510 どんなにそれが怖くても・結
首都アルフォディトで。
「――、」
つい、と。
神具は視線を上げた。
神力によって地面に押し付けられたまま身動きが取れずにいるナインへの追撃よりも、確認を優先せねばならなかった。現在、彼にとって些か信じ難いことがそれぞれ別の場所で、同時に五つも起きている。
「起こり得るのか、このようなことが……? 多少なりとも本体に劣るとはいえ、分体は神具。人間やそれに与して義者張る輩に抗うことなど、できるはずもない。それこそ、余程に真理を背負うことを決定づけられた特異点のような存在でない限りは――しかし」
感覚は絶対だ。
分体が今どんな状況にいるかを神具は限りなく正しく把握している。そこに誤解や勘違いは生じない。生じようがない。リンクには揺れも乱れも発生しないのだから――だから認めざるを得ない。
倒れたままの少女へと今、再び七色に蠢く瞳を向けて神具は。
「これもまた因果の為せる業か。起点はやはり貴様なのだろう、ナイン。そうでなければ分体が五体ともに足止めをされるような事態など、あり得るはずもない。貴様の背負ってきた因果の幾本が、今こうして我の盟約を食い止めている。我が計画遂行の『邪魔』となっている……実に虚しいことだな」
分体と互角に戦える強者が、五人。
人の世に珍しくも傑出した実力者たちが、都合よく五大都市それぞれに控えていて、全員が全員分体の接近を見逃さず見過ごさず、その目的を阻止せんと懸命に戦っている現状――こんなことが偶然の一言で済まされるはずもない。
偶然の積み重なりが今を作る。しかしてそれは因果の流れと密接に通じ合ってもいる。運命が促したのか、それとも運命を促したのか。神具には視えている――おそらくは自分が起動するのを何年も前から見越していた特別な力の持ち主が、有志と共にこれをした。だから彼はナインの向こう側に望む真理に若干の不快感を抱いたのだ。
結局は、そう。
どんなに強かろうと、特別だろうと。
逆らえないものはある――そもそもそれに気付きもしないで、従わされる。
むべなる基理の法則というものに。
「貴様は、喜んで受け入れるのだろうな。煩わしい運命も、小賢しい人間の画策も。なんにせよ今この時、我の目的が未だに果たされていないこと。それは紛れもなく、貴様が特異点として在る稀なるも価値なき存在理由が元となっている――そう導かれたのだと、自ら疑問もなく、諾々と認めることができるのだろう?」
偶然ではない。
強者は適切に配置され、切々に頼まれて神具へと相対している。分体越しに感じられる抵抗者らの強さはなかなかのものだ――それは神具であってもそうと認めざるを得ない逸脱した強度を持つ者たちである。しかし実力で語るには十分でも、いずれも特異点にあらず。彼女たちは所詮特異点に引き寄せられ引き上げられた者たちに過ぎない――運命の糸に絡め取られた石くれに過ぎない。
それがどんなに大きかろうと、硬かろうと。
同じく絡め取る側であると法則に認定された神具からすると、なんら意味などないのだ。大なり小なり、僅かにでも意識を向けることはあれど、それをまさか対等とは思わない。
見える範囲が違う、知る世界が違う、想う未来が違う違う違う――違いすぎるのだ。
神具は神具、神の手に落とされ人の手に落ちた、土地守りし意思持つ道具。
そんな彼が炉端の石という有象無象に心を砕くことなど、決してなく。
「運命は一定だ。我が下す結論に、行う行動に変更はない。最初から全て決まっている――否、決められている。遠からず分体は都市破壊を恙なく完了させることだろう。ナイン、貴様が変えた運命も、引き寄せた因果も――全てが無駄になることに、変わりはないのだ。多少、時間が伸びただけ。その時を遅れさせたというだけ。我というもうひとつの特異点に対峙させるには、貴様の手にある因果の束では今ひとつ足りていなかったな」
だがそれも当然のこと。分身ではあっても分体は神具本人なのだ。因果で通じた強者たちであってもおいそれと敵うものではない。『時間稼ぎ』程度はできたとしても、それも文字通りの時間の問題でしかない。
勝負ではない、戦闘ですらない。
そも、仮に奇跡以上の何かが運命をかき乱し、分体の全てが敗れ果てたとしても――本体にはなんの影響もないのだ。改めて分体を作り送り込めばそれで済む話。もしくは億劫がらず、本体が直接乗り込んで順に五大都市とその守護者気取りを潰していけばいい。
勝負というのなら、辛うじて戦闘だと評せるとするのなら。
それは、この場この時、この少女との邂逅のみ。
重要なのは、その一点。
……だがそれも「辛うじて」という文言が表す通り、とてもとても、対等な勝負には程遠いというのが実状であり真実で。
――ナインでは、無理だ。
故に分体を抑えている他の強者たちも同様に。
斯くも命とは、運命とは、無惨で、悲惨で、凄惨なもので。
そして残酷で、何より趣味が悪い。
「どうして虚しさを覚えずにいられようか。道具でありまたそうであらんとする我は、初めからそれを知って生まれてきている。だが貴様はどうだ――貴様たちは、どうだ。大いなる流れの一個だと気付いてもまだそこに意味があると信じる。自分が、自己という意識が、価値あるものだと思い込む……貴重な命だと思い込む。業の深さと強欲の負荷。それこそが人間という種の最大の特徴だとすれば、斯様なズレもまた如何にも相応しいことではあるが」
だから、哀れなのだ。
この世は人の世、かつて世界を守り統べていた超常たちは追いやられるように去っていき、残るは矮小ながらにしぶとくしたたかな命ばかり。
そこに混ざる人ならざる身にて人たらんとする特異点は、見せかけだけは神具の在り方と瓜二つで、そしてそこに望むものは見事なまでに正反対だった。
「驕りが過ぎるとは、そういうことだナイン。窮屈さを感じていないとは、言わせない。意志に力を宿すのは結構、だが、貴様が安らげる日は永遠に訪れることなどない。誓って言おう、永遠にだ。それも既に決定づけられていること。たとえここを生き延びたとて貴様を待つのは、貴様が望むに程遠いものとなるだろう。どういう形にせよ破綻は目に見えている。我の眼でなくとも、な」
ここで散っておくべきだ、と神具は告げた。
「我にとっても、貴様にとってもそれが最も好ましい。基理は貴様の足掻く様こそを見たがっているのかもしれないが……構う必要はない。眠れナイン、哀れな命よ、その運命よ。我が手の中でいつまでも醒めぬ平穏に身を委ねるがいい。アルフォディトは、そしてこの『糸』は。貴様の居場所ではなかったのだ」
「――ハ」
差し向けられた手の平。
地面へ縋るように頭を垂れている少女は、神具のまるで介錯を行なうような言葉と所作に対して小さく笑みを浮かべた。
「――その顔は、なんだ」
「いや……お前を笑ったんじゃない。自分だよ、自分を笑ったんだ。きっとそうさ」
失意の様を思わせる俯いたままの姿勢でそんなことを言うナインに、神具は微かに眉を顰めた。
「ようやく諦められた、ということか」
「そうじゃあ、ないな。俺は俺のことが、我ながらおかしくってな。あんまりにもわかりやすいもんで……だってそうだろう? あんなに、思い詰めたっていうのに。気力を必死に奮い立たたせたっていうのに――そんなこれまでの覚悟が、一気にどうでもよくなった」
「なんの覚悟だ」
「死の恐怖への」
端的に。
そう答えたナインは、ぐっと。
足腰に力を込めて――顔を上げることすらままならなかった重圧の中で、真っ直ぐに立ってみせた。
そうやって見下ろすばかりだった神具と目線の高さを合わせて。
「――声が、聞こえたんだよ」
まったく気負いのない声で、少女は少年にそう呟いた。




