501 どんなにそれが怖くても・起
ごぽり。
口から尋常ではない量の血を吐き出しながら、ナインはそれを見る。
己の腹を突き破る、己の腕。
そしてその手中に収まる、『聖冠』の存在を。
「ふむ? 貴様に合わせてか随分と小ぶりになっているな……。だが、無事で何より。これでようやく『我』が戻る」
肉体にも感情にもあらゆる刺激が重なって脳が揺さぶられているナインを他所に、神具は滔々と、飄々と。
少女の凄惨な姿など気にも留めず、まるで何事もなかったかのように自分の一部たる七聖具最後の片割れだけをじっくりと眺めて検分していた。
「――ほぉ。腹から出しても所有権が移らない……帰ってこない。貴様の身体はやはり不可解だな。我の瞳では覗けない部分。つまりは真理の業とは異なる点で貴様の奇異なる体質の妙があるということ……うむ。まあ、いいだろう。ひとまず貴様の所有権を神具の権限で剥奪する。永くアルフォディトを護るのだから、ここで我は完全とならねばならない」
「……、」
――『九割九分回収できたか』。
ナインの脳裏によぎる、神具の言葉。
九割九分――それが現在の神具の完成度。
神具の手が伸びてくる。聖冠は赤い宝玉を明滅させている――輝きにまったく力がない。神具の支配に大人しく従っているようにも見える。
そうだ、既に聖冠が持つ能力は奪われてしまっているのだ。今それを操っているのは紛れもなく神具であり、聖冠そのものにはもうなんの超常的な力も宿っていない。
が、それでも。
九割九分と十割はまるで違う。
数字にすればたった1パーセント……いや、それ以下のたとえ0.1パーセント程度の差だとしても。
未完成と完成には大きな隔たりがあるはずだ。
だからこそ神具は、もはや空っぽのガワでしかない聖冠にこうまでも執着しているのだ――ならば。
これを奪われてはいけない。
「う、……ぉぉおおおおおおおおおおっっ!!」
「!」
神具よりも先に、掴む。そしてそのまま握り潰す。
ぐじゃぁっ、と名状しがたい音を立ててナインの右手ごと聖冠が砕かれた。
他ならぬナインの、残された無事な左手によって。
「貴様――」
「安心、しとけ。聖冠は無事だ、壊しちゃいない……」
ただの棒きれも同然となった元右腕を腹から引き抜き、掌中のそれを見せる。潰れたナインの骨肉に埋もれるように薄く輝く宝玉がそこにはあった。
「聖具の力の源は、こいつなんだろう……? 悪いがよ。大人しく返してやる気は、さらさらないぜ」
傷が響いているのだろう。息を荒げながらもそう宣言したナインは、宝玉を自身の体に埋め込んだ。「ぐ……ぅ」と歯を食いしばって決して小さくはないそれを鎖骨の内側へと仕舞いこむ。押し込んだ親指をずぽりと抜いて、そこについた宝玉よりも真っ赤な血液を少女は舌で乱雑に舐めとった。
「どうしても欲しけりゃ……今度はこの首ごと持ってきな」
そうやって凄むナインに、神具は。
「……本能的に理解しているのか。あるいは抗っているのか? どちらにせよ、我を前にしてそれを許されることが、特異点たる所以か。だが疑問だな。貴様がそうであることは知っている――しかし何故そうなのかが杳として知れない。機縁はなんだ。動機はどこだ。貴様が貴様足らんとするその苦悩は、何を主眼とし、何を主題としたものなのか」
少女の返答を期待したものではない独り言も同然な台詞を無機質な顔立ちのままに、ナインを見ながらもどこか遠くを見つめるように呟いて――そして唐突に焦点を、少女の視線と合わせて。
「どうでもいいことだが」
「――ッ」
直感に従ってしゃがみ込む。その直後に頭の上を薙いでいく目に見えぬ力の気配。――どうやら神具はこちらの言葉を真に受けて首を刈り取ろうとしたらしい。攻撃を躱してからそう悟ったナインは、瞬時に肉体を加速させた。
「呼ばれ落とされた存在理由。たまさかのその重みさえ量れたのなら、それでよしとしよう」
頭部狙いのハイキック。手の平で止められる。即座に左拳を叩き込む。それも同じ手で受け止められたので少女は瞬間に身を翻して沈み込む。虚を突いた足払い――を神具は余裕を持って跳んで、空振らせた。後方に着地するタイミングを狙って三足の獣のようにナインが飛びかかる。が、それすら神具はふわりと避けてしまう。
地響きを立てながらいくつもの瓦礫を砕いた少女の横で、神具は軽やかに降り立った。
雷の如くに激しい一挙一動が激しいナインとは反対に神具の動き方は優雅なものだった。一見すると速度において大きく劣っているように感じられる彼の挙動はしかし、不思議とナインのスピードに対抗できており、むしろ翻弄までしている。これは奇妙なことだった。ただ体の使い方が上手いだとか戦いに慣れているとか、そういうテクニックだけで再現できる範囲を明らかに逸脱している少年の戦闘法は、それ自体が彼を神具と証明し象徴する絶対の力の具現化の印とも思えるほどであった。
「……っ!」
まるで敵わない。
必死の様相からも明らかな通り、この時点で全力以上を振り絞って戦っているナインだ。
それをこうも見事にスカされてしまっては否応なしに力の差を実感させられ、どうしてもネガティブな思考に支配されそうになる。
――自分はここで、死ぬのかもしれない。
ナインとなってから『死ぬ物狂い』は何度も経験してきている。昔の自分なら逃げてばかりだった『戦う』という行為から、絶対的な恐怖からも逃げ出さず、常に立ち向かってきた。その最中で死を意識したことだって、何回もある。
ただし今回のこれは。
死の恐怖などではなく、死そのものが。
心にも体にべっとりとへばりついてくる――あたかも予見を与えるかのように、明確すぎる死の光景が自身の目に映し出される。
死。死ぬ。死ぬこと。死んでしまう。死が迫ってくる。死がすぐそこにいる。死とは。
死とは、あらゆる可能性の終焉。
――ナインは既にそれを経験している。
「……だがまだ、死んじゃない」
「――?」
「あの時にもう、終わった命だ。二度も死ぬのはご免被りたいところだが――悔いの残る生き方は、もっとイヤなんだ!!」
死とは、常に思うもの。
想うもの。
戦わずに済むのならそれが一番いい。だが戦わないことには得られないものがあることも事実。その果てに待ち受けるのがたとえ自分の死なのだとしても。それでも諦めきれない何かが、捨てきれない何かが、確かにそこで待ってくれていると――そう信じたいから。
「だから! 俺は負けない、負けられない! てめえにだって……これまで通り勝ってやるよ!!」
ドン!! と踏み込む。
力の限りを超えた力――を更に超えて。
何もかもを打ち砕く意志を拳に乗せて振り抜く。
それを受けて少年は呟いた。
「――七重障壁」
神具の権能が宿る最強の障壁。七つが一体となってどんな攻撃も完全に防いでしまう、まさしく絶対の壁となっているそれが――次々に割られていく。
一層二層三層四層五層六層が一息に散って、そして最終七層目。
終わりへと届いた拳は、そこでようやく進撃の――快進撃の勢いを失った。
「今度は六層突破。誇っていいことだ。ここまで我に近づける者など過去にはいなかった。しかし、不満なのだろうな。貴様は本気で我にこれを打ち込むつもりでいたはず。不心得にも我を倒すつもりでいたはず……それが理想。しかし待ち受ける現実とはいつでも人にも世にも酷なもの。貴様の拳は最後の壁を破れず、こうして果てで力尽きた」
「いいや。俺はたったいま確かに言ったはずだぜ。『まだ死んじゃいない』……ってな」
「、……!」
びきりと。
拳が触れ、そして神具が見つめる最終障壁の一部に。
はっきりとした亀裂が走った。
まさか、と少年が小さく声を零すよりも早くに。
「ぉおおおっらあぁ!」
少女から裂帛の気合が吐き出されて――ついに彼女と彼を阻む絶対の壁が、その拳で完全に打ち破られたのだった。




