86 鳥よ、鳥よ!
「あのー……どちら様でしょうか?」
湖畔にて、どこからともなく現れたかと思えばいきなり大声で会話に割って入ってきたその老人へ、ナインは些か引き気味に訊ねてみた。
「わしは……いや、わしのことなどどうでもいい! おぬしら、ここを飛んでいくと言ったな?」
「はあ、そのつもりですけど……」
それがなにか? と聞けば老人はくわっと目を見開き、怒鳴る。
「いか――――ん! 絶対、いかん! この湖の上を飛ぶなど自殺行為じゃあ!」
余りの声のボリュームにナインらは全員で耳を押さえつつ、顔を見合わせた。
一瞬の目配せの後に、代表しての質問者が決まった。下がったナインの代わりに一歩分前に出たジャラザが老人へ向き合う。
……ここで一行のリーダーであるはずのナインが下がってしまうあたり、さもありなんと言ったところか。
「ご老体よ、飛ぶのが自殺行為、とはどういうことかの? 何か事情があるのなら仔細聞かせてくれんか」
「……いいだろう」
重々しく頷いた老人は、この湖の恐るべき『魔物』について語りだす。
「わしは若いころに故郷を家出同然で飛び出して、当てもなく村から街へ、街から村への流浪の生活を送っておった。今はこの近くの村に定住しておるが、それはこの湖の魔物を見張るためよ。村の者たちはこの魔物を神聖視すらして、被害を自然の摂理などと言って受け入れておるが……わしはそうは思わん! 遠目にしか見たことはないが、あの大きく巨大な触手! それで通りがかった獲物を空から水中へと引きずり落とす、身の毛もよだつ捕食方法――ありゃ正真正銘の化け物じゃ! 迂闊に泳いだりして被害者が出ないよう、わしはここで警邏をしておるというわけじゃ」
「ほへー……」
触手を持つ水の中に潜む化け物。
そんな単語で思い浮かぶものと言えば、やはり『クラーケン』だろうか。
オーガやヒュドラに続く有名モンスターがここにいるのか、と感慨深い面持ちで湖を眺めるナインだが、どうにも海じゃなくて湖なところにひっかかりを覚えた。絶対とは言わないがクラーケンであれば大海原を根城にしていてほしいものだ。
「なるほど、巨大湖の魔物か……して、ご老体。お主がそうまでして被害を出さぬよう努める訳はどこにある? そちらにも何か理由があるのだろう」
「ぬ……」
その指摘に老人は少しだけ、苦い顔を見せた。
躊躇を感じさせる間の後、彼はぼそりと言った。
「ピーちゃんじゃ」
「む、ピーちゃんとは?」
「わしが生まれた時から一緒だった、ストライクバードのピーちゃんが理由じゃよ。ピーちゃんは、種族は違えどわしの一番の友であり、相棒であり、家族でもあった。故郷を出るときもついてきてくれた。危険な目に遭うといつも助けてくれた。モンスターを追い払ってくれた。崖から落っこちそうになったときもわしを掴んでくれた。遭難しかけたわしを人のいるところまで導いてくれたのもピーちゃんじゃ」
「…………」
ぎゅっとクータがナインの袖を掴んだ。ちらりとそれを見て、ナインは彼女の心境を理解する。きっと老人の話が他人事に感じないのだろう。同じ鳥の種族としてか、ピーちゃんと自分を重ねて同一視しているのだ。たった一人の主人のために献身的に働いたその鳥のことを先輩のように思っているのかもしれない。
しかし、老人の語り口からは、そのピーちゃんがどうなったのか――想像することは容易かった。
「もしや……湖の魔物に?」
気遣うように声も小さく訊ねるジャラザに、老人はぐわっと血走った目を向けた。
「そうじゃ! あの糞ったれの魔物に、ピーちゃんは食われてもうたんじゃ! ここを訪れて、綺麗な風景にわしもピーちゃんも目を奪われた。少し休憩していこうと腰を下ろした、その判断がどうしようもない過ちじゃった! 楽しそうに湖の上を飛ぶピーちゃんを見ながら、呑気に手を振っておったわしの目に……それが見えた。湖から伸びる無数の触手! わしを乗せられるくらい大きかったピーちゃんよりも遥かに太く大きなあのうねる手! ピーちゃんはなす術もなく捕まり、そのまま水中へ引きずり込まれ消えていった……わ、わしは――わしは、何もできんかった! ただその様を、口を開けて見ていることしかできんかったんじゃ!」
ぐっと体を強張らせ、老人は引きつったような声で続ける。
「わしは湖に飛び込むような真似はせなんだ。そんな無謀はできなかった――勇気がなかった! だから隣村に助けを求めた。当然この魔物についても知っているだろうと思ったからだ。だが、彼らは皆『諦めろ』と言った。これが摂理であり掟なのだと。水神様への供物になったのならそれは名誉なことだとすら、わしに! わしにそう言ったんじゃ! ……へたり込んだとも、とてもじゃないがピーちゃんはもう助からん。そんなことは分かっておった。そしてわしには仇を討つだけの力もない」
はぁー……、と腹の底から絞り出すような吐息を漏らして、老人は湖を見た。
太陽の光を反射させてキラキラと輝く水面に目を細めながら――しかしその奥に燻る何かを宿しながら。
「おじいさんはじゃあそれ以来、ピーちゃんのような被害が出ないようにとここを見張り続けているんですか」
ナインの言葉に老人はこくりと頷いた。
「もう今年で三十五年目になるか……わしも歳を取った。湖の魔物はまるで変わらず、あの日と同じように上を通る鳥の群れなんかを襲っとる。それを見るたびにわしは、まるで昨日のことのように……ピーちゃんが水の中へ消えていく様がはっきりと蘇るんじゃ。遠かったが、あの一瞬、確かにピーちゃんはわしを見とった。きっと助けを求めておったに違いない。どうして助けてくれないんだ、どうして来てくれないんだ、と……わしにひどく幻滅しておったろうな――」
「ちがうよ!」
自嘲する老人の言を、クータがぴしゃりと遮った。
驚いた様子の彼に、クータは詰め寄るようにして真っ直ぐ視線を合わせる。
「そんなこと、思うわけない! 幻滅なんてするはずないよ! そのときピーちゃんが思ってたのは、きっと、安心だよ!」
「あ、安心、だと!? 何を言うか、魔物に殺されようという時に、いったい何を安心するというんじゃ!」
「おじいちゃんのことだよ! 襲われたのが自分でよかった、って! おじいちゃんが無事でよかったって! そう思ったに決まってる! 敵いっこない相手に挑んでほしいなんて、そんなこと、思わないよ! だってピーちゃんは――おじいちゃんに生きててほしかったんだから! だからずっと、おじいちゃんを守っていたんじゃないの!?」
「わ、わしのことを……わしを、守って……」
ふるふると老人の肩が揺れる。その瞳には涙が浮かび始めている。嗚咽混じりに彼は、それでも強く首を振った。
「お、お前さんのような娘っ子になにがわかる、ピーちゃんが死に際に、どう思っていたかなんて――」
「わかる! だって……」
またしても老人の言葉を切り、クータは変身する。
ぴかりと光り、それが収まったときにはクータの外見はまるで変わっていた。
それは彼女本来の姿とも言える、真っ赤な鳥の体。
「な、なんと……!?」
驚愕に仰け反った老人の眼前で、クータはすぐ人型に戻った。
「だってクータがそうなんだもん。ご主人様を守るのが、クータの役目なんだよ。だからピーちゃんの気持ちだってわかるんだ。幻滅なんてしないよ、おじいちゃん。きっとね、ピーちゃんは……自分がいなくてもおじいちゃんはやっていけるか、それだけが不安だったと思うよ」
「う、ぅ……」
クータの声は優しかった。暖かく柔らかで、まるで冷え切った老人の心に暖を取らせるような温もりがあった。その眼差しも、思いやりも、老人に届いたのだろう。彼は大粒の涙を流しながら、その場に跪いた。
「うぅ、うううぅぅぅ……っ」
「おじいちゃんが、元気いっぱいに生きててくれたら……ピーちゃんもよろこぶよ」
傍にしゃがみ込み、クータが老人の背中をさすってやると、彼は更にわんわんと泣いた。
それはまるで数十年積もり積もった汚泥が流れ落ちていくような、どこか清浄なものを感じさせる慟哭だった。
クータの真摯な言葉が、老人の胸に深く刺さっていた楔を抜くことに成功したのだろう。彼は罪悪感で埋め尽くされていた胸中に、新しい何かを迎えるだけの余裕を取り戻すことができたのだ。
ようやく老人の滂沱が収まって、クータに礼を言いながら立ち上がった。
「ありがとうな、クータちゃんとやら。こんな孫くらいの子供に励まされておいおい泣くなんて恥ずかしいことじゃが……けどすっきりしたぞ。もう少しだけ、前向きに残りの人生を生きていけそうな気がするわい」
「これからも見張りを?」
「そのつもりじゃ。やはりピーちゃんのような犠牲を、わしは出したくない。いくら村の者たちが『自然のこと』だと説こうが、こればっかりは譲れん。わしは湖の魔物に食われていい命などひとつもないと思っとる」
決心の表情でそう言い切った老人に、ならばとナインは問いかける。
「おじいさん。ピーちゃんの仇を討てるとしたら……今でも討ちたいと、そう思っていますか?」
怖い部分もあるけどクータはいい子です