491 ヤハウェvsナイン⑤
「はあぁっ!」
「クキッ……、」
すれ違いざまの拳閃によってヤハウェの脇腹が弾け飛んだ。
しかしすぐに体の内側から黒樹によって失われた部位が補填され、怪我などなかったことになる。
「クカカカ!」
異常な速度で修復を終えたヤハウェの背部からまるでハリネズミのように幾本もの木槍が飛び出す。標的へ目掛けて突き刺さらんと迫るそれらのうちの一本をナインは蹴りつけ、反動で回避。そして即座に急転換。
「!」
「おらぁ!」
ヤハウェに対応させる暇も与えずに殴打を見舞う。べぎり、と嫌な音を立てて彼の首はあらぬ方向へと曲がった――が、そこの部分も既に黒樹にすげ替わっていたらしい。うにょんと気味の悪い動きで顔の向きを戻したヤハウェは「クケラッ」と笑って。
その両目から黒樹を突き出してきた。
「?!」
また口内からの木槍攻撃が行われるのではないかと警戒をしていたナインだったが、これには反応が遅れた。射出位置は殆ど変わっていないようなものなのに、しかし眼球を捨て去ってまで眼窩を砲口に仕立てたヤハウェの思慮外の行動にナインは動揺してしまったのだ。
果たして彼がそれを狙っていたのかどうか、とにかく少女は目から飛び出す槍を完璧には躱しきれなかった。咄嗟に仰け反ったはいいものの額を擦るように過ぎ去っていく二本の木槍によって新たな傷が刻まれ、ヤハウェとも距離が僅かに開く。
「クケケーッ!!」
そこへ待ってましたと言わんばかりにヤハウェが腕を振り上げた。メキメキと成長した彼の両腕は枝分かれを繰り返して幾重にも重なり、複雑な軌道を描いてナインを囲うようにその先端を伸ばしていく。
逃れられない、と悟ったナインは。
「うぅうおおおおぉおぉぉぉぉっ!!」
だから力いっぱいに――暴れた。
迫りくる数え切れないだけの鋭枝を近づく傍から叩き折っていく。
折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る折る。
彼女は窮地に際してただそれだけを繰り返して、その果てに。
「クキ……」
枝の全てを叩き伏せ、勢いのままにヤハウェとの距離を詰め直す。少女が繰り出した回し蹴りは黒樹の腕にヒット。一応は防御姿勢を取った彼の努力を嘲笑うようにブロックごと蹴り飛ばしてみせた。
ズドン! と破片を撒き散らしながら土壁にめり込んだヤハウェだったが――。
「クカッカカカカ!」
跳ね起きてすぐにそこから抜け出たかと思えば、奇声を発しながら昆虫を思わせる例の手足の使い方で壁を駆けあがっていく。そうやって彼が通った後からはあたかもそこに種が整列して植えられでもしていたかのように、黒樹の触手が次々と生えては鎌首をもたげてナインに襲い掛かっていく。
「上等だぜ……!」
瞬く間に長く太く育った触手の群れへ自ら飛び込んでいきながらナインは――。
この戦闘を通じて少しだけ……本当にほんの少しだけ、敵であるヤハウェという人間のことが分かり始めてきたところだった。
――アリーカがこれだけ激しい戦闘の場に居合わせながら、まるで被害を受けずにいるのは何故か。
それは勿論、場所自体の広さやナインが気にかけていることも理由の一端ではあるだろう。いかに覚醒モードに入って頭に血が上っていようと、他者を巻き込まないことを念頭に置いて戦う程度の分別はつく。土埃や石片などが彼女のいる場所に飛んでいくことまでは防げないが、ヤハウェとぶつかり合う際にそこら一帯にはどうにか被害を与えないようにと入念な注意を払っているのだ。
ナインがそういった気遣いをするのは当然として……ではヤハウェのほうはどうなのか。
彼にナインズ及びにアリーカを気遣う理由など皆無のはずだ。なら何故ひたすらナインにばかりかまけてそちらを狙わないのか? いくらナインがそれを阻止するように動いていたとしても、これだけ意のままに黒樹を操れるヤハウェがここまでの間に一度もその機会を窺わなかったことは少々奇妙に過ぎる事実である――彼はナインからアリーカへ攻撃対象を変更させる素振りすらも見せていないのだから。
対抗詛術による封印を取っ払えば、状況はヤハウェにとって好転するだろう。少なくとも悪い方向に向かうことは絶対にない。一時はアリーカを人質に取った彼の戦法を思えばそうしないのはむしろ不自然だとすら言える。ナインズが護衛として控えている以上、再度人質にしようとしても非常に難しいだろうがしかし、ならばひと思いにアリーカの息の根を止めてしまうという選択もあるのだ。詛術の使用を目指す意味でも、ただナインズを巻き込むように攻撃すればいいという難度の低さの意味でも、むしろヤハウェにとってはそのほうが遥かに都合がいい。
諸々を踏まえてナインは考える――「どうしてアリーカは未だに殺されずにいるのか」と。
ヤハウェがそれを狙うなら少女は全力で阻止する所存だが、そもそも彼がそう行動しないのは……ナインがそれだけ、些細にも別のことに対して意識を割けないほどの難敵であるからか。
もしくは『儀恤』覚醒による極度の興奮によってそんな策すらも練れないほどに自我というものを失ってしまっているからか。
……どちらもあり得そうな話であり、そしていかにもな話でもある。
だが少女の勘は、不思議なことにこれらの想定が間違いであると囁いていた。
本当に彼が我を失ってただ戦うだけの化け物に成り果てているのなら、こうも意図したようにアリーカたちの居場所が戦闘範囲から外れるわけがないのだと。
それはつまり興奮状態にあってもなお彼には「絶対に踏み越えられない線」というものがあることを示しており――そしてナインは。
なんとなくではあるが在りし日のヤハウェとアリーカ。この二人がいったいどんな関係であったのか、伝わってきたような気がしたのだ。
「そんな風になっても……っ、」
「クカカカー!」
眼窩と口から散弾が如くに勢いよく吐き出された鋭枝が、腕に深々と食い込み。
「血を流させたくないくらいに……!」
「クカッ……!」
けれどナインは負った傷をより深刻にすることを恐れず、むしろ自分でそれを後押ししてまで腕を押し込み――強引にヤハウェの首を鷲掴みにして。
「大事に想えるんだったら――」
「グ、ギ、ゲェ……、」
思い切り壁に頭部を叩き付け、そしてゴリゴリと下ろすかのように強く擦り付けて。
「最初からお前が! 最後までアリーカさんを!」
「グガ――、」
左手から血肉が零れ散らかるのも気にせずそのまま彼を放り捨てて――否、地面に向かって盛大にぶん投げて。
「悲しませないように――守りやがれってんだクソ野郎!」
「カァッ……!」
地に激突したそこへ、本日見せる最高速で突貫していく。
身に纏う白亜のオーラすら置き去りにするような速度で真っ直ぐ落ちてくる怪物少女に、人間をやめた詛術師は。
「クケケーッ!!」
眼球を失くしポッカリと空いた目を大きく見開きながら哄笑する。瞳もないのに彼にはしっかりとナインが「見えている」のだ。『儀恤』によって無理矢理強さという一点において数段上のステージに上がった彼はもはや目に頼らずとも周囲を把握できるようだった。それは強者が持つ肌感覚にも等しいものだが、黒樹そのものを肉体とした今のヤハウェは操る木々の全てを自分の器官も同然に扱い、感覚器を拡大させることで更に鋭敏な察知能力を身に着けるに至っていた。
故に、どんなに速く素早くナインが強襲してこようとヤハウェが惑うことなどない。
繰り返すが、彼にはしかと見えているのだ。
その動きも、軌道も、どんな攻撃をしてくるのかも万全に読めている。
テンプレートな右での殴打。いわゆるテレフォンパンチ。格闘の素人めいたその攻撃が怪物の手にかかればどんなものも容易に粉砕せしめる脅威の拳打となるのだが、だとしても。
どんなに類い稀な腕力をナインが誇ろうと……当たらなければ意味などないのだから恐れる必要もない。
威力を出すことばかりに意識を傾けている様子の今のナインは、先を読むまでもなく真っ直ぐここへ、ただひたすらに向かってくるのは明らかだ。
――ならば自分はその線上に攻撃を重ねればいい。
その迷いのなさが仇となって逆にナインは己が死地へ自ら飛び込むことになるのだ、と。
少女の臓物を飛び散らせることだけを目指す血濡れの思考でそういったことを目論んだヤハウェは、その考えの通りに両腕の黒樹を操作した。
彼にとって最も強さと速さを高い水準で両立させながら操れるのが、始めに黒樹で補った左右の黒腕であった。その力を枝分かれになどせず一本に集中させるて、左右合わせてふたつの最強の矛が――まずは右、次いで左と発射された。
少女と槍。互いの凄まじい速度もあってその激突はすぐだった。
ただし。
「『守護幕』!」
使い捨ての防壁として虹色の幕を使用したナインは一本目の槍を衝撃と共にやり過ごし。
「『瞬間跳躍』!」
続けて迫るもう一本を、今度はたった十センチだけの転移によってスレスレで先端を躱し。
「クキ……ッ!」
「――『月光剣』ン!」
右腕は引いたまま空いた左手に出現させた月光剣を再度槍状に変形させて、肘から先の駆動だけで投擲を実行――そんな投げ方でも槍は途轍もない勢いでヤハウェの腹をぶち抜いて、異形の肉体を地面へと縫い付けた。
ドグン、と月光の力が脈を打つ。
「グッ、ギギ……、」
中和の力が肉体を殆ど黒樹へと入れ替えたヤハウェを苦しめた。
その苦悶によって晒された、たった一瞬の隙こそが。
長く続いた勝負の分かれ目であった。
「くたばりやがれぇっっ!!」
「―――――ッ!」
怪物少女の憤激と慈悲が綯い交ぜとなった巨力が一撃の拳へと全て注がれて――詛術師の何もかもを、完全に打ち砕いてみせた。




