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皐月花  作者: 涼暮月
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帰国

「我が友レイモンドが変わったのは、おそらく1937年の春か夏か、それくらいだったのでしょう。その頃に彼から貰った手紙には、今から思えば既にその傾向がありました。その時に、人知れず、それこそレイモンド自身も知らずに世界の未来が変わったということなのでしょう」

 ーーロバート・リー博士の回顧録より抜粋


 嫌になるほど晴れ渡っている――

 空を見上げ、やや顔をしかめながら、青年は路面電車から降り立った。

 彼は右手には大きく角ばった鞄を引っ提げ、左手には新聞を持っていた。旅装である茶色の地味な着物に灰色の袴、頭には山高帽を被っていた。目はやや吊り気味であり、人によっては目つきが悪いと言うだろう。涼し気な目つきと言えないこともないだろうが、そういうには彼の表情はどこか陰をまとっていた。

 着物の裾から垣間見える手首は骨格が見えるほど細く、そして生白い。山高帽から零れる髪は焦げ茶というほどではないが、黒というにはやや茶色がかっていた。

 彼は「ヒンデンブルク號爆破!」という表題が一面に踊る新聞を折り畳み小脇に挟み、ゆっくりと歩き始めた。

「……ここに帰るのも久しぶり、か」

 五分ほど歩き、彼は洋風の屋敷の門の前で立ち止まる。表札には「児玉」と掲げられていた。

「お帰りなさいませ」

 門の前に立ち、青年が姿を現すと深々と頭を下げたのは初老の男性であった。白いワイシャツに蝶ネクタイ、黒のスーツに身を包んだその男性は、既に白髪がかなり混じっている。

「お待ちしておりましたよ、坊ちゃま」

「うん、勝沼、久しい、な……?」

 青年は男性の後ろに隠れるようにいたものに、眉根をひそめた。

 それは若葉色の紬に身を包んだ少女だった。年のころは十二、三歳ほどであろか、小柄で華奢で、雪のように白い肌をしていた。流れる白金色の髪を惜しげなく五月の豊かな風に嬲らせて、澄んだ空のような天色の瞳はじっと青年を見つめていた。

 ――英吉利(イギリス)の童話に出てくる妖精のようだ。

 青年はひと月ほど前までいた国のおとぎ話を思い出した。たいていの場合、おとぎ話に出てくる妖精はいたずら好きで、善良な人間を惑わしてしまうものだ。

 だが、青年は善良でなく、少女は妖精でなかった。

「ご挨拶を」

 男性は少女の背中をぽんと叩いた。

 むしろ少女は惑うように男性を見上げたが、彼が優しく微笑みながら頷いたのを見て、少女は観念したかのように口を開いた。

「初めまして、旦那様。私は大旦那様に拾われて、児玉子爵家にご奉公しております、川島芽衣と申します」

 少女らしい高い声音にも関わらず、どこか柔らかさを感じさせる、綺麗な声だった。鈴を転がすような、という慣用表現がぴったりくる。

「あ、ああ。そうか」

 頷きつつ、この返答では年長者としてあまりにも情けないと思い、青年は再度口を開く。

「亡き父に仕えてくれてありがとう。僕がこの度家督をついだ、児玉礼司だ」

 青年は少女から目を離すと、旧知の初老の男性に視線をやった。

「……奉公人には全て暇をやり、希望者には再就職先を斡旋してくれ、と頼んだはずだが?」

 引っ込み思案のようであるが、少女はそれなりに礼儀作法を教えられているようだった。年齢のことも考えれば、再就職で困るということないだろう。なにより、子爵とはいえ華族の家で奉公したともなればそれなりの箔になる。

「旦那様――御父君の遺言にてございます。きっと、坊ちゃまが一人になることを嫌ったのでしょう」

「ふん、父上も余計なお世話を」

 人が多いのは苦手だったから奉公人に暇をやっただけであって、一人だけ残った奉公人をわざわざ外に出すほど厭世家というわけでもない。そのあたり、病床の父親には悟られていたのだろう。

 あるいは、芽衣と名乗る少女を迎え入れたのも、息子のことを思ってなのかもしれなかった。

 ――癪に障る。

 父に悪気はないのだろうが、年若い奉公人、それもいたいけな少女ともなると、どのように扱っていいかさえ思い悩む。

 ましてや、白金の髪に青い瞳のくせに日本人の名前。難しい生い立ちであったとしても驚くに値しない。何せ、日本人の正式な国際結婚など、驚くほど少ないのだから。

 だから、同情してしまうから――。

「あ、あのっ」

 少女は両のてのひらをぎゅっと握りしめて初めて会う青年に声をかけた。

「……なんだい?」

 思考が途切れたものの、努めて穏やかな口調で青年は尋ねた。少女は何も悪くないのだし、八つ当たりなどみっともない。それくらいの分別がつくくらいには、青年は大人だった。

「私を、お屋敷に置いていただけますか……」

 少女は上目遣いでじっと見つめながら、弱弱しい口調で尋ねた。

 その表情で、少女にはほかに行き場などないことが分かってしまった。みなしごなのか、親に売られたのか、それは分からないが、もし彼が放り出してしまったら、少女に残されているのは野垂れ死か、野垂れ死ぬより悪い未来かなのだろう。

 はぁ、と青年はため息をついた。非情になり切れないところが、いつか自分を苦しめないことを祈りつつ。

「……勝沼にも今日限りで暇をやるからな。さすがに一人でこの屋敷は広い」

 その言葉を聞いた瞬間に、少女から儚げな表情が消え去り、代わりに五月の空のような澄み渡った笑顔がやってきた。

「ありがとうございます!精一杯ご奉公します!」

「……ああ、よろしく頼む」

 年若いふたりの様子を、年長の男性は目を細めて見守っていた。


 礼司は寝室に荷物を置くと、書斎に足を運んだ。本来は父の書斎であったが、父は忙しい人であったので、この屋敷にいる時は自然と礼司が使っていた。

 書斎といっても児玉の家が持っている蔵書がここにあるわけではない。本棚はあるのだが、ここ最近読んでいる本であるとか、よく読む本であるとか、そういった本が置かれていた。執務机のようなものがあるわけでもなく、ソファと丸いテーブルがあるばかりであった。

 なんとなしに礼司は本棚を物色する。ほとんど本は収められておらず、目につくのは論語や孟子といった儒学の古典、父が勤めていた三菱の創設者、岩崎弥太郎の伝記、あるいは英語で書かれた新約聖書であった。

 その中で、彼は聖書を手に取った。古ぼけたその本を開くと、見返しのところに流麗な筆致でアルファベットが綴られていた。

  Henrietta Howard

 礼司はそこに書かれた今は亡き母の名前を指でなぞった。元々は母の持ち物であった聖書を、父が死ぬその時まで大事にしていたのだと思うと、どうにもこそばゆく思えてしまう。

 革張りのソファに腰をかけ、聖書のページをなんとなしにめくっていく。聖書は、特に新約聖書は何遍も読み返したものだ。それこそ日本語でも、英語でも、ラテン語でも読んだものだった。諳んじることは流石に出来ないが、それでもどこにどのような事が書かれているかはわかる。

 この若さで聖書を飽きるほど読んだというのも、考えればなかなか悲しいことであろうけれど。それだけ心に安らぎが必要ということの証左なのであるから。

 静かに扉がノックされた。

「どうぞ」

 礼司は聖書から顔を上げて答えた。静かに扉が開くと、芽衣がお盆を持って入ってくる。

 それと共に、芳しい香りが部屋に満ちた。見れば、父の道楽で集めたマイセンのティーポットとティーカップがお盆の上に乗せられていた。

「紅茶がお好きと伺っていたのでお淹れしました」

 芽衣はテーブルの上にお盆を置くと、そこに置かれたただ一つのカップに明るい色合いの紅茶が注がれた。

 この色合いと香りはダージリンだろうか。ミルクを入れずに飲まれることが好まれる紅茶だが、それは豊かな香りを楽しむためである。

「ありがとう」

 差し出されたティーカップを手に取ると、ふわっとした香りが鼻腔をくすぐった。これだけでも、目の前にいる少女が丹精込めて紅茶を淹れたのだということが分かる。

 口に含むなり、やや渋いながらもマスカットのような香りが口いっぱいに拡がった。まさしくダージリン、それも夏摘みのものであろう。

 芽衣はぎゅっと口を結んだ、緊張した面持ちで礼司が茶を嗜むのをじいっと見つめていた。年頃というにはやや幼いかもしれないが、可愛らしい少女に見つめられて、礼司の方こそ緊張せざるを得ない。一体何を期待しているのかと訝しく思ったが、少し考えて見れば分かることだった。彼に対する彼女の初めての奉公が、この紅茶なのである。

「良い茶葉の良さを殺すことなく淹れられている。満点だ……と言いたいが」

 ぴくん、と芽衣の身体が震えた。緊張の色は不安へと変わっていく。

 初対面のわりにはやや意地悪な言い方であったかもしれない。ましてや、芽衣はここで礼司の勘気をこうむれば、他に行くあてもないのかもしれないのだ。

「そこで突っ立っていられても紅茶が美味しくなるわけではないよ。このカップと同じものが確かもう2、3あったろう。直ぐに持ってきなさい。一緒に飲もう」

「え、でも……」

「父上や勝沼が君に何を教えたかは知らないけどね、僕は幼い女の子を立たせたまま紅茶を楽しめるほど肝は太くないよ」

「……分かりましたっ!」

 少女はぺこりと一礼をすると、今にも走り出しそうな勢いで部屋を飛び出した。その姿に礼司は苦笑する。

 芽衣に言ったことは半分は嘘だった。彼は英吉利にいた時には女中(メイド)に給仕させたまま平然と紅茶を飲んでいた。さすがに芽衣ほど幼い者はいなかったように記憶しているが田舎から倫敦に来たばかりの若い女性も働いていたものだ。

 とはいえ、彼女たちは別に礼司に仕えていたというわけではない。彼が下宿していた家に仕えていたのであり、その家の奉公人に対する教育に礼司は関心を持たなかったし、口を挟むことも無礼というものだ。何より、英吉利の上流階級の流儀というものを、少なくとも日本のそれよりはよく知らない。

 ただ給仕させるだけであれば立たせて待たせるなり、下がらせて必要になればまた呼べば良い。だが、そういった主従関係というものを、彼はあまり好いていなかったのは事実である。たった1人の奉公人、それも幼い少女なのだ。多少甘やかしたところで誰も文句は言うまい。

 ――これでも奉公人が多くいれば不満につながるのだろうな。

 だから、奉公人のほとんどに暇をやったのは間違いではなかったのだ。意地悪な先輩も、厳しい女中頭も気にせずに、のびのびと働いてくれれば良い。

 ーーどうせ、自分の他に彼女の働きを見る人間などいないのだ。

 自分に事故があったり、あるいは再び洋行する時に備えて、芽衣がこの家を放り出されてもきちんと生きていけるようにする義務めいたものはあるのだろうが、それもすぐに身につけさせねばならない、ということでもないだろう。

 それにーー

「美味い」

 少なくともこれだけ澄んだ香りの紅茶を淹れられるのだ。別に今更礼司が何か教育する必要があるとも思えないし、できるとも思えない。少なくとも、使用人としては合格点であろう。

 英吉利と違い、趣味の紅茶には苦労するだろうと思っていたから、僥倖だった。

 そして、初めてだった。美味い紅茶を誰かと一緒に飲みたいと思ったのは。表面上毒にも薬にもならないようなことを話しながら、腹の中では毒々しいことを考えているような、英国の上流階級の茶会というものがどうも苦手で、腹の中を割って話せる友人や同僚など、ごく親しい間柄の人間以外とは共に茶を嗜みたいと思ったことがない。

 ティーカップの内をぼんやりと眺めていると、やがてぱたぱたと足音が聞こえてきた。その音から、小さい身体を懸命に動かして小走りしているさまが目に浮かぶようだった。

 足音は扉の前で止まると、しばし無音であったが、やがて扉がノックされた。おそらく息を整えていたのだろうと思うと、いっそ微笑ましい。

「どうぞ」

 礼司が声をかけると、手にマイセンのティーカップを持った芽衣が入ってきた。

「ほら、掛けなさい」

 礼司はソファの自分の隣を軽く叩いた。

「し、失礼しますっ!」

 ‬芽衣は頬を若干紅潮させて、礼司の隣に座った。礼司はまだ温かいティーポットを手に取ると、目線で芽衣に手に持つティーカップを促した。彼女はしばらくぼうっとティーポットを見ていたが、やがて礼司の意図を理解したようで、申し訳なさそうにティーカップをテーブルの上に置いた。

 ‬明るい色の液体が芽衣のティーカップに注がれた。芳しい香りは健在で、改めて部屋に満ち満ちた。

 ‬礼司がティーポットを置いたのを見届けてから、芽衣は自分のティーカップを手に取った。カップを口もとまで持っていき、深く息を吸って、そして吐いた。ほぅ、と彼女の口からため息が漏れる。その後、ゆっくりとカップの中の液体を啜った。

「……美味しいです~」

 ‬ 芽衣の頬が緩んでいた。

「君が淹れたお茶だろう」

 ‬あまりにも感動しているようだから、おかしくなって、礼司は笑いそうになった。初めて紅茶を飲んだということであればともかく、彼女はこれほどに美味い紅茶を淹れられるのだ。何遍も何遍も飲んだに違いない。

「そうなんですけど、なんでかな。いい茶葉のせいでしょうか」

「でも、この屋敷に来てから練習で作ったお茶を飲んだりはしなかった?」

「何度か作りましたし、味見をしたりしてもらったりもしました。けれど……」

 ‬芽衣は小首を傾げた。

「……あっ」

「分かった?」

「いえ、お母さんと一緒に飲んだ時の温かさに似ているなって思っただけです」

 ‬お母さん、という単語が出てきて、礼司は心の中で少しだけ身構えた。本当は芽衣の雇い主として、彼女の家族についてきちんと知らなければならないのだろうが、なんとなしに足を踏み入れにくくて気が引ける。一応、勝沼が資料を残してくれているようだが、しばらく見る気は起きないだろう。

「……いわゆる味というものはね、舌だけで感じるものではない。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、いわゆる五感というものを使って感じるんだ」

 ‬芽衣は不思議そうに礼司の顔を見ていた。きっと、突然味覚の講義を始めた彼に戸惑っているのだろう。あるいは、年齢を考えると、彼が言っている言葉の意味を理解しそこねているのかもしれない。

「あとは心も影響すると思う」

「心、ですか?」

「ああ、緊張していたら味なんて分からないし、安心したり嬉しかったりすると、余計美味しく感じるかもしれない。だから……」

 ‬気恥しさゆえにこの先の言葉を言うか迷ったが、しかし、言うに越したことはないだろう。何より、目の前の少女はこれから共に暮らしていく存在であり、きっと心の中にある漠然とした不安を取り除いてやるのが主人たる自分の役目だと信じているから。

「……だから、安心したよ。僕と一緒に紅茶を飲むことが、少しは芽衣の安心とか、平穏とか、そういった良いことに繋がってるんだろうと思えて」

 ‬芽衣はまじまじと礼司を見つめていた。礼司は気恥しさから頬を掻きながら目線を逸らしてしまう。芽衣があと3年も年長であればこんなことは言えない。年頃の少女に甘い言葉を囁く軟派な人間であると思われても困るし、そもそも隣りに座らせて紅茶を嗜もうという発想に至らないかもしれない。

 ‬芽衣はまだ子供だ。だから、親代わりと言えないまでも、時には兄代わりに接してやる必要があるだろう。

 ‬芽衣はティーカップに視線を落とした。

「……お茶を一緒に飲もうって言って貰えて、嬉しかったです。お側にいることを許してくれるんだぁって思えて、私はもうこのお屋敷を追い出されたら行き場所なんてなくて。だから、だから……」

 ‬ティーカップに落とした視線を上げて、芽衣はにへらと礼司に笑顔を向けた。

「この味は、きっと、安心の味なんだろうなって、思います」

 ‬たった一言、一緒に飲もうと言っただけで、芽衣は緩んだ笑顔を向けてくれる。それが礼司には無性に嬉しく、しかしどこか底冷えた寒気さを感じた。

 ‬それだけ彼女は悲しいことを経験したのだろうから。

「……次から、紅茶を淹れるときはティーカップを2つ、用意すること」

 ‬だから、礼司にはそんな言葉しか与えることができなかった。自分にできることはあまり多くはないのだから。

「はいっ!とびっきりの紅茶をご用意してお持ちしますっ!」

 ‬それはとびきりの、明るい笑顔だった。

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