52 握手がしたいだけの犯罪的なファン
「ただいま戻りました、都市長代理」
執務室のそれなりに豪華な机、その椅子につくカラサリーへ調査隊リーダーの男が丁寧に、けれどそこはかとない気安さを出しながら挨拶をした。
「ご苦労。すまんな、こうも引っ切り無しに都市外へ遠征させてしまって」
カラサリーの謝罪に「今更ですね」と男は笑った。
「それが調査隊に抜擢された俺の役目ですからね……と言っても、そのお役目もこれでご免になりそうですが」
男の言い草と肩の重荷が外れたような明るい表情から、カラサリーは彼の言いたいことをほぼ正確に理解することができた。
調査隊というのは百頭ヒュドラの動向観察のために存続させていた、言うなれば特別業務のようなもので、隊長である彼もその部下たちも常任の立場ではない。
そんな彼が役目を終えるというのは、つまり――。
「ということは、だ。百頭ヒュドラの脅威は去ったと見ていいんだな?」
「間違いなく。アレの姿はもう、影も形もありませんでした」
重苦しく、しかし期待も込めて訊ねたカラサリーに男は力強く頷いた。
今や都市のどこからでも視認できていた百頭ヒュドラの姿が見えなくなってから数時間。
それはフールト中を揺るがすような轟音が響いていた「謎の現象」――と怯えていた市民こそ与り知らぬがカラサリーとその周辺は勿論事の真相を理解している――が鳴りを潜めてから数時間、というのと同義である。
まだ危険じゃないのか、だがもうなんの音も聞こえてこないぞ、迂闊なことをしてもいいものか、いやもう辛抱がたまらん――という具合に調査隊が都市から飛び出すようにしてヒュドラのいた場所へ向かってみれば、そこにはもう何者も存在していなかった。
念のためにと周囲一帯を隈なく調べて後に都市へ帰還、その足ですぐにカラサリーへリーダーが代表して報告しに来たのだ。
この間に丸二日の時間が経過している。
実に長い二日間だった、とカラサリーは思った。
「そうか……彼女たちが本当にやってくれたのか」
万感を込めてしみじみと呟くカラサリーへ、現地をつぶさに眺めてきた調査隊リーダーは引きつった笑みを浮かべた。
「その、都市長代理」
「なんだ」
「あれをやったのは、本当に、その……少女たちだったので?」
「あれ……とは百頭ヒュドラのことか。ああ、間違いない。十代前半から半ばの子が二人と、十にもならないような子が一人。状況からしてあの少女たちが百頭ヒュドラを追い払ってくれたのだろう」
カラサリーが疑問に答えてやっても、男の顔色は優れない。
むしろますます強張りが増しているようですらあった。
どうしたことかとカラサリーは疑問に思ったが、すぐに気が付く。
「そうか、あの子を実際に見ていない君には理解が追いつかないのだろう。当然のことだな、あんな化け物を年端もいかない少女たちが倒すなど、普通なら考えられるはずもない」
「え、ええ、まあそうなんですが……」
「だがもしも君があの場にいたなら、あの子らを見ていたなら――特に。ナインと名乗った、最も幼いあの紅い瞳の少女を目にしていたなら、君も納得していたはずだ。この子ならなんとでもやりかねない、とな」
「それほど、なんですか」
「ああ。少なくとも私には、百頭ヒュドラなんかよりもよっぽど恐ろしく――よっぽど頼もしい存在に思えたよ」
断じて語るカラサリーの言に、調査隊リーダーのごくりと唾をのんだ。
彼の言った「あれ」とは厳密には百頭ヒュドラのことではなく、現地の有様のことを指していた。
蛇の通った跡を万倍にも広げたような抉られた大地に、数日前までには確認できなかった渓谷。
豊かだったはずの森林が一部禿げ上がるように枯れ果て、あちこちにクレーターのような巨大な凸凹ができあがっている。
他にも血が飛び散ったようなどす黒い何かが付着した痕や高温で焼けたような焦げ跡もあちらこちらに散見されるあの場所は、控えめに言って地獄を忠実に再現したような光景だった。
あれを為したのが、少女……?
それも十歳にも届かないような幼子がやったと?
確かに理解できない、納得できない、信じられない。しかしカラサリーも、彼の経営するホテルの従業員も――つまりその「少女」を実際に目撃し言葉を交わした人物たちは恐ろしいまでに「信じている」のである。
あの子ならどんなことをしてもあり得る、何をしでかしても不思議ではない、と奇妙な信頼まで感じさせるように断言する。
「いったい、何者なんでしょうか……?」
悪鬼羅刹を少女型に象ったようなゲテモノを思い浮かべながら呆けたように訊ねる男に、カラサリーは緩やかに首を振った。
「わかるわけがない、私たちなどに……あの子の正体など思い至れるはずもない。ただひとつだけ、私が思うことがあるとすれば」
言葉を切ったカラサリーへ男の視線が向く。無言のまま続きを促すその仕草に頷き、彼は自らに生まれた新たな感情を吐露した。
「気まぐれに流れ着き、気まぐれに救け、そしてまた流れていく。神というものが本当にいるのであれば、それは彼女のような人物を指すのではないか……とね」
「では都市長代理は……その少女が、人の姿に偽られた神であると?」
「言ったろう? わからんとな。ただ、あらゆる意味で推し量ることのできない子だったとだけ伝えておこう。もしも縁があれば、また会ってみたいものだが……」
遠い目をするカラサリーの様子は、再会することはないだろうと言っているも同然だった。なぜそんな風に思うのか男には謎だった。あるいはこれも、その少女と会えなかったから自分には分からないのか。
何度も同じ質問をすることは憚られ、男は冗談交じりにカラサリーへ別の問いかけをした。
「もし会えたとしたら、都市長代理はなにをするおつもりで?」
「まずは感謝を、オフレコでもいいから彼女に述べたいな。それから……そう、できれば握手でもしてもらいたいところだ」
「握手、ですか」
虚を突かれたように目を見開いた男へカラサリーはなんの憂いもない顔つきで「ああ」と頷いた。
「月並みで恥ずかしいんだが、すっかりあの子のファンになってしまってね」
「はあ……」
中年真っ盛りの大の男が、幼い少女のファンになる。あまつさえ照れたようにしながら手を握ることを夢見るその様ははっきり言って犯罪すれすれの匂いを感じさせたが、男は何も言うまいと口をつぐむことを選んだ。
彼はカラサリーを信用している。
間違っても性犯罪に走るような男ではないので、これも純粋な気持ちの表れに違いないと信じたからだ。
とはいえ男はそれとなくカラサリーから目を逸らし、内心を悟られるのを避けつつ……そして静かに思った。
この有能な我らが都市長(代理)をここまで誑かすような少女とは、どんな子供であったのか。百頭ヒュドラが消えた土地の目を覆いたくなるような荒れ様以上に、彼にとってはある意味そちらのほうが気になり出したのだった。