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89 生ける罠と怪物少女

 名を忘れられた湖の正式名称は『巨大湖イミトン』といい、何千年前という神代の大昔からそこには一匹の魔物がイミトンと一体化するようにして生息していた。


 世界の理より生まれし原初の神、火神イグニ。

 その次に生まれた、イグニの妹とも呼べる神が水星神ディエプであり、彼女が作った眷属神の末端に位置する存在が『ショウプス』――巨大湖イミトンに巣食う神の血を継ぐ、正真正銘の獣性神である。


 それは上位神とは違って知性や権能において重大な欠落を持つものの、だからこそその神威を惜しみなく純なる暴力として振るうことのできる脅威の化け物だ。中でもショウプスは単純明快な一機能しか持てず、故に神々が地上を去ってからもイミトンに置き去りにされてしまった悲しき化け物ではあるが、それを悲しむだけの感性も持っていないのだから余計に哀れであろう。


 同胞から見捨てられ忘れ去られたも同然のショウプスはしかし忠実に、あるいは律義に古来ただひとつのことだけを守り続けている――それ即ち。

 自らの身に近づく者を捕り殺すことだけを……母なる神ディエプより水禍の生ける罠として生み出された己が義務を、ひたすらに果たし続けているのだ。


 今日もまた獲物がかかった。それは三匹。知性なき獣は殺戮本能だけで優先順位を定め、一匹だけ『おかしな気配』を放つ獲物を先に喰らってやろうとして――失敗。


 完全に身の内に取り込んだはずの獲物がいつの間にか水上へ逃れていたことへ考えるともなしに疑問を抱いたが、それで手を鈍らせるような繊細さや緻密さとは無縁のショウプスは「獲物を逃がしてはならぬ」と水の体をうねらせ、悩むこともせず再度捕獲へと臨んだ。


 いつもより逃げるのが上手い相手のようだが、しかしそんなことは彼にとってはなんの問題にもならず、ただいつも通りに殺すだけ。そうしてこれからの数千年もこれまでの数千年と変わらず同じことをし続けるだけ――ただそれだけの化け物がショウプスなのだ。


 彼に感情はなかった。

 喜びを知らず悲しみを知らず、ましてや――恐怖などというものにも縁などなかった。

 この時までは、確かに。



◇◇◇



「主様よ、いったい如何な手段を用いて湖中からの脱出を果たしたのだ? 主様の出現する瞬間を目にしておきながら、儂にはその方法がさっぱり分からなんだ」


 訝しむジャラザの疑問は当然のものだ。

 何せ彼女の目からは、何もない空間にナインが突然現れたようにしか見えなかったのだから。


 問いかけにナインは「そうだろうな」と然りとばかりに頷いた。


「そこんところが俺にもよくわかってなくてな……いや、どういうことをしたのかはなんとなく理解できているんだが、同じことをまたやれるかっていうと自信がない。だからもう捕まらないようにしないといけな――むっ」


 水面が蠢き、ぐぐぐとせり上がるようにして膨らみ――そして分裂した。

 無数の水の触手が刺突のような勢いで伸びてくる。その的はやはりナイン。湖の魔物は果断かつ徹底的にナインを最初に排除しようとしているようだ。


 これにまたぞろ手足を絡めとられるわけにはいかない。

 もしもう一度水中に取り込まれたら今度こそ逃げ出すことは叶わないかもしれない。


 さっきやったことがナインの感覚通りなのだとすれば、途中の障害などものともせずに何度だって空中への避難が行えるはずだが、如何せん今はそれが確実に再現できるとは断言できない。いざとならなければ可能かどうか不明であり、ならばそんなギャンブルに縋るよりもそもそも捕まらないことを念頭に置くべきだとナインは判断した。


「上だ! お前たちはもっと上へ離れてろ!」


 自分を狙う触手だが、近くにいる二人にもその被害が及ぶことは確実だ。巻き込まないようにとナインは自分から距離を置くことを指示する。


「ご主人様は!?」


「やることをやるだけだ――本気で行くぜ、さっさと飛べ! はあぁあああああああああ!!」


 巻き込まないように、というのは触手に捕獲されることではなくて――自身の本気の戦闘による余波を浴びないようにという意味だ。



 ナインの白い髪がざわりと持ち上がり、広がりを見せる。

 深紅に染まった瞳が昂然と輝いて光を放つ。

 不可思議なオーラを全身から立ち上がらせ……彼女はここに約一月ぶりの『覚醒』を果たした。紛うことなきナインの全力全開の姿である。



 それを見たジャラザは鋭くクータへ呼びかけた。


「主様が本域に入られた! 退くぞクータ――こうなっては儂らに出る幕はない!」

「うんむむ……、わかった」


 態度に悔しさを滲ませつつも、二人は連れ立って上空への避難を開始する。

 その下では迫る触手の一本一本を丁寧に拳で迎撃している、彼女らの主の姿があった。


「…………」

「そう無念がるなクータ、お主の気持ちには痛いほどに共感できる。何せ儂も同じ心境にいるのだからな。しかし、こればかりは焦ったところで仕様がない。少しずつ強さを身に着けていくしかあるまいて……」

「……うん、そうだねジャラザ」


 焦って強くなれるなら苦労はしない。クータも頭ではそれを理解している。しかし心が急かすのだからどうしようもない。もっと焦れ、もっと強くなれ――一秒でも速く、一歩でも遠くへ。そう囃し立ててくるのだ。


 自分だってちょっとずつは成長していると思っている……以前にはできなかったことができるようになっているし、戦うごとに実力を増している自覚はある。

 しかしその成長速度は緩やかもいいところで、では翻って主はどうか? ナインだって成長しているのだ、しかも元の強さに拍車をかけるように、クータとは比較にならない早さで。


 エルトナーゼでの経験からナインは一皮むけたようで、力の使い方を知り、新たな能力を得た。

 ますます高みへと昇った――それがクータを余計に焦燥へと駆らせるのだ。


 強さを増した主人への祝福と同居するようにして『置いていかれるのでは』という胸に重く鎮座する著しい不安があった。


「……分かっておる。分かっておるとも、クータ。お主の不安は儂の不安も同じよ。まったく強すぎる主人を持つのも困りものだな……しかし。それでこそ、だとは思わんか? 経緯は違えど儂らは共に主様の圧倒的な力に惚れた身の上同士。儂がお主の気持ちを読み取れるように、お主にも儂の感情がそのまま伝わっておるのではないか? 即ち主様の背中を追いかける喜びというものが、な」


「ジャラザ……、うん、わかるよ。だからクータは、ご主人様の戦ってるところが大好きなんだ」


 大好き、だから。

 その背中が見えなくなるほど引き離されるわけにはいかなかった。


「がんばろうね、ジャラザ」

「うむ。落ち込んどる暇は、なさそうだしの」


 二人の見据える先、湖面上にて繰り広げられる――怪物と魔物の激闘を目に刻みつけながら、そう誓い合った。



◇◇◇



「おっらあ!」


 犇めく触手を薙ぎ払い、ナインは自ら湖面へと近づいた。

 飛行能力を身に着けようが結局のところ殴るしか能のない彼女は敵へ接近しないことには文字通り手も足も出ない。なので危険を承知の上で湖の魔物のどてっ腹と思わしき部分へ拳をぶつけるべく急下降するナインだが、言うまでもなくその行為は敵にとってもまたとない好機となる。


「!」


 ナインの視界に広がる水面がぐりゅりと廻り、まるで邪龍が如く蟠り――飛び掛かってくる。疾い。避けられぬと察したナインはしかし自らの速度を緩めることはせず、むしろ勢いそのままに、水龍とでも称すべきその化け物へ猛然と飛び込んでいった。


 拳閃が奔る。

 物量で言えば比べるべくもない両者はほんの一瞬、激突のその瞬間だけ均衡を見せた――かに思えたが、水龍はあえなく爆散。

 水滴どころか霧状にまで粉々となって飛散していった。


 ――手応えがあった。


 ナインはぐっと拳を握り込み、たった今殴った感触を体が忘れぬようにと反芻させる。

 彼女の打ち込んだ拳には本来なら破壊し得ぬはずの形なき水の魔物を、けれど確かに『破壊』したのだという奇妙な実感があった。


 ――勝てる。この拳は奴にも通じる。


 どう戦えばいいのかすら判然としなかった相手に対し勝利への道筋が見えたことでナインの意気込みはより高まる。


 だが問題は、湖のどこをどう殴ってやれば「致命傷」に至るのかがまったくの謎であることと――それともうひとつ、彼我の射程のこと。


(そうだ、悩む前に近づかねえと! とにかく触れられる距離じゃないと始まらんからな!)


 何はともあれ接近しないことには話にならない。


 再度そう結論付けたナインが急下降を再開させる。


 すると湖面間近にまで迫った彼女の四方から飛び上がるように、無数の触手が鎌首をもたげた。だがそれらは先程までのようにがむしゃらにナインへ向かってくることはせず、何をするつもりかとナインが目を向ける先で触手同士は絡まり合うようにして太さと体積を増幅させていく。


 やがてそれらは無数から数本へと数を落としつつもまるで巨大な塔が如き圧巻の威容を手に入れてしまった。


「おいおい、マジか……!」


 湖上の塔が倒れる(・・・・・)

 触腕は巨大さ故に一見緩やかに、されど実態は恐るべき迅速さで、逃げ場のないナインへと殺到した――。


作中で名を呼ばれないショウプスくん……誰も知らないからね、しょうがないね(辛辣)

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