471 各所開戦
「……いやにそこら中がぬかるんでいるようだが。これで本当に耐久性に問題はないのか?」
「やっぱりここは居心地がいーでございますー」
敵との気まずい沈黙を我慢した先、案内されたその空間が妙に多量の水分を含んだ土壌で構成されていることにジャラザは顔を顰めていた。彼女の視線の先には、ぴちゃぴちゃと素足で足音を立てるのに夢中のゼリと名乗った少女がいる。ブリムの広い帽子とワンピースというまるでピクニックに出かける乙女が如き恰好をしている彼女へ、ジャラザはなんとも言えないため息をついた。
「おい。……おい、小童!」
「? 私はゼリでございます」
「わかった、ゼリだな。そう呼ぼうではないか。ただし、お主のほうも名で呼ばれるに相応しい言動をしてくれんものかの――」
「この辺りが水溜まりになってて楽しーでございます」
「人の話を聞かんか!」
「はい、なんでございますー? さっさと聞かせろでございます」
「っ……!」
猛る感情のままに怒鳴り散らしそうになったところを、ジャラザはぐっと我慢した。数回呼吸をして気を落ち着ける――こんなことで心を乱されていてはいけない。自分がここに何をしに来たのかを考えれば、ゼリという少女の抜け具合はむしろありがたいことだとも言えるのだ。
「水気がある場所が戦場なのもむしろ儂にとっては幸運だ……しかし、おそらくは貴様もまた――」
「はい、想像の通りでございます」
ジャラザから向けられた視線の意味を解したらしいゼリは、何を考えているのかいまいちわからない無機質な瞳ながらにしっかりと頷いてみせた。
「私の能力は水を操ること。ゼリーマンというモンスターを元に人間と結び付けられることで誕生したのがこのゼリでございます。母なるエンバー様にお仕えすることが私の使命――なので、そのために敵は排除排除でございます」
「趣旨は理解できておったか……ならば儂のやることに文句もあるまいな!」
「!?」
ゼリの足元にあった水溜まりが、いきなり蛇のようにのたうち回った――かと思えばすぐに少女の脚へと絡みつく。自らの下半身を縛るそれへ僅かに驚きの感情を覗かせたゼリはしかし、ジャラザが何をしたのかを正確に見抜いていた。
「如才なく、そして油断ならないのでございます――私が水遊びをしている間にこんなものを忍び込ませていたのでございます?」
「その通り。同系統の能力を持つのであれ先手必勝だ。先のように油断はせん、水の支配権を奪われる愚など犯さず……このまま沈めさせてもらおうか!」
ずぅりと喉元まで這いあがって来た水蛇に、けれどゼリは慌てる素振りを見せず。
「もちろん文句なんてねーでございます。だってこんなのはお互い様なのでございますから」
「なんだと……?」
「私に気付かせることなく己が操る水を侵攻させたのは見事でございます。だけどそちらだって気付いていないのでございます――私もまた、ただ水遊びに興じていたわけではねーのでございますよ」
「っ!? これは――」
ゼリの周辺の土壌から、大量に何かが浮き出てきた――否、『何か』などと誤魔化す必要はない。それが彼女の能力によって支配された土中の水分であることは疑いようもないのだから。
同じだけの時間をかけて、しかし規模の違いすぎる操作量にジャラザは呆気に取られ――ることなくその間にも全力で敵の首を絞めにかかった。
が、しかし。
「ちぃっ!」
ゼリの操る水が彼女を洗い流すように包み込み次にその姿が見えた時にはもう、体を縛っていたジャラザの水蛇はどこにもいなかった。
――食われたのだ、敵の水に。
作戦失敗により舌を打ったジャラザを見てニヤリと。
ゼリは不遜に、不穏に笑った。
「やっぱり決着はついているのでございます」
「ぬかせ。儂の手管はこの程度ではないわ!」
量には量。そう思い至ったジャラザは大技を繰り出すことに躊躇などしなかった。
「食らいたければ、食らうがいい! 『瀑泡弾』だ!」
「一緒に水遊びがご所望ですか――望むところでございます!」
ほぼ同時に放たれた両者の水の弾幕が、激しく衝突した。
◇◇◇
「…………」
「…………」
他の二部屋とは異なり、戦いの場についたクータとメロウは言葉を交わすこともなく、ただじっと互いに見つめ合っていた。真っ直ぐ敵だけを睨むクータと口を笑みの形にしたままのメロウとでは表情にこそ大きな差があれど、どちらにも鬼気迫るだけの迫力が満ちていることは共通していた。少女たちの体からは凄まじいまでの闘気が溢れている。際限なく高まっていくそれが、やがて両者の中間で揺らぎを生むようにぶつかった瞬間――。
「「!」」
二人は息を合わせたかのように動き出す。足裏からの炎の猛射によって一歩で距離を詰めたクータがその勢いのままに反対側の脚で蹴りつけたのを、メロウは燃え盛る髪を振り回しながらあえて迎撃。蹴り足に最も力が乗るタイミングに己が蹴りを叩き込むことでそれを止めた。
「……!」
技が見切られている。インパクトが強まる瞬間を見抜かれたうえでわざわざそこを止められたのだ。たったこれだけでもメロウという少女の強さがよく判るというもので――そしてだからこそ、そこでクータは一層に燃え上がった。
「はあぁああああっ!!」
「!」
全力で業炎を纏う。最初からフルスロットルの火力は、この勝負の後にヤハウェという首魁が待ち構えていることを指摘した張本人であるとは思えないほどにまったく後先を考えていないようにも見受けられるもの。しかし熱くなっていることは事実でもだからと言って我を忘れてはおらず、むしろ現在の彼女はほんの時折垣間見せる彼女生来のクレバーさをよく発揮しているところだった。
後先を見据えて戦えるほどまだ自分が強くないこと――そして仮に全開で戦ったからといって容易く下せるほど目の前の敵が弱くないこと。それを重々に承知している彼女は故に、ヤハウェという更なる強敵を先に見越しながらも今この瞬間に全精力を傾けるという矛盾に恐れることなく挑んでいけるのだ。
そうしなければこの勝負に勝ちはない――価値はない。
矛盾を乗り越えた先にこそ、次なる成長の糧があるとクータは確信しているから。
「大爆炎! アタック!!」
「うおっ?」
最高火力で全身の炎を纏って敵へ特攻する、クータの必殺技。その爆発的な威力にさしものメロウも対処が叶わずに後退を余儀なくされる。そしてそこへすかさず飛んでくる一条の光線。
「!?」
「熱線!!」
クータの口から吐き出された超高温の熱がメロウを打ち叩く。直撃を受けて強かに弾かれた少女は壁に叩きつけられ、それから。
――なんてことはないようにすぐに立ち上がってみせた。
「ふー……なあクータとやらよ。まさかこれが全力じゃあねえだろうな? もしそーだってんならとっとと殺しちまうが」
「――そんなわけ、あるか! 今のはただの準備体操だよ。クータの本気はここからだ!」
「ひは、そうこなくっちゃつまらないぜ――生温いてめえの炎を、もっと熱く激しくしてこいよ!」
「本当にぬるいかどうか、味わってみろ……! 『炎環』!」
「おお!? こりゃまた面白そうな!」
「『纏火の舞』――『瞬巧』!」
圧縮された炎の輪を身に纏うことで急激な速度向上を果たしたクータの拳が、今度は確かにメロウを捉えてみせた。
◇◇◇
「む……、どうやら始まったようだな」
奈落の最奥、祭壇の間で言葉を交わしていた二人だったが、不意にヤハウェがそんなことを呟いたものだから――それを待ちに待ち望んでいたフェゴールは笑みを浮かべながら訊ねた。
「何が、始まったって?」
「決まっているだろう、戦闘だ。妙に時間がかかっていたがようやく接敵したらしい」
「へえ……そんじゃ、今あの子らは戦っている真っ最中で。ここで騒ぎが起きたって応援にはだーれも来られないってことだね」
「だからどうした? ここには俺がいるんだ、不測の事態など起こり得ない。そもそも動けもしないお前に何ができるというんだ?」
「動けない、ねぇ。本当にそう思うかい?」
挑戦的に問いかけてくる子悪魔に、しかしヤハウェはにべもなく。
「思うね。いくら悪魔とて――いや、悪魔だからこそなのか。魔力を封じられては文字通り手も足も出せはしないだろう」
「くっふふ。ああそうだね、その通り……そこらの雑魚悪魔ならまったくもってその通りだったね――だけどもこのボクを! 下級の悪魔なんぞと一緒に考えてもらっちゃあ困るんだよねぇ!」
「っ、貴様何を――!?」
鳴動。子悪魔の肉体が放つ不可解な力の鼓動――その強大な蠢動にヤハウェが驚く間もなく、その変化は訪れた。
木製の拘束具が、呆気なく砕け散る。
それは完全に封印されていたはずのフェゴールが、だというのに無理矢理に拘束を引き千切ったが故の結果だった。
「馬鹿な……! なんだ、お前は! その姿はどういうことだ……?!」
「ふぅ~……、我ながら無茶しちゃったね。なのに『これ』か」
戒めから解放され祭壇の上に堂々立つ彼の容姿は、元の子悪魔とは格段に変わっていた――身長も手足もすらりと伸び、中性的でどこか淫靡な顔立ちも面影だけはそのままにぐっと大人びて。
今までの姿が十にも満たないナインよりもなお幼げな外見だったのに対し齢にして十五、六程度にまで成長した、まったく新たな姿のフェゴールがそこにはいた。
「単純なパワーだけ、それもよくて五割程度ってところかな……ま、それでも十分だね。――やあ、ヤハウェ。ちゃんと自己紹介しとこうか。ボクはフェゴール、オルトデミフェゴールだ。何が起きたのかは見ての通りさ……もうボクのことを、あんな木切れなんかで縛れると思うなよ」
「……!」
見るからに元の力量とは桁違いとなった悪魔の放つ重いプレッシャーと殺気に包まれ、ヤハウェは――。




