492 老婆と詛術師
全力で叩き込まれたそれは、決着の拳。
その一打こそが洞穴内におけるこれまでのどの戦闘のどの攻撃よりも激しい衝撃を生み出したことは、言うまでもないだろう。
ナインの拳は確かにヤハウェを捉え、そしてその下の地面へ底の見えない深々とした亀裂を走らせ……それで勝負は完全に決したのだ。
「カ……ッ、ァ……」
「ふぅー……、」
口を大きく開けたまま、しかし全身からは力が抜けきったようにぴくりとも動かないヤハウェ。そんな様子を見て大きく息を吐きだしたナインは、彼の腹に突き刺さったままの月光の槍を引き抜いた。
やはりと言うべきかどうか、槍越しに伝わってくるのは人体の腹部というよりも木の幹から取り出すような生身を思わせない感触でしかなかったが、とにかく体を縫い留めていた槍が消えて――なのにヤハウェはろくに反応を見せなかった。
空っぽの眼窩に視線などというものはない。果たして意識があるのかどうかすらも定かではないが、しかしどうしてだかナインには彼と目が合っているような感覚があった。
「お前さんの負けだぜ」
だからきっぱりと、声に出してそう教えてやる。
まるで死体の横で独り言を呟いているようななんとも言えない絵面であったが、だけど彼女の言葉はしっかりと相手に届いていたようで。
「お、……ま……」
「?」
微かな声量でヤハウェの口から何か言葉らしいものが漏れる。ナインはそれを耳に手を当ててよく聞いてみることにする。すると。
「お前さえ……贄とすれば……今度こそ、『儀恤』……エンバー様を……、もう一度、理想の世界、に……俺……、」
途切れ途切れの発言だったが、それでも彼が何を言いたいのかは十分に理解できる内容であった。諦めていない――否、諦めきれていない。完全なる敗北の時を迎えようとも、そして自分自身でももはやこの状況を覆す手段が皆無であることを存じていながら、なおも彼は己の野望に縋りつくことをやめられないのだ。
「まったく。この期に及んでまーだそんなことを言っているのかい」
ナインが何かを言うよりも先に、呆れたような声がヤハウェにかけられた。少女にも詛術師にもその声の主が誰であるかはすぐに分かった――アリーカだ。
いつの間にか避難場所から移動してきていた老婆はクータたちの補助を受けながら、ゆっくりとヤハウェの下にまで歩を進めていく。
「ありがとうよ。ここまででいい」
腕と腰を支えていた少女らの手が離れる。その途端にアリーカは座るというより落ちるような勢いでそこに腰を下ろした。顔色の悪さからして、きっと今の彼女は自分だけの力では立つことすらもままならないのだろう。
「アリーカさん……?」
「……、」
老婆のあまりの衰弱ぶりに疑問を覚えたナインだったが、彼女はただ薄く微笑むだけで何も言わなかった。少女は次いで自分の仲間たちへと視線をやった――特に治癒術の心得を持つジャラザへと。しかしジャラザは、何かを覚悟したような顔で小さく首を振るだけだった。それでナインも概ねの事情を理解する。そうだ、できることがあるなら事前に彼女がやっていないはずがない……つまりアリーカは既に治癒を受けたあとなのだ。
受けたうえで、それでもこんなに弱っている……まるでいつ死んでもおかしくないくらいに弱り切っている。
なのに彼女は、表情だけは朗らかに。
「なあ、ヤハウェ。もういいだろう?」
「ア、リーカ……」
老婆と人をやめた詛術師が互いを見つめる。
人のそれではなく黒樹の幹が腕の形を取ったものへと変換された旧友の手に、アリーカは自らの手をそっと重ねた。
「あんたも好き勝手、やりたいだけをやってきたじゃないか。そういう人種にこそ怒りを抱いていたあんたがだ。結局のところ、人間なんてそんなもんなのさ。我を通すってのは他人の我を曲げるってこと。世界を変えたいと願ったあんたも、あんたにそう思わせた連中となんら変わりはしないんだよ」
「アリーカ……俺が、本当に絶望したのは……」
「わかってる。わかってるよ。あんたはわたし以上に泣いて、わたし以上に怒ってくれた。わたしのことを抱きしめてくれた。あんなに乱暴で、あんなに優しくて。あんなに安心できたのは、後にも先にもあんたの腕の中だけだったよ」
「――最初は。お前の、ためだったんだ……お前のために願った。それだけが俺の……願いだったんだ」
「ああ、そうだろうね。わたしはそれを疑わないよ。あんたのことだ、きっと最初は本当に、それだけだったんだろうさ……」
「俺は……俺を変えてくれたお前を……お前のことを、傷付けた魔術界が許せなくて……だから、力こそが全ての世界を――術師全員が平等となる世界を、夢に見た。だが、お前は……」
「そうさ、あんたにはついていかなかった。そんな誘いになんて乗るものかい……だってわたしは、信じていたんだ。力だけに頼ることのない、本当の意味での魔術界の夜明けを……きっとアルルカならそれを成し遂げられるとね」
「あいつは……確かに天才だ。エンバー様が唯一認める他に類なき魔術師だ――しかしだったら、なぜ! 委員会の腐れどもに慰み者にされるよりも先に、お前を救ってくれなかった!? だから、間に合わないと知った、そう確信したんだ、あの時に俺は! アルルカには力がある、だがやり方が温すぎる。しかし先を急ぎたくとも俺には、急ぐだけの力さえもなかった……!」
「それで、手下を増やしてとうとう魔術界に反旗を翻したエンバーに惹かれ、誘われて、あんたもまんまと詛術師一派に加入しちまったんだね」
「そうだ、そうでなければ……魔術界の膿からまたいつお前が、その瞳を理由に奴隷のように扱われるか――」
「そんなことにはならなかったよ。アルルカは魔眼の伝聞なんて気にせず、わたしを手厚く保護してくれた。魔術戦争の後にわたしがひとり旅立つ時も、最後まで大反対していたくらいさ。だからそんなことにはなりようがなかった」
「……! だが、奴はノロい! エンバー様との決着すらも長く忌避していたほどに呑気な、お花畑だ! あいつの改革なんて何百年経とうと成し遂げられるものか!」
「いや、改革は成ったんだ。ずっとここに引き籠って趣味の悪いことばかりしていたあんたは、まるで外のことなんてわかっちゃいないだろうけれどね」
「なん、だと……、」
「確かにえらく時間はかかったようだったがね。それでも百年ほど前にはもう、ギルドの体制もすっかり変わったようだよ。あんたが贄としてきた迷い人から話を聞いて、わたしはそれを確信した……知ってるかい? 今は魔術なんて呼ばずに、魔法と呼ばれているんだよ。アルルカが先導して新たな秩序を――法を敷いたのさ。今や大陸中が彼女を今世最優の魔女だと評価しているんだ。あの恐ろしい女エンバーだってもう、今を生きる者たちからすれば遠い昔話の悪役でしかない。……詛術の女王を信奉する者なんて、あんた以外とっくにどこにもいやしないんだ」
「………………」
「わたしたちは、生き過ぎたね。アルルカはまだまだ元気にやっているようだが。出涸らしのようなわたしらはもうそろそろ、人生ってもんに幕を引くべきなんじゃないかい?」
「……アリーカ」
「あんたは人を殺し過ぎている。そしてそうさせたのは、他でもないこのわたしだ。もしも地獄なんてものがあるなら、わたしたちはそこを永遠に彷徨うことになるだろうね。だが、それもいいだろう。どうやったって償い切れないだけの贖罪なら、終わりのない責め苦が相応しいってもんさ……詛術なんていう呪いから、いつか本当に解放されるためにはね」
「お前が……責任を感じることじゃあ、ない……」
「いいや。そんな都合のいい理屈なんてあるもんかい。わたしらは等しく咎を背負うべきだ。……せめてそれくらいは認めておくれよ。行き先がどこだろうとわたしはもう二度と、あんたに置いて行かれるつもりはないんだからね」
「――……、」
ヤハウェが口を開き――しかし思い直したように閉ざしたのを見て、アリーカは懐から何かを取り出して彼に見えるようにした。
「こいつはあんたの庭の中で作った丸薬だ」
「そうか……流石、亜科薬学専攻の才女、だ……あり合わせの材料で、魔力沈殿の呪いを、取り除いてみせたのか……」
「完璧にじゃあ、ないがね。所詮は一時凌ぎで、しかもこいつ自体が呪いめいた毒薬でもある。あんたの領域で寿命以上に生きながらえているこの体にゃ一粒でもとうに限界。そいつを既にわたしはふたつ飲んでいる……。そして――」
がりっ、と噛み砕く。
手の中の丸薬をそうやって体内に取り込んだ老婆は。
「これが三粒目にして最後のひとつ。……わたしたちを終わらせるための一粒さ」




