣ちゃん。さ、2人とも上がってくださいな。主人が久しぶりに礼司さんに会えるぞーって、首を長くして待っているのですから」
鶴に促されて2人は家に上がった。そのまま案内されたのは、おそらく椎名家の客間だろう。鶴はお茶を用意する、と言って客間に入ることなく台所へと向かっていった。
広さとしては八畳くらいであろうか。壁には掛け軸が掛けられており、そこには堂々たる筆遣いで『百折不撓』と書かれていた。部屋の中央には背の低い机が置かれ、その周りには紫の座布団が置かれていた。そして、その中でも上座には1人の壮年の男性が胡座を書いていた。
彼は着物に羽織を羽織っていた。丸縁の眼鏡をかけ、口元には髭を蓄えている。新聞を広げて読んでいたが、礼司たちの気配に気づいたのだろう、顔を上げて微笑みを浮かべた。
「やあ、礼司、よく来た……な?」
微笑んだまま、男性の表情は凍りついた。その視線は芽衣に向けられていた。
たっぷり3秒ほど彼は事態を認識できていないようだったが、やがて咳払いをすると、口を開いた。
「あー、なんだ、帰国の挨拶かと思っていたが、結婚の挨拶でもしに来たのか?しかしそれには幼くないか?なんだ、光源氏でもやるのか?」
結婚、という言葉を聞いて傍らにいる芽衣の顔が真っ赤になっているが、今はそれに構うどころの話ではない。自身と芽衣の名誉のために、まずは叔父の誤解を解かねばならなかった。
「違います!夫婦揃って僕を倒錯的な人間にしないでください」
「違うのか……」
「なんでそこで少し落胆しているんですか」
「いやなに、礼司は由緒ある児玉子爵家の当主になったのだからな、身を固めるのが道理というものだろう」
「由緒も何も所詮は勲功華族、僕で高々四代目ですよ」
明治のご維新の時の大功で曽祖父が子爵に列せられたことが児玉子爵家の始まりだが、それ以前は長州の下級藩士であった。華族でなければ士族にはなれた家系ではあるが、諸侯家でもなければ公卿の家系でもない。
「……まぁいい、それで、そのお嬢さんは誰なんだ。英吉利から連れてきたのではないのか?」
ーーやはり芽衣の容姿が気になるのか。
白金色の髪というものは、日本人には珍しい髪色だ。異人の娘と思うのが当然だろう。礼司自身も書類上でしか芽衣の身の上は確認していないが、国籍は日本で間違いなかったが、父親が亜米利加人のようである。
「児玉の使用人の芽衣です。他の使用人には暇をやったので、唯一の使用人です。なので、叔父上と叔母上にご挨拶させようかと。さ、芽衣」
芽衣は未だに顔を赤くしていたが、それでもぎゅっと胸元で拳を握ると、息を大きく吸った。
「児玉家の使用人の川島芽衣と申します。以後よろしくお願い申し上げます」
ぺこりとお辞儀をした芽衣に、彼は目を細めた。
「丁寧な挨拶をありがとう。私は児玉子爵の義理の叔父にあたる、椎名三郎という。甥をよろしく頼むよ」
やんわりと微笑むと、三郎は自分の真向かいにある座布団を指さした。
「さぁさ、座りたまえ。さっきは妙なことを言って悪かったね」
「いえ、確かに使用人を連れて親戚のところに挨拶に伺うのも妙な話ではありますし」
座りながら、礼司は首を横に振った。
「お前には謝っとらん」
「はぁ……」
確かに年相応の羞恥心がある芽衣にはきちんと謝った方が良いと思うが、だからといって礼司には謝らない、というのもおかしな話である。
「あの、私もびっくりしたけど気にしていないので……」
芽衣は俯き加減で口を開いた。
「いやなに、芽衣ちゃんもこんな目付きの悪い陰気な男と夫婦などと誤解されるのは嫌だろう」
「そんなに陰気ですかね……」
考え込むことが多い性分ではあるが、陰気という訳では無いように思う。
「いえっそのっ、旦那様が嫌とかじゃなくって、私はただの使用人なので、びっくりしちゃっただけで……」
芽衣がしどろもどろに答えるさまはなんとも可愛らしいものだった。それを口に出すと叔父にはからかわれるだろうし、芽衣にはまた破廉恥だのなんだの怒られるだろうから決して言わないが。
「……礼司」
「……なんでしょうか、叔父上」
「もし、芽衣ちゃんと祝言をあげるに際し、家柄の問題があるなら私に相談しなさい。椎名の苗字を用意してやる。貧乏士族の家だがこれでも私は出世している方だ。問題なかろう」
なんとも返答に困る言葉だ。だいたいそういう話は叔母がいる時にやって欲しいと礼司は思う。尤もあの叔母上の性格や芽衣本人の人格を考えれば、嫌な顔はしないだろうが。
とりあえず、話題を変える必要があると礼司は思った。
「ああそうだ、叔父上、商工省工務局長就任おめでとうございます」
礼司の隣りで芽衣はびっくりしたように目を丸くした。中央官庁の局長ともなればひとかどの地位である。芽衣が驚くのもやむを得ないだろう。
「うむ。それを言うなら君も倫敦で博士号を取ったそうではないか。年齢を考えるとその方が快挙だ」
芽衣がますます目を丸くしているが、礼司は気付かないふりをした。
「……ご存知でしたか」
「外務省には知り合いがいてね。駐英日本大使館ではちょっとした騒ぎになったらしい。まぁ博士論文の内容はさっぱり分からんが」
ーー論文の中身が出回っているのか。
学術論文はその性質上、万国に向かって発せられ、その内容が吟味され、理があるかを問われるものである。従って、誰がその内容を読んでいても構わないものなのだが、彼の博士論文は理論物理学を題材にしており、あまり広く読まれるような性質のものでは無い。
それに、日本国内でも読まれていることは想定外であった。博士号授与に関連する人々や、せいぜいで英米、それに独逸の学者のあいだで読まれていれば良いかという程度のものである。
部屋の襖が開かれ、鶴がお盆を持って入ってきた。
「礼司さんが紅茶をお好きなのは知っているけど、うちには緑茶しかなくて、ごめんなさいね」
「いえ、長らく英吉利にいると、緑茶が恋しくなるものでして」
曖昧に微笑みながら、礼司は日本で自身の論文が読まれている意味を考え込んでいた。
椎名夫妻の家を辞し、礼司の屋敷に帰りついた時には既に夕陽が空を茜色に染めていた。
「晩御飯はいつ頃にいたします?」
「もう少し後でいいよ」
「承知しました。それでは紅茶をお入れしますね」
「ああ、頼む。書斎にいるよ」
「それではそちらにお持ちします」
礼司は室内用のゆったりとした濃紺色の着物に着替えると、書斎に向かった。
「結婚、か……」
礼司は思わず独りごちた。
礼司は自身がまともに結婚できるほど立派な人間だとは思っていなかった。日本に骨を埋める覚悟をしているならともかく、数年もすればまた英国に戻り、あるいは亜米利加に渡ることも視野に入れていた。
とはいえ、勲功華族とはいえ子爵家は子爵家。親戚や周囲の人間は礼司がいずれ結婚し子供を作るだろうと思っていることは想像に難くない。
華族の結婚、それも礼司のような若造の結婚ともなれば、相手は家格を重視し、家の発展のためになるよう選んでいくものだろうが、礼司としてはそのようなことで自分の進む道を縛られることはごめんであった。それならば叔父が言うように、芽衣のようになんの後ろ盾もない娘を娶った方が良い。
ーー尤も、結婚する気などはないのだが。
第一、自分なんぞの妻になったら芽衣が可哀想だ。
扉がノックされ、開いた。芳しい香りと共に芽衣が入ってくる。
「紅茶をお持ちしました」
言いながら、芽衣はティーセットを机の上に並べた。英国の茶会のようにお菓子がつくことは無いが、彼は茶会ではなく紅茶そのものが好きなので、むしろそのように武骨な方が好ましいとも思う。
2つのティーカップに紅茶を注ぐと、芽衣はちょこんと礼司の隣りに座った。そこが、2人の茶会の芽衣の定位置だった。
「椎名様たちはとても良い方でしたね。ちょっと羨ましいです」
紅茶を1口啜り、一服ついた芽衣が口を開いた。
「そうかい?」
「そうです。確かに意地悪なところもありましたけど、旦那様のことを気遣っていて、なんというか、家族ってああいうものなのだなぁって」
「家族、ね……」
別居して暮らしている叔母夫妻のことは普通は家族と言うには縁遠い。だが、椎名家には子供がおらず、甥である礼司を実の子供のように可愛がってくれたことも事実だった。
三郎の、芽衣を養女にしても良いという発言もそのあたりから来ているのだろう。芽衣を養女にして礼司に娶らせれば礼司はあの夫妻の息子になるのである。
確かに、自分のような人間には有難い話ではある。
書類で確認する限り、芽衣は満洲で生まれたらしい。父は露西亜系亜米利加人の武器商人、母は大陸浪人の娘らしい。大陸浪人とは主に中国大陸で活動する、特定の組織や機関に属さない人たちのことを指すが、その大半はヤクザまがいのゴロツキである。
芽衣が5歳の時に父親が死亡。どうやらソ連国内における旧白軍系の反政府活動を支援していたらしく、おそらく暗殺のようだった。
母子2人でしばらく満洲で生活していたようだが、張学良の奉天軍閥が反日政策を推進するにあたり内地に帰国してきたらしい。その後、母親はある商人家に奉公していたようだが、無理が祟り過労死した。
ーーそこからどうやって芽衣が児玉子爵家に来たのかが分からないんだよな。
芽衣の母が勤めていた商人家が有情であればそこに芽衣が奉公していたろうし、無情であれば、こんなに可愛らしく珍しい娘だ。経緯はどうあれ最終的には女衒にでも売られたに違いない。先代の児玉子爵である父が遊郭から買ってきた可能性もあるが、父の性格上、遊郭に出入りするとも思えない。
ーー聞いていいものかな。
目を細めながら紅茶を嗜む芽衣を見て、礼司は悩んだ。ないとは思うが、父が情婦にする目的で買ってきていたのだとすれば目も当てられない。こんな幼い娘相手にそんなことがあれば子爵位を返上し父の骨を無縁寺に預けて英国に帰るつもりだ。
「……言いたくなければ良いんだが、芽衣はなんで父上に拾われたんだ?」
芽衣はティーカップを机の上に置くと、両の手のひらを膝の上でぎゅっと結びながら、微笑んだ。
「……お母さんが死んだ時に、お母さんがご奉公していたおうちの人に紹介されたのが大旦那様でした。なんで大旦那様が私なんぞを雇ってくださったのかは分かりません。でも、その時、言われた言葉があります」
芽衣は両の手のひらを胸に添え、目を伏せた。
「私はもう長くない。私が死んだらきっと帰ってくるだろう一人息子を永く輔けて欲しい。あれは厭世的で非情なところがあるが、それを人としてつなぎ止めて欲しい。だから、君のあるじは私ではなく私の息子だ、と」
……その言葉は鉛のように礼司の心に重くのしかかる。
「それで、大旦那様は大旦那様で、旦那様は旦那様なのです」
……あるいは目指すべき大事を諦めざるを得ないほど。
「旦那様と初めてお会いする時、本当はとても怖かったんです。ひどい人だったらどうしようって。でも、優しい人でよかったって思います」
芽衣に無垢な笑顔を向けられて、彼は観念せざるを得なかった。きっと、父の思惑通りなのだろう。
「……芽衣は、さっき、家族が羨ましいと言ったね」
「はい。私にはもういないから……」
芽衣は寂しそうに微笑んだ。
「……英国では使用人は奉公する家族として扱われるんだ。徒弟制度が源流にあるんだろうけどね、まぁだから、その、なんだ」
礼司はそっぽを向いて、頬を掻いた。
「僕は芽衣のことを家族だと思っている」
芽衣は呆気に取られたかのようにじぃっと礼司の顔を見つめていたが、やがてぽろぽろと涙を零し始めた。
「め、芽衣?芽衣さん?嫌だった?」
女の子を泣かせたことは初めてで、礼司は慌てていた。まさか泣くとは思わなかった。
「あ、あのそうじゃなくて、えっとその、何でだろ、嬉しいのに涙が出るんです」
芽衣は泣き笑いの表情を浮かべ、紬の袖で目元を拭っていた。
「嬉しいです、旦那様。ここにいてもいいんだって、思えました」
思わず、礼司は頭を撫でた。少し癖のある髪はふわふわとしていた。