55 吸血鬼の姉と妹
夕闇の迫る暮れの時間帯は、室内にも夜の冷たさと静けさをもたらす。灯りもついていない薄暗い部屋の中で長椅子に座る女性は閉じていた目を薄っすらと開けた。部屋の中には彼女以外誰もいない。だというのに、彼女はまるで自分以外の誰かへ語り掛けるように言葉を紡いだ。
「そこまで来て何を躊躇しているの? いいから入ってらっしゃい」
暗い部屋へ響いた声は小さいがよく聞き取れるものだった。だからだろうか、扉が音も立てずに開いたのは。
「………………」
ノブから手を放し立ち竦むようにしているのは顔色の悪い少女――ユーディア・トマルリリー。彼女は吸血鬼、生者と比べれば血色が芳しくないのは当然のことだが、しかし今の彼女は常と比較してもあまりに沈鬱であった。
漏れる吐息は病人のようにか細く、体は極寒に晒されているかのように震えている。そして瞳は一点を、この部屋の主たる女を凝視していた。
少女からの視線を受けたその女は悠然と微笑む。
「あらあら、挨拶もなしなの? この私に、あなたが? いつからそんな子になってしまったのかしら。姉様は悲しいわ」
「ヴェリ、姉様」
「はあい、ユーディア。ご機嫌麗しゅう」
「っ……!」
自らも認める姉貴分、ヴェリドット・ラマニアナから名を呼ばれてユーディアは表情を強張らせる。とてもではないが「姉様こそご機嫌麗しゅう」などといつものように返事をすることはできそうになかった。
唇を噛みしめるようにただ立ち尽くす少女を、ヴェリドットはひどくつまらなそうに一瞥してから「まあいいわ」と会話の矛先を変えた。
「それにしても、よくここが分かったわね。こんな拙いパスじゃあどこにいるかなんて読めっこないはずじゃない? あなた、どうやって私の場所を知ったの?」
「……まだ、完全に位置が掴めないほど私たちの繋がりは脆くなんてなってないわ、姉様」
事実、意識を集中して探れば大まかな範囲からもう少しだけ詳細な居場所を探ることができる。普段からは考えられないほど弱弱しい反応しか示してくれないパスだったが、まだそれくらいの力は残っている。
しかし翻ってそれは、探る側に並々ならぬ集中力が要求されるということでもある。
つまりは「どうしても相方の行方を知りたい」という強い思いがなければ、パスは何の力にもなってくれないということで――
「ふうん、そうなの? 私からはさっぱりあなたの場所なんて読み取れなかったけれどね」
「……姉様」
応答がない時点で覚悟していたことだった。そんな胸の痛みは無視してここを目指したのだ。けれどこうして相手の口からはっきりと告げられたことで、再度胸に鋭い痛みが生じた。
まるで切り傷のようだとユーディアは思う。
アンデッドとして肉体の痛みに鈍い分、心に受けた傷はより鋭敏に彼女へ刺激を与える。
「まあ、熱い視線をくれること。そんなに私に会いたかったのかしら」
「――もちろんよ、姉様。会いたくて会いたくて堪らなくて、だから私はここにいるのよ。どうか分かって姉様……」
「そう、それはよかったわね」
すげない言葉は暗に彼女のほうはユーディアに会うつもりなどさらさらなかったと伝えているようなものだ。苦しみを堪えるように下唇を噛み締めたユーディアはしかし、振り絞るようにして声を出した。
「姉様、いったいあなたに何があったの? 今のあなたは、以前とはまるで違う。姿は同じ、声も同じ、けれどまったく異なっている。表情も話し方も、その身に纏う気配さえも、私にはまるで違って見えるのよ姉様! これはどうしてなの?!」
「何があったか? そんなことを気にしてどうするのかしら」
「それは……」
「どうしようもないでしょう、ユーディア。変化は認めるわ――いいえ、進化というべきこれはでも、どうしてそう責められなくちゃいけないの? あなたも喜ぶべきよ。だってわかるでしょう、私ったらこんなにも……」
強大になったんだから、と。
どろり、と見えない何かがヴェリドットの体から滲み出した。すると暗い部屋がますますその冷ややかさと重みを増したように、ユーディアの全身に正体不明の重圧がかかった。体が重い。胸に手を当てる。その動作さえもひどく鈍い。困惑するしかない彼女の耳に、嘲るような姉からの言葉。
「過去なんて追っていてもしょうがない。昔のことなんてどうだっていいことなのよ、だって大切なのは今とこれから、そうでしょう? あなたも後ろを振り返ってばかりいないで、前を見なさいな。過去に縋っていても置いていかれるだけよ、何もかもに。そうではなくて、ユーディア?」
置いていかれる。
思い出されるはつい先日、ナインの顔。
圧倒されたあの力の主。
強さに抱いていた自信と誇りを砕いた少女。
既に大きく差はつけられている。そのうえ更につき放される?
そんなことになったら本当に追いつけなくなるだろう。
あの少女には永遠に敵わなくなるだろう。
過去ばかり追っているから――だからなのか。
真祖という立場に胡坐をかいていたから? だから強者の地位から転げ落ちた?
妹という立場に安穏としていたから? だから姉がどこか遠くへ行こうとしている?
これまで疑うことすらなかったアイデンティティが急激に揺らぎ始めたユーディア。呼気を荒くして、今や立っているのがやっとなほどに動揺している。そんな彼女の不安と焦りを前にして、ヴェリドットは妖しく微笑んだ。それは妖艶すぎる笑みだった――まるでこの世のすべてを掌で弄ぶような、淫靡で邪悪な笑い方。
「慌てないでいいわ、ユーディア。私は何もあなたが憎くてこんなことを言っているんじゃないのよ。たった二人の姉妹だもの。ね?」
「ヴェリ姉様……」
するりとユーディアに近づくヴェリドット。流れるような仕草で妹の頬を一撫でして、その耳元で囁く。
「姉として頼みがあるの、ユーディア。あなたに力を貸してほしいのよ」
「姉様が……私に? 頼み事、を?」
「ええそうよ。可愛い妹に助けてほしいの」
肩を掴み、抱き寄せる。頭一つ分高い身長差。見上げる妹、その揺れる眼差しにヴェリドットは慈愛の天使のように優しい眼を向ける。先までの威圧感が嘘のような姿にユーディアは心を散らされる。直接肌が触れ合った途端に、彼女はまるで夢見心地のような気分になった。
いつの間にか重圧もなくなっている。
むしろ今は、ふわふわと浮かび上がりそうなほど体が軽く感じる。
そのせいか彼女は夢現の境目に立つような、奇妙な感覚を抱く。
「この街でね、少し面白いことをしようと思っている。ここを私の物にするのよ」
「姉様の物に……?」
「普通にやったんじゃあつまらないし、有象無象の選別から始めようと計画しているの。まずは『生き残ること』よね、簡単に死ぬような駒はいらないもの。もう人形は用意してあって、私は待つだけなんだけど……ね、あなたが協力してくれて、不測の事態に備えてくれるなら、もっと万全だわ。私を助けてくれるでしょう、ユーディア。姉の頼みを断るような悪い妹じゃないものね、あなたは」
ヴェリドットが笑う。
くすくすと無邪気な子供のように、しかし何より悍ましい邪智を潜ませて。
そんな姉を目の当たりにしたユーディアは、一瞬だけ今にも泣きだしそうな顔を見せてから……口を曲げた。姉と同じく、妹も笑う。そこに違いがあるとすれば。
姉が心から楽しげにしているのに対し、妹のそれは――全てを投げ出すような、諦めるような、なんとも言えない侘しさのある笑みであったこと。
「……ええ姉様。力を貸すわ、このユーディア・トマルリリー。元からそのためにあなたに会いに来たんだもの。ヴェリ姉様の頼みでれば是非もない。どうかなんでも言ってちょうだい、きっと上手くやってみせるから――」
だから私を……。その先はどうしてか、ユーディアには口に出すことができなかった。
夜はただ更けていく。
義姉妹百合ぃ!




