70 怪物少女は夢を見る・序
また短め、序なので
パワーアップイベントです
気が付くとナインは真っ白で真っ黒な空間にいた。そこは明るく暗く熱く寒く静かで騒々しくて相反する矛盾が心の奥をざわめかせる酷く落ち着かない奇妙な場所だった。
――とても不安になる。
まるで大切な何かを、知らぬうちに失くしてしまったような喪失感に苛まれて、ナインは胸を押さえる。
自分はどこにいるのだろう?
自分はどこへ向かうのだろう?
自分とはいったい誰なのだろう?
分からない。今のナインは何ひとつとして疑問に対する答えを持てていない。
「まったく呆れた奴だ――なあ、〇〇〇〇」
名を呼ばれる。
ナインになる前、『以前の自分』であった時の名前。
久しく呼ばれず忘れかけていた本名にナインは言葉にならない衝撃を受けて、声のしたほうを向いた。
そこには、見知らぬ誰かがいた。
――いや、違う。俺は彼女をよく知っている。
輝くような流麗な白髪、薄紅色の宝石のような瞳、穢れをまるで知らぬ白い肌、幼いながらに可愛らしさと美しさを兼ね備えた、作り物めいた美少女。
知らぬはずがない、異世界で最初に見た顔だ。何度も鏡で見た顔だ。毎朝毎晩毎日を、この顔で過ごしているのだから――しかし。
それでも彼女は見知らぬ誰かであった。
まるで鏡写しのように自分と対面しながら、ナインはそれを自分とは思えない。
その目付き、その笑い方、立ち方すらも――違う、自分とは何もかもが違う。
泰然とした雰囲気、自信に満ち溢れた表情、どこまでも見透かすような眼差し。
彼女こそがナインである、とナインは不思議とそんなことを思った。疑問も不審も感じずにそう諒解することができた。
「君は、誰だ?」
この問いにきっと意味はないと薄々自覚しながらも、それでも聞かずにはいられなかった。
口を突いて出たその言葉は、案の定目の前の彼女に笑われてしまう。
「はっ、分かり切ったことを訊ねるなんて馬鹿らしいことだぜ。だがまあ、嫌いじゃねーよ? そいつは必要なことなんだろうからな。お前さんの納得のために必要なプロセスってわけだ。無駄な手間こそが不可欠になるってのは、なかなかどうしてこの世の真理だと思わないか? だから馬鹿らしいが馬鹿にはせずに、きちんと答えてやる」
白い少女は言う。よく知った声で、聞き覚えのない声で。
「俺はお前の理想とするお前だよ。つまりはナインの理想像、『完成型』。お前が目指すお前自身――それが、この俺だ」
「俺の、理想」
呆けたようなナインに、少女は「おいおい」とぐるりと目玉を回した。
「よお、理解はできてんのか? 脳に血は巡ってるか? 俺がどこから来たどんな奴なのか見当はついてんのかい、なあ?」
「君は――俺の中にいたんだな」
「正解。より正しく言うなら、お前に形作られた深層の依り代。お前は俺を意識してナインとして生きている……つまりは行動指針であり行動理念。完成型にしてそれに至るための雛型ってことさ」
さてここで俺からの問いだ、と白い少女は厳かに、それでいてからかうように言った。
「何故俺なんてものを作った? 考えてみろ、答えてみろ。長くは待たねーぜ」
「何故って、それは……」
思い返す。異世界で初めて目覚めたあの日から、今日までのたった数十日の、それでも濃密に感じた時間の中で何をしてきたのか……。ああ、答えは簡単だ。
――そう、自分は、どう生きるべきかをずっと探していた。
「必要だったから、だ。この体に見合った理想を思い浮かべて、それらしく生きるのが俺の目的であり目標だった。だから行動指針が必要だった。君という理想像が、確固たる理念が、目指すべき雛型が――俺にはどうしても必要だった」
「無駄な手間だけどな。いちいち俺に頼らなくちゃ動けないなんざしち面倒なだけで意味なんてねえだろう。だがお前にとっちゃそれこそが必要だった。自分は理想を目指して行動しているんだと、そう納得しないことには怖かった。そういうことだろ?」
「怖い……それはどういう意味の」
察しの悪いナインを小馬鹿にするように、少女は肩をすくめる。
「良いことをしているって肯定してもらいたかったんだろう。理想の自分に『それでいいんだ』って背中を押してもらいたかった。そうでなきゃ力に溺れただけの間抜けに成り下がっちまうからな」
「……ああ、そうか」
すとんと胸に落ちる。
少女の言葉は今まで見えてこなかったナインとしての自分の不明瞭さに光を当ててくれるものだった。
「だからあんなにショックを受けたんだ。腕の中で赤ん坊と女の人が死んで、周りの人たちも倒れて……ヴェリドットの指摘に図星を突かれたような気がして、俺は激しく動揺したんだ」
「その通り。本来ならあんな狡い手なんざ俺たちには効かねーってのに、お前は心が弱すぎた。そのせいで付け込まれた。勿論、無鉄砲に突っ込んだこと自体も過ちだったが事の本質はそこじゃあない。もっと根本的な、自己肯定に依存しているお前の歪みこそが問題なんだ。奇しくもあの女が言った通り、お前は歪だよ。歪んでいるのさ、せっかく我を通せるだけの力を持ちながらなんとも勿体ないことだぜ」
「…………」
何も言えないナイン。
確かにヴェリドットにいいようにやられ、シルニコフどころか誰も救えていない――むしろ被害を拡大させてしまった現状、ナインはナインに相応しくない。我を通せるはずの『力』を、宝の持ち腐れとしてしまっている。……目の前の少女は、こんなにも力強くあるというのに。
「俺はやっぱり俺のまま、なんだな。違う世界で、違う体になって、違う生き方をしたって――結局は何も変わってやしない」
「いや? そいつはちげーだろ」
「え?」
思いがけない否定に、沈みかけていた目線が少女に向く。
「だってさあ、お前。前の自分に戻りたいかい? なんの力もない、人っ子一人救えやしない無力な子供に戻りてーか? 友達にだってろくすっぽ手を伸ばせなかったお前さんが、今はどうだ? 曲がりなりにも力は得ているんだ。これまでにも人助けのひとつやふたつ、その力でやってこれたろう? 悪い奴らと戦って、勝ってこれただろう?」
「ああ、それを嬉しく思わなかったと言えば嘘になるさ。だからこの力を持つに値するだけの、このナインっていう身体に相応しいだけの人間になろうと、心掛けはしてきたつもりだ。それでも結局は、こうなったじゃないか。いくら体が強くても、俺の心はあの時のまま、いつまでも弱いままだからだ!」
――何を分かり切ったことを。
心底から呆れ果てたような声で、彼女は言った。