76 真・怪物少女、覚醒す
夢で出会ったあの少女は、自分と同一のはずなのにまるで違っていた。
事実、異世界に来た初日、湖に映る自分の顔を見て持った「不気味だ」という感想を彼女には抱かなかった。それは彼女が作り物めいた顔立ちながらも生きた顔をしていたからだ。
邪気を持たぬ子供のように、辛苦を知った大人のように、冥利を悟った仏のように、飢餓を満たす獣のように、ころころからからと笑うから。楽しそうにしながら呆れて怒って慰めて、感情豊かに、それでいて動じず揺るがない存在であったから。
きっとそれこそが自分にとっての理想のナイン。
強い肉体に相応しい強い精神。
十分に体を動かし十全に心を燃やすまさに強度の結晶。
翻って自分はどうだったろうか。……思い返すまでもなく、酷いものだった。呆れられて怒られて慰められた。理想の自分からの叱咤と手ほどきを受けた。指摘された分だけ、殴られた分だけ自分には足りていなかったということだ。
理想は現実をどう思っているだろうか。殴り合ってみてどんな感想を抱いただろうか。期待にはそえられなかったと思うし、そもそも期待なんてされていなかったとも思うが、しかし薫陶を授けてくれたということは即ち背中を押してくれたにも等しく、それは彼女からのエールに他ならないだろう。
自分を倒さなければ戻れないと言われたが結局それは叶わなかった。拳が届いたのもたったの一度、最後の一撃だけだった。それまではいいように翻弄され一方的に殴られっぱなしであったのだ。
どうしても当たらないので最終的にはカウンター、それも少女からの拳を食らった瞬間にこちらも殴るというヤケクソな戦法を取った。四も五も言えないようなみっともない作戦であったがそれでようやく初撃を決めた――とても褒められたものではないが、それでも理想の少女は「それでいい」のだと何故か自分なんかよりもよっぽどやり遂げたような顔で消えていった。
かけようとした言葉も空白にかき消され、気が付けば自分一人だけが教会にいた。現実世界に帰ってこられたのだと理解するには数瞬ばかり要りようだったが、すぐにやるべきことを思い出して――そしてここまで来た。
倒すべき敵の前へ。
◇◇◇
「何が最も足りてなかったかって、それは必死さだ。俺には必死さが足りてなかった。この体に胡坐をかいてふんぞり返っていたんだからそれもそうなる。本気を出せば負けるはずがない、失敗するはずがないなんて思い上がっていたんじゃなりふり構わず戦おうなんて発想が出るはずもない。俺はもっと必死になるべきだった。持ちうるものすべてを使って、何がなんでもお前を倒す。そう覚悟を決めるべきだった」
エルトナーゼ中央区、大広場にて。
満身創痍のクータをジャラザに預け、その間も油断なくこちらを観察してくるヴェリドットへナインは語った。先の失敗と、それを挽回すべく自身が夢の中で見つけた真実を。
当然、ヴェリドットには彼女が何を言っているのかさっぱり分からない。
「その言い方……まるでもっと必死になれば私に勝てたとでも言いたげに聞こえるわよ。それこそ思い上がりじゃなくて? 貴女は既に持ちうるもの全てを使って私に敗北したのよ」
何故ナインがまだ生きているのか、についてはひとまず置いておき。
どうも彼女が今一度自身の前に立ちはだかろうとしているらしいことにヴェリドットは自尊心を傷付けられた。
二度と歯向かおうなどと思わないほど痛めつけてやったはずだというのに、まだ懲りないというのか――それはつまりヴェリドットの『爪』が甘かったことを意味しており、超越者としての自負を持つ彼女としては同じ虫けらが続けざまに自分の邪魔をしようとしてくるのが許せなかった。
「貴女、また失敗を繰り返そうとしているのよ。貴女は確かに強い、けれど、人間を守ることはできなかった。この街を守ることはできなかった……そうでしょう? いいえそれだけじゃないわ、貴女は罪ありき。住民たちの死は貴女と私の共犯のようなものよ。それなのにまるで自分は何も悪くないみたいに、未だに正義の使徒を気取っているのは都合が良すぎるのではなくて?」
その言葉に、ナインは首肯を返した。
「そうだな。お前の言う通り、それは紛れもなく俺の罪だ」
「だったら――」
「だから」
ならば何故再び同じことをするのかと訊ねるヴェリドットの声を遮って、ナインが言う。
「俺の分までお前が償ってくれ。そのための罰は俺が与えるから」
「……は? 貴女、何を言って……?」
「俺たち二人の罪だ。だけど俺は裁かれるつもりはないから、俺の分までお前が償いを受けてくれと、そう言ってる。お前への罰は責任を持って俺が下そう」
「………………」
ヴェリドットは絶句した。何と言っていいやら彼女には分からなかった――ナインの言っている意味がまったく理解できなかったからだ。
常に精神的優位を取っていたはずの彼女が、今度は逆に精神的に押されている。
「じ、自分の贖罪のために私を裁くと? そして自分は無罪放免だとでも言うの? それはおかしいでしょう、何も理屈になってやしないじゃないの――」
「おい、なあ。そんなに理屈が大事か、ええ? お前だって好き勝手な理屈で街をめちゃくちゃにしてんだろうが。だったらこっちだって同じことをするんだよ、上等だろ? まだ分かってねえようだから言っとくが――俺はなんだっていいからお前をぶっ飛ばしたいだけなんだぜ!」
カッ、とナインの深紅の瞳がより強く輝きを放つ。同時に白髪が重力に逆らうように逆立ち、体中からオーラのようなものを出し始めた。
「これは、魔力……!? どういうことよ、さっきまでそんなもの一切感じなかったのに? それにそれだけじゃない、何か――魔力とは違う何かが……」
「戦闘モードよりも、更に上。覚醒モードとでも呼ぼうか。こっからの俺は一味違うぜ」
覚醒の言葉通りナインから放たれる力は奔流となって周囲へと叩きつけられた。特に相対するヴェリドットには凄まじいまでの圧がかかっている。
(く……何よ、この感覚は――私が怖じ気づいているというの? 吸心鬼たるこの私が? 圧倒的な強者であるはずのこのヴェリドットが!?)
信じがたい思いだが、彼女から感じるプレッシャーは本物である。先の戦闘時とはまるで別人のようだ。
この距離では何をされるか分からないと判断したヴェリドットは後方へ飛んだ。背中は向けずに、念入りの警戒をしながらこの場からの離脱を図った……が、それに大した意味はなかった。
「よっしゃあ! いっちょリベンジといこうぜ――聖冠!」
ナインも飛んだ。
跳んだのではなく、飛んだ。
ヴェリドットは呆気に取られる。つい先ほどまで跳ね回ることしかできなかったはずの彼女がこの短い間に飛行能力を身につけているなどと、いったい誰に予想ができようか?
離れんとするヴェリドットと猛追するナイン。そのまま二人が空へ消えると、場に残されたジャラザは腕の中のクータをそっと地面に横たえた。
「ご、ご主人様……」
「動くでない、生命力が枯渇しかけておる。重態だぞ」
「お、お前……へび?」
「はは、そうかわかるのか。良きかな良きかな。お主は儂とはまた別の勘の良さがあるようだな」
呵々と相好を崩し、ジャラザは言った。
「これから儂のことはジャラザと呼べ。主様のことなら心配無用、あれだけ気力に満ちておるならアレにも後れは取らんだろう……よくぞ持ちこたえたな、クータよ。これにて儂らの出番は終了、後は大人しく治療を受けておれ」
「ちりょう……?」
「うむ。お主に炎の力があるように儂には『水』の力があってな。清流のせせらぎには心身の傷を癒す効能がある。ほれ、体から力を抜け」
クータの全身を青く清い流れが包んだ。ヴェリドットの邪悪な何かとは正反対の心地よい力が、少しずつクータの失われた生命力を取り戻していく。
優しい水音を耳にしながら、緩やかな眠気に誘われたクータがぽつりとジャラザの名を呼んだ。
「む? どうした、どこか特別痛む場所でもあったか?」
「ううん。……ありがとって、言おうとした」
「――ふっ。どういたしましてだ、先輩」
ジャラザは優しく微笑み、寝息を立て始めたクータの治療に専念し出した。
理屈なんてどうだっていいんです
 




