68 怪物少女の失敗
貴女の力は最高よ、とヴェリドットは恍惚とした表情で言う。
言われてみれば確かに、彼女は時間が経つほどに活力を増しているようでもあった。一方的に疲れていくナインとは対照的に、戦闘を行えば行うほど力を得ていく――他でもないナインのエネルギーを奪い取ることによって。
愕然とするナインを見て、とても愉快そうにヴェリドットは哄笑する。
「それにしても本当に滑稽よね。被害は何もここだけじゃないのよ? 街中が苦しんでいるのに、貴女はそれに見向きもしないのだから、なんのために私へ戦いを挑んでいるのか分かったものではないわ」
「なんだって?」
街中が苦しんでいる?
意味が分からなかったナインだが、すぐに街が騒がしいことに気付く。エルトナーゼはいつだってどこだって賑わいを見せている街だが、しかし前日のデート時に感じた喧騒よりも遥かに大きな騒動が、街全体という大規模で巻き起こっているのがナインには分かった。
何人もが叫ぶような声、怒声、悲鳴。どこかからは何か大きな物が崩れるような音やガラスの割れる音が鳴る。あちらこちらから獣の唸り声のようなものまで聞こえてくる。たくさんの人が傷付いている――これでは暴動やテロが起こっているかのようだ。いつの間にこんなことになっていたのか? ヴェリドットから目を離さないことに必死で、まるで人々を見ていなかった事実にナインは横っ面を殴られたような気持ちになった。
「だから無駄な努力と言ったのよ――何せ貴女は街を、人を守っている気になっているだけでその実、自分の手で傷付けているようなものじゃないの! 貴女が私に向かってきたから計画を今日実行することになった。貴女が私へ拳を向けるから住民たちが死んでいく。そうでしょう? 街がこんな騒ぎになっているのも、無知な民が訳も分からず命を落とすのも、全部貴女が仕出かしたようなものよ! この私に歯向かうような真似をするから! 考えもなく突っ込んでくるような真似をするから! 感情任せにして後先を見ないでいるから! そのせいで――こうなったのよ。貴女のせいで、みんな死ぬの。自分の罪を理解できているかしら?」
「てめえ……っ!」
悔恨の念にかられ、ナインは拳が震えるほど強く手を握りしめた。言い返すことができないのだ。確かにこれは、自分の無謀が招いたと言える事態だからだ。敵の力を見誤った。これだけの力を持つ相手だとは思ってもいなかった――いや、違う。
たとえどれだけ強大な相手だろうと勝てると思っていたのだ。
自分であれば、この肉体であれば負けるはずがないと慢心していた。
だから怒りに身を委ね無策に強攻を仕掛けた。
その結果が、これだ。人を意のままにする行為への義憤で敵に向かったはずが、エルトナーゼ中に災禍を広げてしまっている。それは勿論ヴェリドットの罪に違いないが、しかしそれを引き起こした一端としてナインの存在を省くことはできないだろう。もっと落ち着いていればどうだったろう? シルニコフの洗脳がはっきりとした時点で引き返し、グッドマーに助力を仰げば事態は変わっていたのではないか? 少なくともこんなことにはならなかったはずだ――絶対にそうと言い切れるものではないが、可能性はあっただろう。
驕り高ぶり、調子に乗った。自分を正義の使者だと勘違いしていたのだ。
強いのだから正しくある必要がある、とナインは考えている。
では今の自分はどうだろうか? 強くあるのか? 正しくあるのか?
――これのどこが?
「っちくしょう!」
「あはははは! ご理解いただけたようで何よりねえ。改めて名乗らせてもらいましょう――私は吸心鬼、たった一人の新種族。吸血鬼より進化した最新にして最強の存在、ヴェリドット・ラマニアナ。生きとし生ける者、その身も心もすべては我が掌上の玩具に過ぎない。この力で私は真なる夜の王に――いいえ、全世界の帝王になってみせる! 何もかも私の人形にして兵士にして下僕にしてあげましょう! この街はその第一歩として、手始めに征服させてもらうわ」
「征服だって……?」
「ええ。人形をけしかけて殺し合わせるつもりだったの。この騒動を生き残れた人材ともなれば、それは手駒として価値があるということになるでしょう? ざっと十分の一くらいまで人口を減らしてから丸ごと支配下に置く計画だったのだけれど……貴女のせいで幾分予定が早まっちゃったわ。本来なら私の手で殺す気なんてなかったのに、貴女へのエナジードレインの弊害で少なくない住民が死んでしまったわ。……ふふ、まあいいけどね。些細なことよ。虫けらの命の十や二十、百や二百――千だろうと万だろうと誤差みたいなものよね。ねえ、本当は貴女にとってもそうなんじゃない?」
「……ふざけんな、そんなわけがあるかよ」
「あらそうなのぉ? じゃあ何故かしらね、死にゆく者たちの頭の上で好き放題に暴れていたのはどういう考えがあってのことなのでしょう? 私にはさっぱり分からないわねえ」
「それはてめえがっ!」
荒ぶるナインの言葉を、ヴェリドットの静かな声が遮る。
「何を言おうと貴女の行動は上っ面だけよ。正義感に酔っているのかもしれないけど、貴女の本質は私と一緒、脆弱な生き物のことなんて腹の底では見下しているのよ。だからこうして人が死ぬ。そうではなくて? 貴女は人間に随分と肩入れしているようだけど、あるいはそのつもりでいるようだけれど……それは彼らのために怒っているというよりも、媚び諂っているようにしか見えないわ」
「な――」
どろり、とヴェリドットから汚泥のような圧力が広がる。
びりびりと空気を揺るがし、ナインですらも思わず膝をつきたくなるような圧倒的な力の奔流。
「遜るために人助けで人を殺す貴女なんかより、絶対者たる自覚を持って殺すために殺す私のほうが正統で順当で真っ当で、とても綺麗な生き方をしていると思わない? 貴女は歪んでいるわ、目も当てられないほどに。人のためを思っていながら――貴女の生きる傍で多くの命が散っていくのよ。でも強さとは元来、そういうもの。認めることよ、受け入れることよ。貴女は私と同じ、人ならざる人でなし。畏れ敬われるべき絶対者であることを――人の血肉を、命を食い物にする化け物であることを」
ヴェリドットの言葉が呪いのように染み込んでくる。胸の内が凍えるように寒い。肩に重荷が載ったように、ずしりと全身の疲労感が強くなった。耐えるのがつらい。蹲って、頭を抱えて、目を閉じたい。ヴェリドットと向かい合っていたくない。こんな思いをするくらいなら、失敗をしてしまうくらいなら、いっそ受け入れてしまいたい――諦めてしまいたい。ナインという存在を正真正銘の化け物にして、思うがままに他者を嬲り弄び捨て行く傲慢なる強者としての己になってしまいたい……そうすれば。
そうすれば、もう悩むことはなくなる。
「……だ、……」
それでも。
「何か、言ったかしら」
「ぃ、……ゃだ――い」
それでもそれでもそれでもそれでもそれでも。
「! まさか、こんな」
「いやだって、言ったんだよ――馬鹿野郎!」
それでもナインは――自分の理想を諦めたくなかった。
「ちっ、私の支配が効かないなんて……あっていいはずがない! こんなことが!」
初めて見せるヴェリドットの不愉快さの現れた表情に、しかしナインは注意を払うこともできずに突貫する。まさしく力任せの攻め。虚脱感も罪悪感も振り切るためにはこうするしかなかった――が、それでもナインの体にはヴェリドットの異能が重い鎖のように纏わりついている。
「愚昧が過ぎる! どこまで愚かであれば気が済むのかしら!」
飛び込んだところを、逆に蹴り上げられる。
顎を打たれたナインは高く高く宙を舞う。
「この程度の力で私に牙を向けるから! まさか私が本気を出しているとでも――思っていたのかしら!?」
吸心鬼の連撃。空中へ投げ出されたナインの四方八方から目にも留まらぬ速さで襲い掛かる。ヴェリドットの素早さに驚くナインは、抵抗もできないままに彼女の爪を浴び続ける。地に落ちることすら許されず無慈悲な猛撃を受け、大切なローブが切り刻まれ穴だらけになっていく。そんな場合ではないのにナインは、擦り切れるローブが自分と重なって見えて、どこか親近感のようなものを抱いた。
もはや呻き声も発さなくなったナインにトドメを刺すべく、ヴェリドットは直上へ飛び上がり、高く右手を掲げる。
「貴女も私の人形にしてあげようと思ったけれど、やめるわ。せめてひと思いに殺してあげましょう。たった一人で頑張ったご褒美、嬉しいでしょう?」
ヴェリドットの右手に膨大な魔力が収束していく。魔力を知らないナインでさえ恐るべき力の結集を感じ取った。あれは不味い、食らっては大変なことになる――しかし。
この位置、この方向。食らわなければもっと大変なことになる。
「『ブラッディ・グングニル』――ハアッ!!」
魔力の血で編まれた紅蓮の槍が、莫大なエネルギーを伴って発射される。空気の壁を突き破り落ちてくるそれを見て、ナインは避けてはいけないことを悟った。もしも自分がこれを回避しようものなら、ここら一帯は綺麗さっぱり吹き飛ぶことになるだろう。
「――くそ」
咄嗟にぼろ切れのようになったローブを脱ぎ捨てた。せめて貰い物のこれくらいは守りたくて……それくらいしかやれることがなくて。
布の破片が零れ落ちて、ひらりと眼前に瞬き――槍に消し飛ばされた。
ずごん、と鈍重な音が鳴り響く。いつも以上の喧騒に満ちた今のエルトナーゼでも一際大きく、そして不吉な音だった。渾身にして必殺の一撃となったブラッディ・グングニルの直撃を受けて、ナインは声もなく落ちていった。真下にあった教会、据えられた十字架の真横を突き破り墜落、衝突の生み出す鳴動のような衝撃。
そして――完全なる沈黙。
しばらく経ってもナインが教会から出てくることはなかった。
当然だ、とヴェリドットは確信を得る。無敵の槍が完璧に入った手応えをヴェリドットは確かに感じていたのだ。ただでさえあの白髪の娘はエナジードレインによって生命力を枯渇寸前まで削られていたのだから、これで生きているはずがない。
奴は死んだのだ――確実に。
「あははっははははははは!」
主人公に試練は付き物