487 ヤハウェvsナイン③
ナインは地面と一体化した。
ように見えるほど低く、そして素早くしゃがみ込んだのだ。
肉体の駆動範囲や地面という壁。それらの物理的制限の限界いっぱいに頭身を低くした彼女の頭上を、ゾッとする風切り音が通過していく。
「ッ……!」
通り過ぎたそれはヤハウェが突き出した拳から伸びてきた鋭枝だ。十数メートルという距離感がまったくないもののように一瞬にして眼前に迫った木の殺意をナインは見事に躱してみせた――とは、とても言えない。
頭上を過ぎた枝の一本が、分岐しているのだ。まるで誘導弾が如くに少女の動きに反応したそれは当初の軌道を大きく変えて、躱したはずの彼女へと飢えた獣のように食らいついていた。
突き刺さっている。
ナインの右腕には深々と鋭枝が侵入してきていた。
――そう、『侵入』である。
それがただ刺さっただけではないことをナインはすぐにも実感させられた。
(なんだと、こいつ……! 俺の肉体で育ってやがるのか!?)
腕の肉を掻き分け、骨を伝うように。内部に侵入した枝がまるで少女の血肉を栄養分としているかのように爆発的な勢いで成長していく。このままでは一秒と経たずにナインの右腕はあえなく爆ぜることだろう。
「――こんにゃろうがぁ!」
育ちが一瞬ならば少女の判断も一瞬だった。
肉の中の木の異変を察知した瞬間にナインは空を殴るようにして腕を動かし、強引にそれを引きずり出した。当然枝は食い込みながら爆発的に体積を増やしてもいたのでその際には少なからず自身までも引き裂く結果になりはしたが――しかし決断が速かったおかげでどうにか怪我の範疇で済んでいる。傷跡のせいで人の手で握り潰された赤い果実のような見かけにはなったものの、腕を丸ごと失うよりも遥かに被害は少なく、間違いなく少女の行動は最良と評せるはず。
だが。
「カァアアアアッ!!」
「!」
深い手傷を負わせたこと。
それ即ちヤハウェの攻撃は成功しているということだ。
先ほどまではどれだけ黒樹の物量で追い込もうとナインを追い込み切れなかった。どうにか一撃を加えてもいまいちダメージは通っていなかった。が、今度はどうだ。あんなにも血を流して、あんなにも痛そうに。表情を歪めて動揺を見せているのだから――これぞ。
「これぞ! エンバー様が作り上げた『儀恤』の! 真の力だナインんんんん!」
少女の傍へ猛然と駆け寄ったヤハウェの速度はもはや別人のそれだった。その急激な変化に目を見開くナインへ、振るわれる黒腕。もはや黒樹そのものと化したヤハウェの身体。その変異のおかげで彼は術式を組むまでもなく自在に己が木体を操れるようにまでなっていた。筋肉と一体になった黒樹はよりしなやかにより逞しくなって、そして瞬発力の向上により打撃力の重みまでもが遥かな変貌を遂げていた。
「ぐぶ……っ!」
少女の体が吹き飛ばされる。どうにか地に足を届かせ転がらずに留まったものの、ナインの脳は激しく揺れていた。頭蓋内の振動はガードが間に合っていなかった証。堅牢なるナインの肉体はそれでも生半なことでは傷を負うこともなければ不調に陥ることもないが、しかし今のヤハウェにはそんな怪物を相手にも十二分に痛痒を与えるだけの桁外れのパワーが宿っているようだ。
それはまさに、生命力が漲る大樹の力を余すことなく発揮しているかのような。
「ふははは……! これで詛術が使えたならば、万全をも通り越して万感の強さだったのだがな……!」
ちらりとアリーカのいるほうへ視線を移した瞬間――衝撃。ふらついていたはずのナインがその位置から凄まじい威力の跳び蹴りを放ってきたのだ。
それを黒樹の壁で受け止めながら、ヤハウェは亀裂を思わせる壮絶な笑みを更に深めた。
「――いいだろう、あくまでお前がそのつもりならば。詛術を使わずとも念入りに縊り殺してやろうじゃないか!」
ぶわっと。
ヤハウェを囲うようにその足元から生えてきた黒樹を、ナインは回し蹴りでまとめて弾いた。砕け散る木々はその一撃で生命力を刈られたように力を失ったが、所詮そんなものは目晦まし。
たったの一動作。たったの一手分だけ、ナインを遅らせるためのただの捨て駒である。
「カァァアア!」
「ぎっ……、」
跳び上がり、そして打ち下ろす。黒樹と化した両腕を双方同時にナインの上から叩き付けた。少女を拳と地面に挟み込んだままでヤハウェはそこへ、万力のように力を加えていく。ぷちんと小さな体が弾ける様を想像するが――ナインはこれを耐えている。己が拳に隠れて見えないが、おそらくは鬼神さながらの険相を浮かべて必死に抵抗していることだろう。
今の圧倒的とすら言える自分。
詛術の女王が策定した復活以外でのもうひとつの『儀恤』の用途を完璧に再現させた自分は、故に並び立つものなく。
それこそ女王本人か、彼女が自身と同格と唯一認めた大魔法使いくらいしか例外はいないだろうと。
そう確信しているヤハウェだけに、辛うじてではあるが己に対抗できているこの白い少女には少なからず苛立ちを覚えた――けれど。
「ふはは……!」
優位に立ったという余裕があるからか、それでも彼は寛容でいられた。いやむしろ、強敵の存在を歓迎までしているくらいだ。
通常では考えられないナインの並外れたポテンシャル。しかしそれを下に敷く側となったことで、今の彼にとって怪物少女はもはや超極上の『餌』としてしか映っていなかった。
「お前から絞り取った血を再構築させた祭壇に注げば……ひょっとすればそれだけで『儀恤』が完了するかもしれないな。少なくともこれまで集めた分より劣るようなことは決してあるまい。二百年の成果に等しいだけの凄まじい生命力が、お前にはあるのだ……! 逃す手はない!」
もっともっと、両の樹腕に力を込める。べぎりべぎりと耳障りな音が鳴る。しかしそれはヤハウェにとっては心地良い音色だった。メロディに奮起するように彼は、本当に少女と地面を一体化させてしまおうと腕を更に押し込み。
「お前が祭壇を破壊して台無しにしたのだ――その分の負債はお前自身に払わせ、」
そこで言葉を止める。拳から伝わってきていた少女の抵抗が感じられなくなった。どころか、少女の存在そのものまでもが。
しかしヤハウェは慌てない。
この現象は不可解でもなんでもない。
何故なら感触よりも先に、空間を揺らぎを彼は感じ取っていたから。
(また転移か。――馬鹿めが)
ヤハウェは嗤う。それはナインが取った苦肉の行動へ向けた哀れみの嘲笑だった。
黒腕によるプレスから他に逃れるすべがなかったとはいえ、それでも転移に頼るのは愚策にも程がある、と。
ヤハウェの考えは正しい。いずれも黒樹の檻から脱するための転移ではあるが、似ているようでその実先と今では状況がまったく違うのだ。転移読み読みの思惑があったところでもはやそれを知っているからにはヤハウェからしても対処は可能であり、しかも現在の彼は超強化が果たされてもいる。月光剣の投擲で意表をかけた前回の転移を参考にしては、ナインは確実に痛い目を見ることになるだろう。
(――背後だ!)
事前に感知した通り。予感と寸分違わずの位置に出現したナインはやはり、その時には既に攻撃のモーションに入っていた。足刀をぶつけようという蹴り。それが少女の選んだ道。しからばそれに相応しい末路を示さんとヤハウェは木の体をイメージ通りに動かした。
「来るのならこちらから迎え入れてやろう!」
読んでいたのだから当然仕込みもある。ナインが後ろへ現れると同時に、ヤハウェの背中から勢いよく木が飛び出した。それはナインの腕を引き裂いたのと同じもの――鋭枝によるカウンター攻撃。蹴りつける動作へ入っている少女にこれを躱すことは叶わない。
詰みである、と口角を上げたヤハウェ。
「ふ――がっはぁ!?」
その確信ごと、ナインは蹴り抜いた。
左足にいくつも突き刺さった枝に対して顔色ひとつ変えずに、なんの躊躇いもなく。
ぶちぶちと飛び出た無数の枝に脚部を鮮血に染めながら――その血の軌跡で弧を描いた美しい蹴撃でもってヤハウェの背中からその左頬を思い切り打ち抜いたのだ。
「がふっ……、こ、この……!」
「怯むとでも、思ったのか? それとも痛みで蹴りを引っ込めるとでも? あんなひょろい枝なんかで俺を止められると本気で思ってたんなら……呆気なく死ぬぜ、あんた」
「……!」
蹴り飛ばされ這いつくばったヤハウェを見下ろす少女。片腕と片脚をズタボロにさせた、痛々しいその姿で――しかし威風堂々と、確固たる自信を抱かせて。
流れる血よりも紅い瞳で、詛術師もどきの男を睨んでいた。




