73 怪物少女は目を覚ます
ぱちり、とその少女は目を開いた。
横たえていた身体を起こし、きょろきょろと辺りを見渡す。
その仕草はどことなく戸惑っているように見えた。
しかしすぐに何かに気付いたように、彼女は床に手をついて立ち上がる。
そこはひどく散らかった教会だった。天井には大穴が空いており、落ちた瓦礫であちこちが破損を見せている。天使を象ったような像も半ばから折れ、並んだ椅子も大半が壊れて使い物にならなくなり、羽目板張りの床も剥げるように大小様々な傷が見受けられる……まるで小さな隕石にでも降られたかのような有り様だが、それは当たらずとも遠からずで――それが分かっているからこそ少女は迷うことなく教会の出口へ目をやった。
この場所に用はないのだ。無人であったことを幸いに、破損した天使像になど目もくれず、少女は背を向けて歩き出す。
今の彼女に祈る神はいなかった。
観音開きの大きな扉を開け、外へ。
したしたと足を踏み鳴らし歩く少女の身なりは教会の半壊具合に負けず劣らず酷いものだった。
靴は両足ともなくなっており、誂えたばかりの衣服ももはやそうとは呼べないほどにズタボロの布切れと化して、着ているというより引っ付いていると言ったほうが正しい状態だ。
あやうく局部まで白日の下に晒されようかという、よっぽど困窮している浮浪者でももっとマシな恰好をしていると断言できるくらいにはパンクに過ぎる出で立ちである。
だがそんな己の服装を顧みるでもなく、まるで気にする素振りすら見せずに少女は建物を出てしまった。相も変わらずの曇り空の下、幸運と言うべきか教会の外には人通りがなかった――けれど、どこかそう遠くない場所から絶え間なく声が聞こえてくる。
人の助けを求める声、あるいは、人を貪り食らう魔物の汚い声が。
少女は眉を顰め、声のする方へ向かおうとして……とあるものに目を止めた。
それは地面を這うローブだった。少女にとってはよく見覚えのあるもので、それが独りでに動いてこちらへ近づいてくるものだから、現状のことも一時忘れてそれに目を奪われた。
ずるりずるりとすぐ傍までやってきたローブ。静かに見つめるナインの視線の先で、ローブがばさりとめくれ上がった。
「じゃら」
そこから顔を出したのは、一匹の青い蛇だった。ローブが這っていたのではなく、蛇が運ぶようにして移動していたのだ。
それが分かった少女は薄く微笑んだ。
「わざわざ持ってきてくれたのか。悪いな、手間かけさせて」
受け取ろうと腰をかがめかけたところで、手が止まる。それは蛇にじっと見つめられていたからだ。ただローブを受け渡しに来ただけではないと、そのつぶらな瞳が雄弁に語っている。
少しばかり無言で見つめ合った後、少女はなるほどと理解を見せた。
「お前さんは話がしたいのか。ただ、俺じゃあお前の言葉はわからない。きっとお前は俺の言ってることが、よく判っているんだろうけど……」
そう告げても青蛇は視線を逸らそうとはしない。
何を望まれているのか、少女もよく承知していた。
確かに方法はあるのだ。
青蛇という言語の通じない種族と言葉を介す、たったひとつ少女に取り得る方法が。
「そうだな。そこまで話したいなら――『ジャラザ』。お前の名前はジャラザだ。……単なる思いつきだけど、そういうことにしよう」
次の瞬間には、少女の前にもう一人、別の少女が立っていた。
晴天を連想させるような澄み渡った青色をした長髪に、着流しにも見えるドレスのような衣装という不思議な服装。そして皮肉るようでいながら艶やかな笑みを浮かべたその少女が、ゆるりと口を開いた。
「ナイン――いや、主様よ。お前様をそう呼ぶことを許してくれるかの」
「好きなように呼んでくれ」
「感謝する。……それにしてもこれはなんとも奇妙な感覚だな……しかしこれで、不自由なく言葉を交わせるの、主様よ」
「元からそんなに意思疎通には困ってなかったけどな。俺としては、ジャラザ。お前さんがメスだったことに驚いてるよ」
「嬉しかろう?」
「俺の何を見てそう言ってんだ」
ナインとジャラザ。二人の少女は気安い友人同士のように笑みを向け合う。
ひょっとしたらお互いに近くこうなることを予見していたのかもしれない。その時期が思ったよりも早まった印象は、二人とも抱いているだろうが……。
「さて主様よ。せっかくこうして話せるようになったのだから取り留めもない四方山話を心ゆくまで楽しみたいところではあるが、あいにくそんな時間もない。状況は把握しておるな?」
人型になってもつぶらなままの瞳を少しばかり険しくさせて、ジャラザは真剣な口調で言った。
背丈がナインよりも上なのは当然として、更にクータよりも発育の進んだ肉体は少女らしさに女性らしさが合わさったどこか背徳的な魅力を醸し出している。
その幼顔に似つかわしくない色気に戸惑いながらも、ナインは「ああ」と頷いて辺りを見回し、自分の知っている限りのことを話した。
――シルニコフの命と資金を使って街中の動物を集めていたのはヴェリドットという推定吸血鬼の女。目的は操った人や猛獣を暴れさせてエルトナーゼの住民を選別することであり、操り人形の兵隊を指揮してやがては街の外まで手を伸ばすつもりであること。
戦闘中に判明した事実はその程度のものだが、ジャラザは満足そうにする。
「それだけ分かっているなら重畳、話も早くなる。敵がお喋りで助かったというところか……とにかく聞け、主様よ」
ジャラザが語ったのは街が今どうなっているかについてだ。
洗脳されていない住民たちの結託と奮闘により敵軍の規模にしては被害は少ないほうだという。しかし女子供を優先的に避難させるため矢面に立つ男性らはどうしても傷付き倒れていっているし、または戦闘に出るまでもなく操られた親類縁者を見捨てられず共倒れになる者も決して少なくなく、器物の損壊も含めれば未曽有の大騒動と言って差し支えないのが現況である、と。
それを聞いてナインは表情を暗くさせた。
「俺の責任が大きい。本当なら操られた人たちの鎮圧に力を貸したいところだが、俺は……」
「言わずともよい、儂とて主様の相手取るべきは誰かなど、ようく分かっておるさ。その案内のためにここへ来たのだから、そう陰を見せるな……謝る前に耳を澄ませてみるといいぞ、主様」
「え……あれ?」
言われて周囲からの音をもう一度よく聞いてみると――近場から響いていた悲鳴も破壊音も、いつの間にか止んでいるではないか。はるか遠くからさざめきのような喧騒は伝わってくるが、少なくともこの周囲からそういった音は響いてこない。
「なんだ、どうして急にこんな静かになったんだ――」
「それは私がいるからだ」
とん、とナインたちから少し離れた場所に降り立つひとつの影。
その正体は、相も変わらず陰気な黒装束に身を包んでいる霊魂少女エイミーであった。
「エイミー!? これはお前が?」
「無論だ、私以外に誰がいる? 今回の案件は非常に私向きなんだぞ。何せ傀儡などというものは自我を持たないものだから、個々の魂が無防備にも程がある。よって我が秘術がこれ以上なく活きるのだ――死霊術奥義『死魂軍葬操儀』!」
エイミーの全身から横溢するように飛び出す青白い人骨たち。何体、いや、何十体という亡霊たちが猛然と辺りへ散っていく。
なんとも不気味なことこの上ない光景だが、あれらが何をするつもりでいるのかナインにはエイミーの言葉でなんとなく分かったような気がした。
「ふっ、巧みな偽装が施されているならともかく、ただ暴れまわらせるだけの単純な命令であれば私の敵ではない。まあ洗脳されているという確信がなければ倫理的に不可能な芸当なのだがな」
「なあ、人間社会にとって脅威って意味ならお前のほうがヤバいんじゃ……?」
「何を言っているのか分からんが、とにかくこうして地道に傀儡兵の数は減らしていっている。傷付けずに動きを止めるにはこれが一番だからな」
エイミーの言葉にはたとナインは気付く。
場合によっては近隣住民や顔見知り同士で戦闘をしているのだ。家族や友達でなくとも日ごろ挨拶をする者に対し乱暴は躊躇われる。それが余計に事を難しくさせているのだ――きっとヴェリドットだけは、心身への痛みで苦しむ住民たちを眺めて愉しんでいるのだろうが。
「傀儡の魂を私の霊魂たちが直接拘束する。支配が浅ければやがて自我を取り戻せるが、中には手遅れの者もいる。一人でも多く救うために私は急がねばならん、もう行くぞ」
背中を見せたエイミーへ、ナインは感謝を伝えようと口を開く。
自分にはできないことをしてくれる仲間がいて、彼女は安堵していた。
「エイミー! 俺からも頼むぜ。お前がこの街にいてくれて良かった」
「ふん……それは私のセリフでもあるな」
え、と呆けるナインを置いてエイミーは建物の屋根に消えていった。
言葉もなくその後ろ姿を追っていたナインに、ジャラザは緩やかに首を振った。
「やはり主様は感情の機微に疎いと見える。如何にも訳が分からないといった顔をしているが、そう難しい話ではない。あやつは主様の力を認めている、ただそれだけのことよ。自分では勝てそうもない相手にも主様であればきっと、と期待と信頼を置いておるのだ。……それにしても、あの態度。もしや以前にあやつと手合わせでもしたか?」
「手合わせって言えるほどのもんじゃないが……そっか」
きっとリュウシィの仕業だなとナインは思った。たぶん彼女がナインのリブレライトにおける働きぶりとその功績を大げさに伝えていたのだろう。
だからこそエイミーは再会した時に頭を下げ、そしてこの事態にナインが居合わせたことに幸運を感じているのだ。自分で勝ち取ったものとは言い難いし、この事件を悪化させた要因は間違いなく自分であるのだが……しかし信頼は信頼だとナインは頷く。
「だったら、期待には応えないとな」
第二のペット! ……ばればれでしたね、この展開