当直の医師
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。部屋の壁掛け時計が時を刻む音だけが鳴り響く。
現在の時刻は1時50分。夜もこれからさらに深まろうかという時間帯。ようやく仕事がひと段落したので俺
は病院の当直室で寝ようと思っていた。医者である俺は忙しい。今日は当直の日で朝9時から次の日の9時ま
で病院にいなければいけない。夜中に急患が来る可能性があるため、必ず一人は医師を置いておかなければ
ならない決まりだ。だからこうして今日は俺が当直に当たっている。
眠りにつこうとしていると、廊下の方から何やら物音が聞こえてきた。
耳を澄ますとシャッシャッシャッシャッとスリッパをこすりながら歩く足音だった。患者の誰かがトイレで
起きたのだろう―――よくあることだ。
大して気にすることでもない。そう思ったが足音はトイレのある位置では止まらずそのままこちらへと近づ
いてくる。しかもさっきより早くなっている。シャッシャッシャシャッシャッシャッ。なんだ?
急患でも運ばれてきたのか?だったらPHS(病院用の携帯電話)が鳴るはず。
気になって開けっ放しの入り口の方を見ていると、何かが高速で通り過ぎた。通り過ぎる瞬間ほんの一瞬だ
け姿を確認できたがあれは俺の診ている患者だった。しかも全裸。
おかしい。背筋がゾクッとした。俺の覚えている限り、その人はこんな奇行に走るような重度の患者ではな
い。71歳と高齢だが年の割に元気で、受け答えもしっかりしている気のいいじいさんという印象の人だ。
しかしさっきのアレは完全に我を失ったような目をしていた。一体どうしたんだ?
考えているうちに足音が戻ってくる。廊下の突き当たりまで行って引き返したのだろう。再び老人が通り過
ぎる。その目はやはり正気を失っていた。
それから病院全体が騒がしくなった。ドンドンドンと壁やガラスを叩く音があちこちから聞こえてくる。
思わず廊下に出ると、幾つかの病室は明かりが灯っていた。どうやら病室に入り込んでは壁や窓を叩いて
回っているようだ。
本当にどうしちまったんだじいさん。その時、以前看護師長のおばちゃんから聞いた話が頭をよぎった。
「この病院にも病気で急死したり、不慮の病で亡くなった人の霊がいるのかねぇ。地縛霊って奴?同じよう
な病状の人に憑りついて、俺はまだ成仏したくなぁ~いって感じで夜中に暴れたり、動き回ったりするらし
いのよ。ほんとかどうかわからないけどねぇ。」
俺はこの時まさかと冗談半分で聞き流していた。看護師長も別に本気で言ってるわけじゃなく、ただ話のネ
タとして話していただけだろう。
だが、実際にそのような場面に遭遇している現在、冗談では済まされなかった。
「アウアエアオオオオアー」
わけのわからない寄生を上げながら、老人が再びこちらへと向かってきた。その後ろを数人の看護師の女性
が追いかけるが追いつけない。そしてどんどん俺の方に近づいてくる。
ヒィッ。俺は得体の知れない恐怖に駆られ、部屋へと戻った。
それから、警備員を呼ぶ声が聞こえた。事態を見かねた看護師が呼んだのだろう。よし、ここは彼らに任せ
よう。俺は医者だ。俺の仕事は病気の患者を診察して、治すことだ。夜中に暴走した老人をどうにかするな
んて俺の仕事じゃない。俺は都合のいい考えをして寝ることにした。
ベットに横たわっていると、警備員に取り押さえられたのか、いつの間にか院内は静けさを取り戻してい
た。これでようやく眠れる。そう思った時、ドンドンドンドンと窓の方から音がする。
何だ、風か?強風で窓ガラスが揺れている音だと思い、無視しようとする。しかし音は鳴りやまない。
ドンドンドンドンッ。妙にリズミカルに鳴る音。おかしいなと思い俺は窓際のカーテンを開けた。
「なっ。」
窓の向こうにはなんとさっきのじいさんがいた。相変わらず全裸で、窓ガラスをしきりに叩いている。そし
てその目は虚ろで、何故か笑っている。そのアンバランスさが一層恐怖心を煽った。
ヒイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ。もう勘弁してくれよ。
俺は弾かれたようにベッドに駆け込み布団を頭からかぶった。これは悪夢だ。夢なら早く冷めてくれ。
そう願っている内に、次第に意識が薄れていき、気づいたら朝になっていた。
「それは恐らく、ステロイドの副作用だな。」
俺の先輩は答える。翌朝俺は昨晩の出来事を先輩に話した。
「副作用?地縛霊が乗り移ったんじゃないですか?」
「馬鹿野郎。そんな非科学的なことがあるか。ステロイドの副作用の一つに精神症状への影響があるのを
知っているだろう?」
もちろん知っている。ステロイドを投与すると精神が高揚したり、多幸感や情緒不安定になったりすること
があるという。あのじいさんには確かにステロイド治療を勧めていた。
「でも、それだけで廊下を全裸で走り回ったりしますかね?」
「しないだろうな。普通はそれだけじゃそんな風にはならないはずだ。」
「じゃあやっぱり地縛霊の仕業じゃ・・・・。」
「よく聞け、話はまだ終わってない。聞いたところによると昨晩あのじいさん、肺炎でひどい高熱だったら
しいじゃないか。」
そうか、先輩の言いたいことが見えてきた。
「なるほど、高熱で意識が朦朧としている時に、ステロイドの作用があわされば、本人も思いもしない奇行
に走ることがあるということですね。」
「大体そういうことだ。まあ、今回みたいなのはレアケースだろうけどな。だから安心しろって。こんなこ
とが毎回あっちゃステロイドなんて怖くて使えん。」
はっはっはと先輩は笑う。原因がわかって俺はほっと胸を撫で下ろす。
「いやー昨日はどうもお騒がせしたようで。」
後ろ頭を掻きながら他人事のように謝るじいさん。ちゃんと服も着ている。
いつもの診察の時間。じいさんはすっかり元に戻っていた。聞けばあの後警備員二人に取り押さえられ、無
事に元の病室に戻されたという。
原因は分かったけどそれでも、こんな人が突然ああなってしまうなんて怖すぎる。
※医学的な知識は適当です。鵜呑みにしないで下さい。
レジェンドシーカーズという小説を連載しています。そちらも是非よろしくお願いします。