88 湖中の脱出劇
湖中へ引きずり込まれたナインは、幾重にも驚愕を重ねていた。
(なんだ、これは――何が起こってる!?)
水に捕縛されるという異常事態。しかも明らかに意思を感じさせる動きで水流が蠢き、どんどんナインを湖底へ沈めようとしてくるのだ。
もがく手足を絡めとるように、明確な殺意を伴って彼女の足掻きを封じる。
水が、重い。
当然水中にいるのだから抵抗はあって当たり前……などという常識を笑い飛ばすような超過負荷。
ジャラザの言っていた意味がナインにもよく分かった――奇怪なまでに全身に圧し掛かるこの水は、確実にただの水ではない。
(まさか! 湖の魔物ってのはまさか、この湖自体だってのか……!?)
水に捕り殺されかけている事実を踏まえ、ナインもその結論に至ると同時に、強く歯噛みする。どうやら自分は化け物の腹に収まってしまっているらしい、と現状の難局具合を正しく認識したのだ。
静かだったはずの湖面の一層下は激流となって渦巻き、ナインの脱出を阻む。必死に泳ごうとする彼女はしかし、肉体のスペックをフルに生かしても浮上が叶わない。重く激しく絶えのない水流はまるで世界そのものがナインを封印するかのようにその力を十全に発散させはしなかった。
(――『ナインヴェール』!)
窮を極めたナインは、先立って得た力のひとつを解放。
虹色の守護幕を体に巻く。
エルトナーゼではヴェールで街を覆うという暴挙を為したが、本来の用途で言えばこれが正解に近い。即ち己が身に纏わせることで敵の攻撃から身を守るという用途だ。
彼女の期待通りにヴェールは激流の圧を和らげてくれた。
(よし、これで少しはまともに動ける……とはいえ! これだけじゃあ『焼け石に水』って感じか……!)
水を相手に追い詰められている状況の喩えとしては些か適切ではないが、表現としては間違っていなかった。水圧を弱めたところで根本的な解決には至らない。
(し、沈む……これでも上を目指せない! ちくしょう、こうなったらやれるだけやってみるしかねえな――ふんぬっ!)
ナインにやれること。
それ即ちいつも通り、ただ殴るだけ。
しかし今回はその殴る対象が見当たらない――否、水として見渡す限り視界中に充満しているが故に標的とは見なせない状態であり、だからこそ彼女の怪力がその真価を発揮できるかと言えば甚だ疑問であった……が。
そこはやはり怪物少女。
振りかぶって、湖面を目掛けて拳を振るうと。
常識外れのパワーでもって湖中に風穴を空けることに成功する。
どっっぱん! と湖畔の景観に響き渡るような爆音が鳴り、摩天の水柱が立ち昇った。
(やった! ここから脱出でき……んなっ!?)
ナインの目が見開かれた。
なんと空いたはずの大穴が、弾け散ったはずの水が、瞬間的に再集合して埋められ……逃走へ移ろうとする間もなく出口を塞がれてしまったのだ。
まるで映像の早戻しを見せられているかのような光景。
――絶対に逃がさない。
そう告げられているような気がした。
(こいつ……! さては俺を端から狙ってやがったな! だから最初に俺に手を、水の触手を伸ばした! まさかリーダーが誰だか分かっててやってんのか? それとも魔物としての直感みてーなもんが俺に食指を向けさせたのか――まあ、どっちでもいいか。これはむしろ『幸運』なことだ)
本心からナインはそう思った。湖の魔物が自分をいの一番に攻撃してくれて良かった。
ここまで本気で殺そうとしてくれて、本当に良かった。
何故ならこうして自分を仕留めようとしているこの瞬間は、クータとジャラザへそこまでのリソースは割けていないはずだから。
自分が死なぬうちは二人の安全は保障されるだろう――それが分かったナインは僅かばかりの安堵を得たが、しかし問題はその自分だ。
このままではナインの命の保証はない。
(ぐっ、ますます勢いが強くなってやがる……ヴェールを潜水服代わりにしても、とてもじゃないが抑えきれん……!)
沈む、沈む、沈む……怒涛の勢いでナインは湖の底へ引きずり込まれる。
(ふ、深い! どこまで深度があるんだこの湖は!? このままじゃまったくの暗闇で永遠に身動きを封じられちまう!)
ヴェールの効果かそれともナインとしての肉体が故か、呼吸の苦しさはない。
しかし「水中にいるのだ」という意識のせいで息苦しさのようなものを感じるし、視界が加速度的に悪くなることで、湖面の光が急速に遠ざかっていくことで――少女はまるで臨死体験を味わっているような気さえしてきた。
本能が警鐘を鳴らす。
レッドコールが鳴り響く。
生物としての限界状況、危機的環境から逃れよと訴えてくる。
(ふっざけんじゃねえぞ……! 誰が、こんなとこで、死んでたまるかってんだよ!)
追い詰められたナインの怪物性が牙を剥く。
生存に向けて全細胞が働きかける。
上だ、とにかく上を目指すのだ。
この水中という牢獄からどうにかして脱出するのだ……!
――刹那、ナインの脳裏にイメージが浮かぶ。
水流も水圧もまるで無関係とばかりに、一足飛びに湖面から飛び出す己の姿。
それは飛行ともまた違った何か。
A地点からC地点を目指す過程のB地点――というものをすっ飛ばし。
AからCへ直接『跳ぶ』感覚。
閃きが走った。
(これだぁっ!)
◇◇◇
「どこだった!? もっとこっち? それとも向こう!?」
「いやっ、ここだ! 水柱が上がったのは間違いなくこの場所! 主様はこの真下にいるに違いない!」
翼で飛ぶクータと水泡に乗って移動するジャラザは主であるナインが起こしたと思しき水の爆発を目印に場所を移していた。
全ては攫われた主を見つけだすためだが、しかし湖の魔物の性質を考えれば不用意に湖面へ近づくわけにもいかない。
そうなれば主の二の舞となり、二次被害が発生することは目に見えているからだ。
「この距離を保たねばならん。触手が迫ろうが容易に対応せしめるこの距離を……」
「でもこれじゃあ、ご主人様を探せないよ!」
無論そんなことはジャラザとて分かっている。だから彼女は考える。自分のすべきことは何か――それは先程目にした水の爆発にこそ答えがあった。
「あれだけ巨大な水柱が、まるで幻であったかのように一瞬にしてかき消えた。それはお主も覚えておろうな、クータよ」
「う、うん……クータたちを閉じ込めてた檻の、直るスピードとはぜんぜんちがう……」
クータの返答に、我が意を得たりとばかりにジャラザは強く頷いた。
「その通りよ! 儂ら二人を合わせたよりも遥かに、主様単身に湖の魔物は警戒を示しておる! だからこそ爆ぜた湖面は即座に元通りとなり、だからこそ! 主様は儂らのように水の檻から逃れることが叶わなかった――の、だとすれば」
そこまで言われればクータにも、彼女がやろうとしていることが理解できた。
「クータたちも、手伝うんだね!」
「うむ、それしかあるまい。儂らの最大火力を湖へ、それも主様が沈むこの場所へぶちこむのだ。どこまで『足し』になるか定かではないが、しかし現状これしか手はない!」
二人は頷き合って、タイミングを計る。お互いに寸分たがわぬ同時攻撃を繰り出せば単純に威力は足し算になるからだ。ほんの少しでも湖の魔物の体(?)に衝撃を与えられれば――そしてそれに気付いたナインが続けざまに拳を振るえば、脱出の機が作り出せる、かもしれない。
全ては可能性、それも賭けるに十分な勝機があるとは言い難い一縷の望みでしかないが、ジャラザの言う通りこれくらいしか打てる手はないのだ。
それを承知しているからこそクータもその案に乗った。
「熱線――!」「瀑泡弾――!」
と、二人が呼吸を合わせそれぞれの必殺技を繰り出そうとしたその時。
「わあっ?」
「なに!?」
思わず中断。超必キャンセル。何故なら技を出す必要がなくなったからだ。
「お……無事だったか二人とも。安心したぜ」
クータとジャラザのちょうど中間に、ナインが出現したのだ。
笑みを見せながら全身を覆う虹色のヴェールを解除するその姿に、彼女たちは感極まった。
「ご、ご主人様ー!」
「無事だったか、ではないわ! それは此方の台詞だぞ、まったく!」
ナインに勢いよく抱き着いたクータ。対してジャラザは心配をかけさせるなと怒る。
そんな二人にナインは「ごめんごめん」と謝るが、その視線は下へ向けられている。
湖面が、音もなくうねっている。
その静かだが執念を感じさせる水流の胎動は、湖の魔物が少しも諦めていないことを示唆している。
「主様よ……」
「ああ、分かっているさ……このままおめおめと逃げ出すなんて冗談じゃあねーからな。今ここで、この手で決着をつけてやる」




