511 シン・怪物少女、覚醒す
「声、とは」
おうむ返しに呟かれた、その言葉。
神具にはナインが何を言っているのか、よくわからないようだった。
「我の声。と、いうわけではなさそうだが」
「ああ、お前のじゃあないよ」
「ならば奇妙だな。この場には我と貴様のみ。それ以外は他に、何ひとつとて存在していない」
重圧に囚われたままで、ナインはゆるゆると首を振った。
それは明確な否定の意。
「この中での話をしちゃいない。外からの声だよ」
「外――」
ナインの、向こう側。背中の先にある空間を神具は睨んだ。
「……なるほど」
神具の瞳は確かに、それを捉えた。怪物少女がともに旅をしてきた仲間たち。神具があえて道中に置き去りにしてきた彼女らが、例のはしためと連れ立って支配圏のすぐ傍にいる。
「仲間の声、と言いたいか。しかしそれでも奇妙だな」
熱心に何かを議論しているようだが、その内容については神具の耳に届かない。瞳は特別でも聴力までもがそれに比するわけではない――そしてそもそも、彼女たちがいるのは彼が作った支配圏の外部なのだからして。
「聞こえるはずが、ない。我が支配の領域は内と外を完全に隔てている。同一空間にありながら別世界。出るにも入るにも、我が許可を下さないことにはどうにもならない」
いつどこからでも自由に出入りを可能とし、制限の一切を受けないのは途絶空間の支配者である神具のみだ。彼以外で唯一内部にいるナインとてこの支配圏からの脱出は叶わない――つまり彼女は二重の意味で囚われている。
そんな状態なのだから、都合よく仲間の声が彼女の耳に届くようなことは、まずもってあり得ないと。
そう神具は断言する。
「つまりは幻聴だ。仲間が駆けつけている、という予想の下に。あるいは第六感が限りなく現実に近しい声を聞きつけさせた可能性もあるにはある。……が、それがどうした」
どうにせよ下らないことだ、と。
仲間の声を頼りに奮起した少女へ冷や水を浴びせるような、なんの感情も籠っていないだけに余計冷淡に感じさせる口調で神具はそう言った。
けれどナインは。
「……下らないこたぁ、何もないさ。たぶん、お前さんが思ってるのとは逆なんだからな」
「――逆、とは」
と二度目のおうむ返し。
神具にはやはり、ナインという少女のことがわからない。
「もしも俺が今、無理をして立ち上がっているように見えてんのなら……お前のその大層な瞳はとんだ節穴だ」
「……、」
「だから、逆なんだ。肩の荷が下りた。力みが抜けた――そのおかげで、お前の力の中でもこうして立っていられる」
「……理解不能だ」
「そうかもな。だがこれが真実。俺にとっての現実さ。無駄じゃないと、あいつらが教えてくれたから」
「非だ。貴様の行いは間違いなく、全てが無駄なのだから」
「いいや。俺以外にも戦っている奴らがいるんだ。それはかつての敵たち。だけど今は、同じ気持ちでいる。お前っていう理不尽を許さないために、力を合わせているんだぜ」
「…………」
「それをお前は無駄だと言うんだろうが……。俺はそう思わない。――思えない。だってクータたちが言ってくれたんだ。『他のことは気にするな』って。目の前にいる本体だけをぶっ倒すことに集中しろってな」
――俺なら勝てると、なんの根拠もなく言い切ってくれたよ。
「……世迷言。それを信じて、また驕るのか」
「驕らせてくれよ、今だけでも。自惚れていようと烏滸がましかろうと。それだけ強烈に俺を信じてくれる仲間がいるってんだから……せめてこのくらいは、あいつらのためにもやってやらねえとな」
「このくらい、だと」
不快感――と言うよりも、こいつは正気なのかと疑うような。
そういう目をして神具は少女を改めて眺める。
全身余すことなく血だらけ怪我だらけ。
腕を失くし、腹を空かし、何度も神力に叩かれたその体。
虫の息。
そう表現するのがピッタリの様相で、実際に少女の声はどこまでも弱々しく聞こえるもので――だというのに。
「ありがたい。目が覚めた気分だ。最近じゃ気を失ったり、呪いにやられたりして寝込む機会も多かったが。それでもここまですっきりした目覚めはなかった――そう、この『覚醒』に抱く感覚は。……いや、抱かれる感覚は二度目だな」
何かが、違う。
ただの死に体とは決定的に何かが異なっている――だがそれがなんなのか、神具には見えない。その眼で以っても見通せない。正真正銘、彼の瞳には少女が死にかけであるようにしか映らない。吐く言葉すらもうわ言にしか思えず、まったくもって意味不明。
だからこそ、不可解。
まるで背筋から這い上がってくるような――この原因不明の感覚が、なんなのか。
「貴様は、何を言っている」
「頭も良くねえのに、変に考えすぎてたってことだ。お前が語ったあれやこれを無視しようと、考えないようにしようと努力し過ぎてた。それこそが何より意識していて、しっかり気を取られてる証拠だってのに。ごちゃごちゃといらないことを無意識に植え付けられていた。必要なことは、なんだ? 俺が信じるべきは、なんなのか。……そんなもんは今更考えるようなことじゃあない」
「愚かしい。我を前に、まだ目を背けるつもりか」
「違うな。今ようやく直視できたんだよ。――神具、『お前』のことを」
目が、合う。
怪物少女の紅い瞳と真っ直ぐに見つめ合う。
「――、」
激しく輝きを放っていたその双眸は、今や淡い薄紅へと戻っており。
そこにはなんの力も感じさせない、穏やかな光だけがあった。
例えるなら深い海の底に届く微かな陽光のような。
そういう静かで、けれど温かい、なのに触れ難い――力を感じさせない力が彼女の瞳には宿っていた。
「お前は正しいのかもしれない。きっと俺はなんにもわかっちゃいない……とは、認めてもいい。だがお前が言った通り――神具に神具の正しさがあるように。俺にだって俺の正しさがある。曲げられないもんが、この胸にある。何かどうしようもないような法則が俺を動かして操っているんだとしても。俺の想いだけは、気持ちだけは誰にも否定できるものじゃない。神具、お前にだって。そして俺自身にだって。これまでの全部を、無駄の一言で切り捨てられはしないんだ」
「盲目と同じ。人間の如く生きようとしたところで。己に価値があると思い込もうとしたところで。いずれ貴様は、気付くだろう。――世の全ては平等に無価値。我らが何をしようと、そこに本質的な意味などないのだと。悟れナイン。所詮命というものは――」
「うるさいぜ、いい加減」
「……!」
「どうでもいい。心底からそう思った。あいつらの応援を聞いたからには、俺にとっちゃそれが真理。それが『全部』さ。勝つか、負けるか。それだけでいい。それくらい単純で、俺には丁度いい。たとえ意味なんてなくっても――俺は満足できるんだから」
「……定めし、狂人の言葉だ。それは」
「ああ、狂ってるんだ。皆そうさ。俺もお前も、誰も彼もが。皆が皆狂ってる――自分に価値があると思っている。自分にとって大切なものが、この世の全てだと思っている。そこだけは確かに、平等だな」
「ならば貴様は狂ったまま、狂った世界で、それでどう生きるつもりでいるのか」
「どうもこうもあるもんか。『神具に打ち勝つ』こと。今の俺に見えてるのはそれっきりだ。手の平に収まる、握った拳に消える、そんな小さな野望さ」
「……それが貴様の手中に収まる野望と、真に思っているのなら」
やってみろ――と、神具は続きを言えなかった。
それを言うよりも先に、ナインの姿がかき消えたからだ。
「……っ、」
動揺。
初めて見せた神具の揺らぎ――神力の揺らめき。
それは重圧の枷からどうやってナインが逃れたのか、彼がまったく視えなかったことの証明。
「……、」
「!」
自分のすぐ隣。
そこにナインがいるということを認識した瞬間に神具は権能によって防御することを選んだ。
が、しかし。
「十四重障壁――がッ?!」
展開した絶対守護の障壁は。
破られるはずのないそれは、たった一発の拳で叩き割られてしまった。
くの字に曲げられる少年の体――ようやくのクリーンヒット。
ここに来て初めて敵へまともな一打を浴びせることができた少女は。
「そっちも覚悟を決めろよ神具――これが勝負だと言うのなら。ここからが本当の戦いになるんだぜ」




