518 ある父娘・上
間章で締め
「記憶力には優れているほうだと、自負しております。過去にあった思い出深い場面も、そうでない場面も。大概のことは補完や補正を抜きに正しく覚えているはずです。ですがそんな私でも、特別印象に残っていることというのはいくつかございます。例えば、幼い時分に家族で遊んだ記憶。人生で初めて目にした海。砂の感触、波の音……ふふ。三つ子の魂百までとは言いますが、蓋を開けてみれば。結局のところ人は、一番安心できて、一番幸福に包まれていた時を……そしてそれに無自覚だった己を、惜しんでばかりいるだけなのかもしれませんわね」
「………………」
広大で、細かくエリア分けのなされた首都においての、居住区としての一等地。
そこにある巨大な屋敷の一部屋で、使用人すらも締め出して二人きりで向き合う親子――父と娘がいた。
ディトネイア・オールドファンシー。あえて父性を名乗らずにいる娘の、奇妙な独白を聞かされたディマゲスティス・デュノウは長い沈黙を挟んだのちに、ぽつりと言った。
「結局あれが、お前の母がした最後の遠出だったな」
「――ええ。貴方も覚えておいででしたの」
「勿論だ。旅行用の服、バッグ、新しい化粧品、専用の魔導四輪に、ギルドへ発注した護衛団……出先の施設を貸し切りにもした。たった三泊のために、大げさでなく国家予算並みの費用が飛んだ。掛かった総額を俺は一桁の位まで覚えている」
「まあ、それはそれは。私にも負けず劣らずの素晴らしい記憶力ですわね」
にこりと笑ったディトネイアは、けれど笑みなど一切浮かべておらず、その表情は言うなれば威嚇にも等しいものだった。――何事にも計算高く、自身の目的を達成するためにはあの手この手で人を籠絡する彼女だが、それでいて意外と腹芸を得意としていないのだ。
感情を隠さない。いついかなる時も素のディトネイア・オールドファンシーで。言葉を選びはしても相手を殊更騙そうとはせず、そしてそれ以上に自らを騙さない……自分で自分に嘘をつかないのが、彼女という人間だった。
思ったことを思った通りに思ったままの態度で示すこと。
一部からは自堕落な省長の娘として、またごく一部からは策略家として知られている彼女はなのに、偽らず、欺かない。
ディトネイアのそういった性質がより強く出るのは、愛する亡き母の話題になった時と、それと対を為すもう一人の親である父と対面した時――つまりは今だ。
「旅の思い出を、使用した金額で語るとはなんともデュノウ様らしいことですわ」
「諸々の手続きと、支払い。俺の役割はそれだけだったからな。あの旅はお前とお前の母のためのものだ」
「なるほど、そうでしょうね――デュノウ様は旅行の計画を喜んで立てるような人ではございませんもの。お母様の提案に渋々と頷く貴方の顔が目に浮かぶようです」
そこで、デュノウは首を横に振った。堅物で、無表情でもどこか苛立っているような顔付きをしている彼がそうすると、眩暈を払っているようにしか見えなかったが。だがディトネイアには彼が否定の意味でその所作をしたことがハッキリとわかった。
「お前の俺に対する評価は、頗る正しい。旅行などまず思い付きもしない。だがあの旅に関しては、俺が提案した。行き先を決めたのも、計画を立てたのも、お前の母であることに変わりはないが」
「――、」
思いもよらぬ言葉を聞かされ、ディトネイアは硬直する。
母の死後、涙のひとつも見せず、娘に寄り添うこともせず。ひたすらに仕事ばかりに身を預け、時期を置かずしてついに省長にまで登り詰めた冷血な俊英ディマゲスティス・デュノウ。
自らの箔付けのために由緒正しい血統を持つ母と婚姻を結び、子供を設け、しかして家庭などにはなんの興味もない男。
……そういう認識だった人物が、突如として絶対と信じていた解釈に真っ向から反する言葉を口にしたのだ。
これで戸惑わないほうがおかしいだろう。
「驚いているようだな。そんなにも意外なことか」
「驚き……ますわよ。まさか、貴方がそんな」
「ならばいい。俺はあいつの遺言を、守れているということだ」
「遺言……」
「あいつは、我儘な女だった。お前など可愛いものだと、あいつのことを知る者ならば誰もが言うだろう。とにかく派手好きで、放蕩癖があって、人への迷惑を歯牙にもかけず……とても自由だった。そう、自由だ。生来体の弱かったあいつは、何より自由を愛し、何より欲していた。求めたものは金よりも物よりも、人の記憶。そこに留まることだ。十代で余命を宣告された身としては、それが自然な発想なのかもしれない。自暴自棄にならなかっただけ体よりも遥かに、心のほうが強かったと言うこともできるだろう」
「…………」
「結婚についてもおそらくは興味本位と見て間違いない。……これに関しては、今となっても理由はよくわかっていないが。なぜあいつが母となることを望んだのか、その相手役としてなぜ俺を選んだのか。ともかく、長く生きられないあいつの支えをしてやれるならば悪くはないと、俺もそれに合意した。まあ……思い返せば、半ば無理矢理に婚姻届けを用意させられたようなものだったが。しかしあいつは何事にも終始その調子だったものでな」
「…………」
「口を開けばあれがしたい、これがしたい。それを順に叶えてやってもああしたかった、こうしてほしかったと。そしてすぐに新しい何かを思い付いて、また騒ぎ出す。……そんなあいつが。生というものを謳歌することにあんなにも固執していたあいつが、寿命を削ってまでお前を産んだこと。自分こそが第一だった女が、娘と自分を第一に考えるようになったこと。我儘な性分はそのままでも、あいつは確かにあの日を境に……ただの一人の女から、お前の母となった」
「……!」
「口が裂けても良妻や賢母などと評せはしないが……しかし良き母親ではあったろう。お前の懐き具合からも、それはよくわかる。今わの際に、俺と二人きりになった時間があった。そこでも、お前のことばかりを頼んできたよ。何をするにも自分の欲望に忠実だったあいつが、いよいよというその時に自分のことではなく……自らの死を嘆くのではなく、お前の未来を祈っていた。そしてそれを俺に託したんだ」
「お母様は貴方に、なんと」
「お前を『自由に生きさせるように』、と。勿論、一も二もなく引き受けたとも。……あの時のお前の母の笑みを。俺はきっと死んでも忘れられない」
「……、」
ディトネイアの心中に、なんとも表現しがたい感覚が広がる。
愛などないと思い込んでいた、母と父の関係性。母が去り、父が離れ、宙ぶらりんとなった自分。それを世界から見放されたように感じていた幼い頃――だがしかしそれは、父が用意した、彼が彼なりに思う『自由』の提供だったのか。
「――ひょっとして。デュノウ様が急に家へ寄り付かなくなったのは、そのためだったのですか」
長く止めていた息を、ゆっくりと吐きだすような。そんな我慢の末のような面持ちで訊ねる娘に、父はしかつめらしい雰囲気で答えた。
「そうだともディトネイア。俺はお前を、お前の母が望んだ通りに、誰よりも自由な存在にしてやりたかったのだ。俺の全ては正しく、それを叶えるためだけにある」




