48 死して生まれ落ちる
断末魔の声はなかった。
喉をひとつ残らず焼かれたヒュドラには声を上げることすら許されず、苦悶の痙攣だけを残して動かなくなった。息絶えた瞬間というのならそのときだったのだろう。
一個の生物の死を見届けるナインの目に、不思議なものが映った。
ヒュドラの残骸とも言える骨や血肉が撒き散らされた、巨体故に凄まじい量になって辺り一面を汚していたそれらのパーツが、たちどころに消えていくのだ。赤黒い光の残滓となって空気に溶けるように雲散霧消し、毒溜りすら潮が引くようにいずこかへと消え去った。
後に残ったのは――
「どうなってる? こいつはどこから来たんだ?」
ナインの問いに、クータもユーディアも無言で返した。二人も同じように困惑しているのだ。
彼女たちは百頭ヒュドラが力尽きたその場で示し合わすでもなく合流し、そしてそれをみつけた。
死の跡地に、動く影がひとつ。
それは蛇だった。
青白い鱗をしている、美しい蛇。
その色味からはどこか晴天を思わせ、見る者に清々しい印象を与える。清らかという言葉が似合う生き物――問題は、まるで意味深長に「この場」にいることだ。百頭ヒュドラという蛇の頭を持つ怪獣が死した場所に佇むこの蛇が、よもや無関係の通りすがりということもあるまい。
だとしたら、これの意味するところはいったい……?
沈黙を破り、口を開いたのはユーディアだった。
「私、聞いたことがあるわ……ヒュドラの伝承を」
「伝承だって? それはどんな」
「ヒュドラという生き物は本来、百頭ヒュドラのようにとても大きな生物だったらしいのよ。というのもヒュドラは元々、ドラゴンなんかと同じく神代の末期に神の血から生まれ落ちた生物で、生命力の象徴だった。強く大きく不遜なその様は、まさに人のイメージする神そのものよね。ただしヒュドラは神ではなく、あくまで一個の生物だから……人間にとっては邪魔な存在だった。だってあまりに大きくて、ただそこに居るだけで人の生活はめちゃくちゃになってしまうもの。だからとある英雄に討伐の依頼がなされた。英雄はヒュドラとの戦いで毒を警戒して、遠距離から弓と矢でもって数えきれないほどの頭を少しずつ撃ち抜いていった。けれど相手は生命力の塊。頭部を減らしきらないうちから次々に再生していって千日手になったのよ。そこで一計を案じた英雄は、巨大なヒュドラよりも更に巨大な大岩を探し出して、ヒュドラの頭上へ投げつけた。再生する間もなく全身を潰されたヒュドラはそこで息絶えたと言われているわ。でも、そのとき散った肉片がそれぞれ小さなヒュドラになって逃げだしていったとも伝えられている。そうやって私たちも知っている、大人しくて自然の奥地でひっそりと暮らすような現在のヒュドラになった、ってね」
一区切り。青蛇へ感慨深いような視線をユーディアは向けた。
「ただの逸話、神話のエピソードとしての真っ赤な創作でしかないと今の今まで思っていたけど……これを見る限り、あながち伝承も嘘八百ばかりとは言えないみたいね」
「つまり、この蛇は百頭ヒュドラが遺していったってことか?」
「そうとしか考えられないでしょう。……で、そうだとしてよ。あんたはこいつをどうするつもり?」
「俺が、決めるのか?」
決定権を委ねられてナインは多少なりとも驚くが、ユーディアは「当然よ」と頷いてみせる。
「都市長に話を付けたのはあんただし、戦闘の功労者もやっぱりあんたでしょう。それを認めない私じゃあないわ。だからこの蛇をどうするかを決めるのは、ナイン。あんた以外にいないのよ」
「……そうか」
そう言われれば、そうかもしれない。
納得したナインはクータの様子を窺ったが、彼女もナインの決定に従う素振りを見せた。
即ち殺すか放すか――しかし逡巡した末のナインの結論は、そのどちらでもなかった。
「――よし。つれていこう」
「……あんた、本気?」
「本気だよ。この青蛇が百頭ヒュドラの分身だろうと生まれ変わりだろうと、まるっきり同じ存在ってわけじゃないんだ。ここで仕留めるのも無体な話だし、だからと言って見逃すのもよろしくない。百頭ヒュドラのように大きくなって、また人里を脅威に晒すかもだしな。じゃあもう、俺がつれていくしかないだろう」
「ふうん。あんたが責任もって管理する、と。でも育ててやれば懐くなんて思ってるならお花畑としか言えないわよ。先祖返りか何か知らないけど、あれだけの化け物から生まれたものだもの。同じように巨大になって、いつかあんたに牙を剥く可能性のほうがずっと高いわ」
「ああ、そうかもな。俺に牙を剥こうがどうしようが、それは構わないんだけど……ただし百頭ヒュドラみたいに異常な巨体になって、他の生き物に迷惑をかけるようになったら。その時は、俺が始末するしかない」
少し悲しげに、ナインはそう言った。
フールトの街と住民たちを守るためとはいえ罪を犯したわけでもない生き物を手にかけたことに、少なからず感じるものがあったようだ。自分のことを善人ではなくただの臆病者だとしか思っていないナインだが、だからこそ罪悪感を覚えるかどうかは本人でもその線引きが曖昧であった。
許されるべきか、許されざるべきか。
その決定権は自分にはない。そう思っている。
しかし、得てしてルールを作るのは強い者である。良くも悪くも先導はあらゆる意味での強者が行うのだ。だとすればユーディアの言う通り、いかに臆病だろうとここはナインが決めるべき場面であり、分不相応の自覚があっても、命を裁くべきなのだろう。
(この世界に来てからというもの、俺も物騒になった。すでにいくつも命を奪っておきながら、こんなの今更の悩みなんだろうが……保護するのはまた別の覚悟が必要だもんな)
しかしそれもクータを拾ったことで経験済みとも言える。彼女と同じ立場ということにはならないけれど、自身の庇護下という点でよく似た関係ではある。
「とまあ、俺はそのもりだけど。お前さんはどうなのかな。俺についてきてくれるか?」
問いかけながら青蛇と視線を合わすナイン。言葉が理解できているのか否か。百頭ヒュドラの様子を思えば通じるはずもないのだが、けれどこの時、一人と一匹の間には確かな意思の疎通があった。――少なくともナインにはそう感じられた。
「じゃら……」
小さく喉を鳴らした青蛇が、近づいてくる。地を這って滑るようにナインのほうへ。それを見たクータが警戒し、接近を阻止すべく動き出そう――としたところで、ナインに手で制された。
その必要はない。
本当にいいのかと一瞬だけ迷ったクータだが、言う通りにしようと見守ることに決めた。出しかけた炎を収めて制止する。その間にも青蛇はナインの傍へと寄り、足を昇り、腰を昇り、するすると肩まで這い上がっていく。
頭の横ににゅっと置かれた青蛇の顔を、ナインは人差し指の腹で優しく撫でてやった。
「……いいんだよな?」
「じゃら」
ナインの確認。青蛇からは「ついていってやろう」という気配を感じた。クータが半ば見初めたように後ろを追ってきたのとは違って、明らかに野生のルールが働いている。即ち弱肉強食の掟が。
弱者は強者に逆らえない。
青蛇は極めてクレバーに自身の置かれた状況を理解し、そして飲み込んでいるようでもあった。
「まどろっこしいわね。どっちみち連れてくんでしょうが」
「一応、承諾は得たいじゃないか」
「頷かなければ殺すんでしょ?」
「さすがにすぐ殺したりはしない。だから青蛇にとっては、同意を持って同行するか、無理やり連行されるかの違いだな」
ユーディアは呆れたように「同じことじゃない」と嘆息するが、ナインはそれを無視してクータに話を振った。
「ってわけだ。旅仲間が増えるから、クータも先輩としてよろしくしてやってくれな」
「りょうかい! へびが言うこと聞くうちはそうするね! じゃなければ焼く」
「お、おう」
一貫して崩れることのないクータの態度に、ナインは主人ながらに惚れ惚れするような思いを抱くのだった。
……どこか胸が寒くなるような悪寒も、ちょっとだけしたけれど、それは秘密だ。