498 もう一人の
世界とは縄のようなものだ。
と、神具は言った。
「数多の糸が編みこまれた一本の縄――それが世界とすれば。束ねられる糸のひとつひとつにまた、小さな世界がある。『ここ』もその一本。悪魔が行き来する『魔界』もまた別の糸だ。隣り合う糸や、そうでなくとも近しい位置にある糸と糸であれば比較的容易に出入りを果たせる――が、どんなに遠くにあってもそこは縄の内。往来を可能とする手段は確かにある。……そういう意味では、ナイン。お前を異世界からの来訪者と呼ぶのは正しくない。遠い糸からやって来たようだが、それでも全ての糸は縄という一個の世界として存在し、管理されているからだ」
「…………」
理解が及ばないナイン。呆けた表情のままに、されど話にはきちんと耳を傾けているらしいことから、神具は構わずに続けた。
「聞くところによると縄は何本もあるらしいな。それらを編んだのが、基理たちだ。命の創造主たる神を創造した真なる創造主こそが、即ち世界を創った四つの大いなる理。――ああ、神のような超生物と考えるのは非と言っておこう。言うなれば基理は絶対的な法則だ。意思を持てど意識はない。おそらくは基理もまた何かに従って世界を創り、そして――壊している。そうやって全てを管理している。数え切れないだけの縄を編み、解し、編み直す。襤褸になった糸を抜き、新たな糸を混ぜ、世界として構成する。捨てられる糸は循環が滞った糸だ。この糸もまた、そうなりかけている」
「…………」
「明らかに真理が歪だ。神代が終わり、英代が終わり、そして人代が終わる……はずだったが、そうはならなかった。そのせいなのだ。三百年前に滅びるはずだった時代が未だに続き、循環が止まってしまっている。淀みから生じる穢れは絶え間なく湧き続け、真理の集約は自然、あるべき世界とすべく人の世を終わらせようとするだろう。まだ糸として残っているのは……おそらく基理が『待っている』からだ。危うい均衡がついに破れようとしているこの糸が、果てにどんな姿を見せるか実験しているのだろう」
「…………」
「故に我は先触れたらん。これから先にどんな邪悪が世に蔓延ろうとも――我はただこの地を守るだけのこと。他の土地が滅びようといくつ種族が絶えようと知ったことではない。ここでなければ、どこでもいい。今一度人の世を左右する点で言えば我もまた淀みの一環として数えられるだろうが、そんな評価もまたどうでもいいことだ――そして。そこで問題なのは貴様だ、ナイン」
「――俺が?」
不意に自分の話題へと戻ったことで、ナインは半ば無意識で言葉を発した。今彼女の脳内は神具の明かす衝撃的な新事実の咀嚼を努めるのに精一杯であったが、なんとかリアクションだけは返すことができた。
けれど。
彼女が真実衝撃的な言葉を聞かされるのはこの直後だった。
「糸を行き来する手段はある、が。では誰が貴様をこの糸へ導いたのか……疑問には思わないか?」
「……! 誰が、だって――そんなもんは、」
「考えたこともなかった、か? そうだろうな。糸を跨ぎ別の存在へと作り替えられる過程で貴様自身、基理へと触れたはずだ。その力の――否、もはや力とも言えない不変の法則の絶対性を魂魄に浴びたことで、貴様は無意識に頭を垂れることを選んだ。元の自分と決別し、糸を去ることを、心髄から受け入れた。そうする他にないと知っていたわけだ」
「――、」
それに関しては……確かに心当たりが、あり過ぎる。自分でも当初は疑問に思っていたことだった。なぜこうも別人となることに抵抗がないのか? あまりにも非現実的な事態であることや、せっかく得られた第二の人生であること、そして何より強くあれる存在としての責任感――そういったものを理由としていつの間にか、理想となることだけを目指すようになった。それはいいが、けれども。
もしもそうすることが――最初から『誰か』に決められていたのだとしたら。
「淀みが関係していることは間違いない。糸越えが必然か偶然かはともかく、この糸に引っ掛かったことはそれが原因なのだろう。貴様を移したのが基理そのものか、それとも小人のようにその力に通じる何者か。いずれにせよ謎の鍵は『もう一人の来訪者』が握っていそうだな」
「なんだって……!?」
ある意味では。
それこそがナインにとって最も重大なワードだったかもしれない。
――もう一人、いる。
自分以外にもこの世界に紛れ込んだ、誰かが。
それは。
ひょっとしてそれは――。
「そいつも貴様と同時に現れているな。……だがまあ、国外だ。我には関係がない。国内の、この時期に、我の下へ導かれるように真理を背負って来た貴様こそが我にとっての問題なのだ」
混乱が重なるナインに、少年となった神具は手の平を翳した。
「我の作業を、貴様は許し難いことだと宣うのだろう。真理とは運命の集約。基理のもたらす流れそのもの。我らがここで相まみえることは、数多の偶然に支えられつつも間違いなく必然だった。故にはしため共の言にも乗った。――ナイン。糸に持ち込まれた新たな因果の収束点よ。貴様は、我にとって最大の『邪魔』である。排除以外の択はない」
「戦ろうってのか……!」
「是だ。だがその前に……我を返してもらう」
「!?」
突如としてナインの体から粒子が漏れ出し、急速に神具へと吸い込まれていく。
常にあった力が抜けていく感覚。
神具の手中へと収まるその光は、いつか見た『聖冠』の赤い宝玉の色とよく似ていた。
「……ふむ。これで九割九分回収できたか」
「俺の中の聖冠の力を……奪ったのか」
魔力がない。元からナインにそんな力はないが、そういうことではなく――腹の内からもその力が感じられなくなった。当たり前のように頼りにしてきた聖冠の存在感ががなくなったことで、いずれそうなるだろうと覚悟はしていたものの、それでもどことなく空きっ腹になったような心許なさが少女の身を包む。
だが、神具は満足していない様子で。
「やはり本体も取り戻さないことには、完全とはならないようだ。そちらも回収できるつもりでいたんだが。存外貴様も執着が強いな――いやなに、褒めているつもりだ。そこまで聖具が懐くとは、とな。だがまさか譲ってやるわけにもいかないのでな。どれ、体を真っ二つにでもしてやれば、大人しく出てくるか……?」
「っ……!」
向け直された手の平。そこに込められた力の用途が明らかに変異したことでナインは地を蹴った。回避、ではなく攻撃のために。先ほどは思わず離したくなった距離を、自らの意思で詰めていく。そして渾身の殴打を神具へとぶつけて――大きく目を見開く。
(障壁……! なんつー硬さの!)
ナインの拳は神具に当たる直前で止められている。この世界で習った文字とは明らかに別の種類の文字が複雑な模様とともに描かれた神具の障壁は、ナインの拳でも砕けぬほどに硬かった。
「我は『聖典』に宿る意思。全ての聖具を支配し結び付けることがその力。我の下に聖具の力があるのだ」
聖光。絶対破壊。絶対守護。無限の魔力。封印と解放。超常無効化。
どれひとつとっても常識外れのそれらの能力が余すことなく集い、そして。
その全てを合わせてもなお上回ることのできない、絶対的な力を神具としての身が有しているのだと彼は告げる。
「ぐっ……!」
確かに、拳から伝わる感触は信じられないほどに堅固だ。それこそこんなにも硬いと感じるのは聖冠と戦った時以来かもしれない。いや、聖冠を守っていた膜よりも更に、比べる材料になりはしても比較対象としては相応しくないほどに、彼の障壁は著しく硬い。
神具。
その言葉の重みが否応なく実感できる――だが、しかし。
「おぉおお――」
「!」
「――おおぉおおおおっらぁあ!」
ナインとて、あの時のままではないのだ。成長している。色々な戦いを己が拳で潜り抜けてきたという自負もある。故に、殴り抜く。殴って破れない壁ならば、もっと全力で殴ればいいだけのこと――。
止められた拳へ力を込め直し、強引に壁をぶち破ったナイン。
砕け散る障壁の破片を吹き飛ばすように神具へ突き進んだその殴打は。
――空振りに終わる。
「『守護』の力が内包された障壁を破るとはな」
「しぃっ!」
背後から聞こえた声に反応し、即座にそこへ回し蹴りを叩き込む。が、それは神具の手にあっさりと阻まれてしまう。まるでただそこに置いてあるだけのようにしか見えない彼の腕が、少しだけ動き。
「ぐうっ……?!」
その途端にナインは不可思議な力を浴びて、ぶっ飛んだ。瓦礫の上を転がり、なんとか止まりはしたものの――深く戦慄する。今の力には少女も覚えがあった。正確に言うなら、食らい覚えがあった。
それこそはただ腕を伸ばすだけでもそこに超越的な力を刻み込むという――。
「そう、『神の力』。かの存在の作り出した道具として我は限りなくそれに近い力を操れる。我の支配圏は、広いぞ。この地平だけでは到底足りないほどに。どれだけ必死に駆けようと逃げられはしない」
またしても背後へ立った少年の言葉に、地面に手を着いたままで少女は、されど尋常ならざる闘志を滲ませて。
「俺が、逃げると思うか?」
「思わんが」
「――だったら言うな!」
跳ねるように起きて、その勢いのままに右の拳を神具へぶつけんと――。
「よほどそれに自信があると見える。なら」
ぐにゃり。
ナインの肘が――いや。
その空間が曲がった。
視えざる神の手に掴まれたかのように、そこには圧倒的なまでの力が加えられて。
「っぐ、っぁぁあああああぁぁぁぁっぁぁぁ!!!」
少女の、あらゆる艱難を打ち砕いてきた自慢の右手が――千切り取られた。




