80 空が晴れたら
少しだけばつが悪そうに、ナインはぼそりと言った。
「別に、お前まで手にかけようなんて、俺は思ってないさ」
「そう。なら良かったわ。でも私は――いつかあんたに、復讐する気でいるから、そのつもりでいなさいね」
「は?」
ナインは目を丸くする。
復讐と言われたのか、今?
「当然でしょう、あんたが姉様を下したんだから。そうじゃなくても、私はあんたに負けたくないと思っていたの。でも私も姉様も敗北してしまったからには、きっちり二人分のリベンジをさせてもらうわ。いつか必ずあんたをぎったんぎったんにしてやるから覚悟なさい」
「ええ……」
それは当然なのか? とナインは頭を悩ませるが、自分の言うことにヴェリドットが理解を示さなかったように、ユーディアの言い分を自分が理解することも難しいだろうと結論付けた。
こういう場合に重要なのは理屈ではない。折りしも先ほど述べた通り、ユーディアもまたやりたいようにやるだけなのだ。
「ま……いつか、な」
「ええ。今じゃあないわ。私は今よりもっと強くならなくちゃいけない。姉様の力を完全に掌握するにはしばらくかかるだろうし、そしてそれ以上に――あんたよりもまずは、姉様を誑かした不届き者の人間からぶっ殺してやらなきゃ気が済まないからね」
「なに……!」
ナインは驚く。ヴェリドットを唆した黒幕がいることにも、しかもそれが「人間」であることにも。
「ユーディア。お前はそいつのことを知っているのか?」
「いいえ、直接は知らない。会ったこともない。けれど、姉様から受け継いだ記憶で全てが分かったの。そいつは悪意の塊みたいな奴よ。吸血鬼の私から見ても人間離れした人間だわ。楽しそうに笑みを浮かべながら姉様の心の隙に付け入って、妙な種を植え付けていった。きっともうこの街にはいないでしょうけれど……どこにいようとも必ず見つけ出して、この手で引導を渡してやるわ」
「そいつはどんな奴だ? 顔も分かるんだよな?」
「なによ、まさか横取りするつもりなの?」
「お願いだから教えてくれ。そんな危ない奴がいるなら、俺だって放ってはおけないんだ」
「…………」
ナインが「どうか頼む」と真摯に頭を下げるものだから、ユーディアも仕方ないと息を吐きながら話してやろうと決めた。ただし最低限の情報だけだが。
「『そいつ』の名はイクア。『イクア・マイネス』……丁寧にフルネームを名乗っていっている。人間の、娘よ。十三から十五歳ってところかしらね」
「お、女なのかよ……しかもそんなに若いやつが、ヴェリドットをおかしくさせた黒幕だって? 何かの間違いじゃないだろうな?」
「あんた、自分を客観的に見てそんなこと言ってるんでしょうね? 善だろうが悪だろうが、年齢も外見も関係ないわ。腐った奴ってのは生まれつき腐ってるものだし、どんなに見てくれがまともでもツンと臭うものよ。イクアもそういう種類の下種に違いないわ。……姉様の前で、モルモットを見る目で笑っていたのよ、あいつは。許さないわ、絶対に許さない……決して許してやるものか」
怒りに険しい形相を見せるユーディアに、ナインは一抹の懸念を抱いた。
「おい、ユーディア。あまり思いつめるなよ。視野が狭まっちゃお前の姉さんだって浮かばれないぜ」
「だから死んでないってば……ま、いいわ。姉様も自分のことは忘れろだなんて言っていたけれど、そんなつもり私にはこれっぽちもないわ。復讐は決定事項よ。私が私の幸福を想うのなら、報復行為は絶対に必要なの。視野が狭まるですって? 大いにけっこうよ。それだけ目標に向けて集中できているってことじゃないの」
ユーディアはめきり、と拳を握った。そこに内包された力は明らかにナインへ槍を向けてきた時よりも飛躍している。精神的な変化もそうだろうが、ヴェリドットから譲られたありとあらゆる能力が彼女の格を引き上げたのだろう。
彼女の姉と同じく――一段階上のステージへと。
「私は行くわ。姉様の妹として、ここに長居しちゃ人間たちに悪いしね」
「そうだな……いや、せめて復興くらいは手伝っていかないか? 見ろよ、街中あちこち壊れちまってんだぜ」
あんな風に、と広場中央の墜落現場が如き――というかそのまま墜落した結果なのだが――大きな破壊痕を指し示すナイン。
ユーディアは呆れた顔をした。
「あれはあんたがやったんでしょうが……。言っとくわよ、ナイン。何かを直すなんて行為は私にはお門違いなの。私や姉様はね、吸血鬼なの。壊すことこそが専門なのよ。だから手伝えることなんてないわ、なにひとつとしてね」
ばさり、とユーディアは背中に蝙蝠の羽を出現させ、空へと浮かび上がった。
「また会いましょう、ナイン。クータも、そこの新しいジャラザって子も。私は強くなって、いつか必ずナインに勝ってみせるわ。なんだったら三人まとめて相手にしてあげるから――せいぜい首を洗って待ってなさいよ!」
「ユーディア、気をつけろよ! イクア・マイネスってのは聞く限り相当やべー奴だ、迂闊に近づくつとお前だってどうなるか分かったもんじゃないぞ!」
「ふん、心配無用よ。だってどうせまだ奴の居場所も判明していないんですもの。まずは地道に情報収集からだわ」
鼻を鳴らすようにしたユーディアは、それから少し思案する様子を見せてからギリギリ聞こえるかという声量で、ナインにある言葉を告げる。
「姉様を止めてくれたこと……ちょっとだけ感謝してあげなくもないわ。それじゃあね」
まるで憎まれ口のような礼を唱えて、ユーディアは逃げるように飛び立っていった。あっという間に姿が見えなくなったその先をナインが不安げに見つめていると、背後のジャラザがくすりと笑った。
「そう気を揉むことはなかろう。自分が生きていれば姉も生きている、とあやつは言いおった。ならばそう死に急ぐような真似などすまい。態度にも若干ではあるが、以前よりは落ち着きがあったように見えたしの」
「ああ、そうだな……きっと大丈夫だと思いたいけど」
ふう、とナインは息をつく。これで終わったのだと思うと、どっと疲れが出てきたのだ。
「この疲労も体じゃなくて心が感じているもの、か。やっぱりまだまだ追いつけそうにはないなあ……」
「ふむ? 追いつくとは、誰にだ?」
「理想の俺にさ。でも多分、俺が強くなればなるほどあいつももっと強くなるんだろうから……」
一生追いつけることはないのかもしれない。
だが、それでもいいとナインは思った。
ずっと追い続けられる目標があるというのは、素晴らしいことだ。その背中が自分を導いてくれることだろう。ともすれば陥りやすい、強者だからこそ嵌りやすい落とし穴を自分なら――理想がいてくれるなら飛び越えられる。そんな気がするのだ。
「……さ、クータを連れていくとするか。シルニコフさんのことについて、ロパロさんに報告しなきゃならないしな。ピカレさんもいろいろと知りたがるだろうし」
ロパロの悲しむ顔を想像したナインは胸と足が急激に重くなったが、それを悟らせまいと気丈に振舞った。
シルニコフは自分が会った時にはすでに助かりようもない状態になっていたが、それでもナインは助けられなかったことを詫びるつもりだった。あらゆる責が自身にあるなどという驕った考えをするつもりはないが、しかし目の前で消えた命の重みを決して忘れたくなかった――心に刻んでおきたかった。
二度と容易く負けることがないように。
「そういやジャラザ、よく俺についてきてくれる気になったな? 最初のことじゃなくて、さっきのことだけど……、負けたすぐ後だってのにさ」
「そういう時にこそ寄り添うものだろう。クータとてそう言うに違いないぞ」
「…………そうかい」
自分には勿体ない子たちだ、とナインは空を見上げた。
ヴェールは取り払われ、雲も散り散りになり、街中に日光が降り注いでいる。ヴェリドットが最期に見た空模様はおよそ吸血鬼に相応しいものではなかったのだろうが――しかし美しいものではあったことに、ナインはほんの少しだけ救われた気になった。
きっと空も、もうすぐ快晴になるだろう。