9 遭難中にペットを飼いだすのは正しいか否か
(いやー、参った。すっかり迷子だな)
ふう、と息を吐きながら辺りを見回すナイン。フードの奥から眺める景色は、右を見ても左を見ても背の高い木々が生い茂るばかり。進めど戻れど、風景が一向に変わらない。
いったいここはどこなのか。
(全力で逃げ出してきたからなあ……まあたぶん、エルサク村と街の間にあった巨大な森に入ったんだろうけど)
おおよその推測はできるが、それに意味はあまりない。問題は方向感覚を失っていることにあるのだから。
どっちが村で、どっちが街の方角か、まったく判別がつかないのだ。
一度木の上に登って高い場所から見渡してみたのだが、地平線は緑一色であった。どこまでも森が深く続いている。しばらく無言でその光景を眺めたナインは、すごすごと木を降りたのだった。
(マルサの地図はやっぱり、かなり正確に縮尺されてると見るべきかな。描いてあった通りに、この森はとんでもなく広大だ)
こんなことならもっと早い段階で来た道を戻るべきだった。それこそ森に入ったその時点で、迷うかもしれないと判断することくらいはできたはず。そんな考えすら浮かばなかったのは、エイミーという怪しい少女から逃げおおせることに集中し過ぎていたからだ。森の入り口でナインは、躊躇するどころかむしろこれ幸いとばかりに突入しずんずんと奥へ進んだのだった。
それも偏に、身を隠すためである。
見つからないためには野原を駆けるよりも鬱蒼とした森林に身を置くほうが遥かにいい選択。それはそうだろう。その証拠に、こうしてナインは無事にローブ少女からの逃走に成功しているのだから。
ただ、現在位置の把握という点では、まったくもって賢くない選択であった。
あっちへふらふら、こっちへふらふら。食事も睡眠も不要なため、迷ったまま衰弱死という心配こそ無用だが、そのせいでナインの考えなしに更に拍車がかかってしまい、遭難という一大事をまるで深刻に捉えることができていなかった。
そんなこんなで、森を彷徨いだして丸一日が過ぎようとしていた。
その間に、気になることがひとつ増えた。
(……んー、こいつはなんなんだろう?)
自分の上空、木と木の隙間をパタパタと飛び回る赤い鳥。
この鳥、どうしてか昨日顔を合わせてから、ずっとついてくるのだ。目が合った瞬間に鳥の瞳がハートマークになった幻視をしてから嫌な予感はしていたのだが、こうなるともはや確定的だ。
何故か気に入られてしまった、ということらしい。
クウ、クウ、と鳴きながら上機嫌に頭上を飛ぶ小さな体躯の鳥に、呆れたような視線を向けながらも、ナインは決して邪険に扱おうとはしなかった。なんだか迷子の自分を煽ってきているような気がして不愉快に感じないでもないのだが、道に迷ってささくれ立った心がそんな風に勘違いさせているのは分かっているし、そうでなくても動物相手に本気で怒りだしたりするつもりは毛頭ない。
見かけは愛らしい鳥なので、冷静に見れば荒れかけた心を癒す要因にもなりそうだ。ならば邪険にするどころか、なるだけ可愛がってやる必要があるかもしれない。赤い鳥はさながら今の自分にとって、乾いた風の吹く砂漠に一片の恵みをもたらすオアシスのような存在なのかもしれない――などと考えながら、行けども行けども同じ場所にしか思えない森の景色を、ナインはどうにかやり過ごす。
まともに現実を受け止めていたら気が落ちて仕方がないからだ。
(それにしても本当に参った。上が枝葉で覆いつくされているせいで昼夜の区別もつかんとは。こりゃ、気が滅入る)
思い出したように樹上へ昇ってみるのだが、そのたびにナインは目を見開くことになった。いつの間にか落ちていた陽に驚いたし、かと思えばいつの間にか朝になっていてまた驚かされた。方向感覚だけでなく、時間感覚までもあやふやにさせる。
げに恐ろしきは魔の森かな。
だから、自分以外の動くものが傍にいてくれるのは、そういう意味ではありがたかった。どちらに目を向けてもまんじりともしない木々しかなく、静謐と言えば聞こえはいいがすべてが死に絶えたかのような静けさのこの空間は、精神的にあまり良くない。フィトンチッドがどうたらこうたらで森林浴は体に好い、とはよく耳にする謳い文句ではあるが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしだ。帰り道の保証されたトレッキングならまだしも、この暗い森を日がな一日中あてもなく歩き回るのは、どう考えたって心身に悪影響しかないだろう。
ともすれば失調を起こしそうな状況の中での救いが、前述したように赤い鳥のやたらに元気な姿である。何が楽しいのかひたすらご機嫌に飛び回る彼(?)の底抜けに明るい様は、ナインの気持ちを少なからず朗らかにさせた。
「……あー、そういう意味じゃ、こいつらも救いっちゃ救いかな?」
ぼそりと呟いたナイン。その視線の先には、蜘蛛がいた。それもただの蜘蛛ではなく、脚が左右に十本ずつ生えている巨大な蜘蛛だ。明らかに前の世界で見かけたそれとは違う。
この世界のモンスターの一種、と見て相違ないだろう。
「こいつは初めて見るな。虫系のやつが多いのかね、この森は」
これまでにも百足らしき生き物や刺々しい装甲を持つ甲虫らしき生き物に襲われ、そのことごとくをナインは拳ひとつで撃退していた。他にも襲い掛かってこなかったのでただすれ違っただけの蝶型のモンスターや、こちらに見向きもせずどこかへ急ぐ蟻の群れなどにも出会った。そのすべてがナインの常識とはかけ離れた部位や巨体を誇っていたことは言うまでもない。
虫型のモンスター。最初こそその不気味さに生理的嫌悪もあって引いたものの、もう慣れたものだ。もはや蜘蛛型のモンスターごとき、よっぽど奇怪な生態でもしていなければ特別目を引くものでもないし、まして興味を持ったりもしない。
どうやらこの蜘蛛も自分を襲おうとはしていない。これで上手く隠れられているつもりなのかどうか、枝の隙間にすっぽりと全身を入れて身じろぎもしないまま、密かにこちらを窺っている。
バレバレの隠伏はともかくとして、向こうから手出しをされない限りは、こちらからも積極的に絡む理由はない。なのでそのままナインは蜘蛛の潜む木の横を、なんの気負いもなく通り抜けた。予想通り、何も起こらない。腹が減っていないのか、はたまたナインの危険性を鋭く感じ取ったのか。何にせよ蜘蛛は賢い選択をした――そこまではよかった。
しかし、その次で誤った。
やはり蜘蛛は腹が減っていたのだろう。それでも何かしらの予感でもあったのか、ナインには手出しをしなかった。我慢したのだ。だが次に目に付いた、小さな鳥に関しては手出しをしない理由がなかった。ナインが通った後ろを、警戒心のかけらもない様子で小さな羽を忙しなく動かしながらついていく鳥へ、蜘蛛はノータイムで糸を吐いた。
「クウッ!?」
どうやら鳥のほうは蜘蛛の存在にまったく気が付いていなかったらしい。瞬時に白い糸に絡めとられ自由を無くし、目を白黒させている。あげた鳴き声は、もはや悲鳴に近かった。
心なしか蜘蛛の顔に愉悦が浮かんでいるようにも見える。捕まえた獲物の狼狽ぶりを眺めながら、自身の糸を手繰り寄せようとする。勿論、食すために。大きな餌とは言えないが、実に旨そうだ、と。その中身を啜る楽しみを全面に発散させる蜘蛛は、やはりどこか笑っているように思える。
ところが。
「おいこら」
蜘蛛はその言葉に凍り付いた。さほど耳はよくないが、その決して大きくない声は妙にはっきりと聴覚に刻まれる。鳥から視線をずらせば、いつの間にか自分の真下。木の幹に手で寄りかかるようにして、ナインが立っていた。
その姿を蜘蛛が認めた瞬間、彼女の足がブレた。蜘蛛が足場としている木を蹴りつけたのだ。
轟音が響く。
「!?」
今度は蜘蛛が目の色を変える番だった。一瞬、何が起きたか分からなかったが、どうも自分は地面に落ちてしまったらしい。十六個ある眼を駆使して状況を確認すれば、辺りにはさっきまで木だったものの残骸が散らばっている。
泰然と佇むナインの横には、見るも無残な破壊痕があった。地面の大部分ごと蹴り抜いたその足によって、地表は抉り抜かれ、直撃した木はバラバラになった。蜘蛛がそう理解するのに、いかに眼が多かろうと多少なりとも時間がかかった。
呆けたようになっていた蜘蛛は、ナインと目が合ったことでようやく我に返る。手を出してはまずいと判断しやり過ごした相手と、敵対してしまった。原因は不明だが、とにかく向こうはやり合うつもりでいる――実を言うと、これは完璧な勘違いだった。ナインとしてはなんとなく愛着のわいた鳥なので、これまたなんとなく守ってやるかと気まぐれで助けたに他ならない。なので蜘蛛に対して殺意や敵意というものは一切抱いておらず、赤い鳥さえ狙わなければこのまま見逃そうとすら思っているところだった。
――別に、蜘蛛だって生きるために襲ったわけだし? 自然の摂理にどうこう言うつもりはないし?
それがナインの心境だ。
が、まさか蜘蛛に、そんなナインの思考が読み取れるはずもなく。
「シャッ!」
生き延びるために、蜘蛛は戦うことを選んだ。敵の力は強大なれど、自分には絶対の糸がある。そう、どんな強敵が相手でも糸でがんじがらめにしてしまえば自分の勝利なのだと、蜘蛛には揺るぎない自信があった。実際、この蜘蛛の出す糸は強度に優れ、張力や靭性も驚異の一言であった。森の中にはこの糸に対抗できる存在はいない。少なくとも一度その身を包まれてしまえば、力で脱出など不可能。それはある種、森に住まうものたちにとっては常識と言ってもよかった。
梱包蜘蛛。通称ラッピングスパイダーとも呼ばれるその蜘蛛は、可愛らしい名称とは裏腹にその糸の凶悪さで恐れられてもいた。
そして今回も、やはりその糸で勝った。
蜘蛛はそう確信した。
放った糸が、確かに白い少女を拘束した。彼女は興味深そうにためつすがめつ糸で覆われた自分の姿を眺めるだけで、碌に抵抗しようともしない。まあ、仮にどうにかしようと抗ったところで、決して糸は切れないのだが……。
ニヤリ、と蜘蛛は今度こそはっきりと笑みを浮かべて脚を動かし、滑るようにしてナインのもとまで移動した。もはやナインは手足を封じられ、自由に動かせるのは首だけという絶体絶命の状態だ。少し外れた場所に転がっている鳥も、今からとどめを刺そうとしている蜘蛛にも、そうとしか見えなかった。しかし唯一、今まさに殺されかけようとしているナイン本人だけは、露ほどもピンチなどとは思っていなかった。
それもそのはず。
「ふんっ」
両手両手足に力を込めれば、否、力など込めずともただ広げればこの通り。
いとも容易く、ナインはラッピングスパイダーの強靭なはずの糸を破ってしまった。
「……ッ??!」
目の前で信じがたい、信じられない、信じたくない光景を見せつけられた蜘蛛は、複数の眼をすべて飛び出さんばかりに見開いて驚愕している。
そんな蜘蛛に対してナインは。
「見逃す理由は、もうないな」
そう冷たく言い放って、拳を振るった。
ぼん、と気の抜けた音がした。
哀れ蜘蛛は頭部から胴体にかけてを失い、しばらくわさわさと脚を痙攣のように震わせたあと、急にぴたりと動作を止め、そのまま二度と動き出すことはなかった。
そんな蜘蛛の死骸を一瞥してから、ナインは地面に転がったままの鳥を助けてやるべく、その傍に寄っていった。
「おい、無事か?」
ぶちぶちとその体に絡まっている糸を千切り取ってやる。すると自由を取り戻した赤い鳥は嬉しそうにナインへとじゃれついた。
「クウゥ!」
「わぷっ、なんだよいきなり……ってお前、すっごいふさふさなのな。気持ちー」
その羽や体毛の柔らかさにナインは驚く。こんな風に無防備に甘えられ、こんなにも撫で心地のいい感触を知ってしまえば、ますます愛着がわいてしまう。見た目がまず愛らしいし、その両手に収まるサイズ感も相まって非常にそそられる。
これ即ちペット欲。
生き物を飼ったことがないナインなので、その命に責任を持てるかと問われると渋い顔しか返せないのが辛いところではあるが、どのみちこの鳥は自分からついてくるのだから、多少愛でたところで罰は当たるまい。
先ほどの蜘蛛の襲撃もあり、目を離すとぽっくり死んでしまうのではないかという点も、ナインの庇護欲を強くさせた。
――俺が守護らねばならぬ。
そう思ってしまったのも、無理はないだろう。
「よし、名前をつけよう」
飼うからには呼び名が必要。そう思い至ったナインは、しばし熟慮を重ねてとある名を思いついた。
「くーくー鳴くから、クータだな」
日本っぽく著すなら、くう太だろう。異世界なのでそれっぽく、「クータ」と命名したのだ。
「なあ鳥さんよ、今日からお前の名はクータだ。俺はそう呼ぶことに決めた。ご感想は?」
「クウ!」
「おお、気に入ってくれたみたいだな……あ?」
同意を得られたらしいことにほころんだナインの顔が、訝しげなものに変わった。目の前でクータが突然、発光を始めたからだ。
「なんだなんだ!? おい、クータ!」
「クウゥウ!」
一際大きくいなないたクータは、勢いよく翼を広げて光を発散させた。輝きの収まったクータは、外見こそ元とそう変わらないものの、明らかに一回り……いや、二回りほど大きくなっていた。
「えー!? 何が起こった? 進化か、進化したのか!? ゲーム的な!」
それともクータの種族はこういった成長の仕方が標準なのか、とナインは混乱する。この世界ならばそういったことも十分あり得る。ただ、進化にせよ成長にせよ、何がきっかけで起こったのか。
「経験値、か? 俺が倒した蜘蛛の経験値がクータにも入ったとか……」
自分で推測していてなんだが、ゲーム脳が過ぎる気もする。目にしている現実を空想世界然とした発想に当てはめることへ脳の冷静な部分が「それでいいのか」と懐疑的に訊ねてくるが、これはもう仕方がない。何故ならここはモンスターがいて魔法があって、何でもありを体現したような世界なのだ。仮定でもいいから自分なりの理解をしておくべきだろう。
「レベルとか、あんのかな。あるんなら自分のレベルがめちゃくちゃ気になるな」
試しに、そう意識して自分の体や、クータをまじまじと眺めてみるも、数値の表記などは浮かんでこない。そこまで期待はしていなかったが、やはりステータスを見たりすることはできないようだ。
少しがっかりするナイン。
「ま、そうだよな。そういうのも多分、魔法だか道具とかが必要になるんだろうし。……魔法、見てみたいなあ」
エイミーという少女の放った人魂。あれは、魔法だったのだろうか? だとしたら属性は間違いなく闇だろうなとナインは思った。
俺も魔法使えないかな、とぶつぶつ言いながら手の平を見つめる。ナインはそこに炎を出すイメージをしているようだが、当然なんの手応えも返ってこない。しかし不屈の思いで燃え盛る炎を具現化せんと唸っていると――
ごう、と眼前に炎が出た。
「おお!」
早速魔法を習得か、と目を輝かせたナイン。しかしよくよく見てみれば、炎の出現元は自らの手ではなく、クータの口からだった。
「クー♪」
器用にも炎を吐き出しながら鳴き声を響かせるクータ。その声音はあからさまに「褒めて褒めて!」と訴えるものだった。ナインが魔法を見たがっていることを察し、実演してみせたのだ。なんと賢く健気なペットであろうか。
「………………」
ただし、ナインとしては手放しに褒めてやる気にはなれなかった。自分が出した炎だと勘違いした恥ずかしさもあったし、クータの想定以上の知能にも驚かされたし、何より動物の身でありながら魔法が使えるという事実に衝撃を受けて、固まるしかなかったのだ。
「クー? ……クーッ!」
どこか遠い目で反応を示してくれないナインにどう思ったのか――おそらく自分の頑張りが足りないから褒めてくれないのではないか、とでも考えたのだろうが――クータはもうひと踏ん張りをして、炎の勢いを強めた。
どごうっ! と猛烈な火力がクータの嘴から放たれる。忘れないでほしいのは、ここは緑深い森の中だということ。当然周囲には、茂みや樹木が生い茂り、そしてこれまた当然だが、そういったものは炎に巻かれるとどうなるか。
大森林火災の発生である。
「――うおおおおおおっ!」
瞬く間に燃え広がった炎を鎮火すべく、ナインは拳を振るった。焼かれた木から優先して薙ぎ倒し、踏み潰し、木屑ごと火を消し飛ばす。火の粉の一片すら残さず消化したのを確認してから、すぐに次の木へ。これを神速の速度で繰り返すことで、どうにか森一面へ広がる前に火の手を食い止めることに成功した。
異世界に足を踏み入れてから初めてと言ってもいい、本気も本気の戦闘がそこにはあった。