47 奮起せよ少女たち
「ふう――お次は、と」
毒流こそ塞き止めたナインだが、百頭ヒュドラ本体をどうにかできたわけではない。即席の谷は深いがヒュドラの巨体を受け入れられるほどの幅はない。この程度は奴からすればちょっとした溝みたいなもので、きっと構わず「突っ込んで」くるはず。
そう、意にも介せず――こんな風に。
「かかってこい!」
拳を構えるナインの眼前に、鎌首をもたげたヒュドラの頭部が勢いよく迫ってくる。
毒液の濁流を思いもよらぬ方法で無効化されたことでナインという少女への対処は「物理的な直接排除」へと切り替わっている。
フリッカージャブよろしく胴体より頭のいくつかを先行させて弾き飛ばすか圧し潰すか――いずれにせよヒュドラにとってみれば負けのない勝負のはずだった。
「キシャアッ!」
いの一番に到達した蛇頭とナインの拳が激突する。
傍から見ればどちらに軍配が上がるかなど火を見るよりも明らか。重さも大きさもまったく異なっているのだ、ヒュドラからすればナインの手などちっぽけなもの。ボウリング玉と米粒を比べるようなものだ。一瞬後には少女の体はバラバラになるか、もしくは無残な放物線を描いて地に落ちるだろう――それが当然であり必然。
が、それを誰より信じないのがナイン本人だ。
「ふんっ!」
結果は、まるで正反対。吹き飛んだのは蛇頭のほうだった。小さな拳に競り負け――否、競ることすらできず実に呆気なく、肉塊を撒き散らしながら勢いよく仰け反るようにして後方へ押しやられてしまう。
「!? ――ッ!!」
あにはからんや百頭ヒュドラの心中は驚愕に満たされた。
自身が力負けしたことに納得がいかない、が、すぐに思考は濃厚な殺意へと取って代わる。
所詮は百分の一が下されただけのこと、まだ己の負けではないのだと。
頭部のひとつを失ったことなど気に掛けるまでもないと言わんばかりに、ヒュドラは繰り出した残りの蛇頭の牙を光らせた。
「キシャアアアアァ――――ッ!!」
視界を埋め尽くさんばかりに迫りくる数えきれないほどのヒュドラの頭部を前にして、しかしナインは自分のやるべきことを迷わない、見失わない。
向かってくるなら、迎え撃つ。それだけでいい――それだけをするのだ。
それこそがベスト!
「はああっ!」
打って砕いて弾いて打ち払って振り抜いてかち上げて叩き落として殴り飛ばして飛ばして飛ばして飛ばして飛ばして飛ばす。
蛇頭と拳の応酬は僅か数瞬にして都合三十を超えてなお収まることを知らない。ヒュドラは頭部を粉砕されながらも手を――この場合は「頭」を――緩めようとはせず、そちらがその気ならとナインも迎撃の手を休めない。
何もヒュドラは無策で頭を犠牲にしているわけではなかった。
数を頼りに攻めても手傷すら負わせられないのは些か想定外ではあったが、しかしそれでも焦りはなかった。
何故なら自分に触れているその時点で敵の敗北は決まっているようなものだからだ。
陸地で濁流を生み出すために全身から分泌させた多量の毒液は未だ己が身を覆いつくしている。つまり頭部を「殴った」ことによって敵はすでに猛毒に侵されているのだ。
触れたその瞬間に身動きが取れなくなるはずだがこの小さな生き物はまだ元気に動いている。それがどうにも不思議だったが、我慢も長くは続くまい。こうして何度も触れていることで被毒はますます加速している。すぐだ。今にもこいつは倒れ込む――間違いなくそうなる。
一本一本丁寧に頭部を減らされながらヒュドラは今か今かとその時を待ち構えるが、未だナインは壮健である。弱るどころかエンジンがかかったのかますます全身に力が漲っているようにも思える。これはいったいどうしたことか、ナインは毒を無力化する術でも持っていたのか……?
いや、そうではない。
百頭ヒュドラの神殺しとまで称えられる猛毒の効力は確かにナインに効いていたのだ。
ではなぜ彼女は毒に負けずに動けているのか?
答えは簡単、ナインは毒を握りつぶしたのだ。
勿論これは比喩としての表現であり、本当に毒を握力任せに破壊したわけではないが、しかし本質としてはそれと何ら変わりないと言えるだろう。最初の蛇頭を迎撃して直後から肌に違和感を覚えたナイン。すぐにピリリとひりつくような感覚が訪れた。元より気味の悪い色をした液体が無害なはずもないと常識的な判断を下していたナインは「やはり毒の類いか」と納得し、そして――気合を入れた。
そう、気合を入れたのだ。
吸血鬼ですら苦痛に倒れるほどの劇物を受けておきながら、ただ気張っただけで彼女は猛毒の症状を克服してしまった。ひりつく感覚が消え去ったのを確認し、そこからはもはや遠慮はない。いや、元から遠慮などありはしなかった。有害な物質だというのは承知で、けれど「負ける気がしない」という根拠のない確信を持っていた彼女はやはり理不尽の権化である。
見上げるような巨体で、存在するだけでも厄災となりうる百頭ヒュドラ。そのうえあらゆる生命を根絶やしにできるほどの毒をその身に持つ驚異的な化け物――それを物の数とも思わない天外の怪物、ナイン。
頭部の数が半数以下にまで減らされてようやくヒュドラは悟る。
敵は自らより遥か強大であり。
狩られる弱者はこちらのほうで。
己の巨大さも力も毒も、こいつはまるで物ともしていない――。
力強く素早い跳躍で胴体部まで間合いを詰められたその瞬間、遅まきながらそれを理解した。
豪腕が唸る。
「そこ、だ!」
空間ごと抉り裂くようなうねりを伴って、小さな腕が百頭ヒュドラの頭の一本へ炸裂した。
血しぶきを上げて爆散したそれは百頭の中でも最も太く大きな一本で、全体のちょうど中心の位置に根差していた。百頭ヒュドラの頭部はすべてがそれぞれ思考能力を持ってはいるものの、やはり一個の生物であれば当然司令塔としての部位は存在している。まさに百頭を統べる頭部こそがこの一本だった。冴えわたる直感によってそれを見抜いたナインの攻撃はどこまでも正しく、故に百頭ヒュドラにとっては痛恨の一撃と相成った。
「キッ――――――!」
甲高くもくぐもった悲鳴を上げて百頭ヒュドラは押し返された。山に等しい巨大なヒュドラが、初めて進行を止められた瞬間であった。ナインの重すぎる一発は毒流を滑り落ちるヒュドラを容易く食い止め、それどころか押し戻すに余りある絶大なパワーを秘めていた。
前脚側の頭部を根こそぎ失い、メインの頭をも打ち砕かれたヒュドラは信じられない思いでたたらを踏み、脚元の毒液を跳ね散らす。地響きが起こる。揺れているのはヒュドラも同じだ。どうすればこの怪物から逃れられるのか、とここに来て初めて「逃走」へ意識が向いた。自身が外敵に勝ちえないことを認めたからこそそういった思考ができるようになった――しかしその切り替えは残念ながら遅きに失している。
百頭ヒュドラは傷を負いすぎた。
火傷や脚二本に空いた穴程度なら行動に支障はないが、しかし頭部の半壊はヒュドラをもってしても大怪我の部類に入る。
致命傷とまではいかずとも、致命的と言って差し支えないだけのダメージではあるのだ。
巨大な肉体を制御しているシステムの半分以上が失われており、しかも百頭ヒュドラは恐怖している。ナインという小さな存在をこの上なく恐ろしく思い、逃げ腰になって――必定、動きはどうしても鈍る。押し返されてふらつきながら、危機的状況と理解していながらそれでも二の足を踏むのはやはり、文字通りに半減した脳と恐れに重くなった心がヒュドラの肉体を鎖のように縛り付けているからだろう。
そして彼女たちがその怯みを――最上の好機を逃すはずもない。
「ブラッディ・グングニル――ッ!」
「大、爆、炎! アタ――ック!!」
血の魔槍が同部に突き刺さる。その威力は直前の槍と比べても飛躍的に向上しているようだ。一脚を傷付けるのがせいぜいだったはずが、今はただの一投でヒュドラの頑丈な肉体に風穴を開けることに成功している。ナインに対する対抗心と負けん気が良いほうに作用したのだろう――そしてそれはクータも同様だ。
ペットとして主人に置いていかれるわけにはいかぬ、と強く願ったクータの炎は一層苛烈に燃え上がっている。猛火を迸らせながらの大胆な突撃は毒を恐れ距離を取るだけにとどまっていた先の姿をまったく連想させないほどの勇ましさだ。
一見すると無謀にも思えるその突貫は、しかし現在のクータであれば無謀足りえない。狙い通り、毒液は彼女の肉体を汚す前に超常的火力によって焼き尽くされる。憂いの消えたクータは情け容赦なくヒュドラのもはや百頭とは称せないほど目減りした頭部を燃やしていった。
「う、わっとぉ。こりゃまた……」
降り注ぐように投擲され続ける槍の群れ、延々と放射される炎の台風。
圧巻の物量と熱量を誇る二人の怒涛の攻めは、とどめを刺すべく歩を進めていたナインが思わず立ち止まってしまうだけの激情がこもっていた。
槍によって血肉が舞い、肉片が炎によって焼却される。こそぎ落とされるように百頭ヒュドラの体はどんどん小さくなっていく。ユーディアの投げた回数、あるいはクータの突進が三十を超えたころには元の威容が見る影もなくなっていた。
初感想頂きました! うれしい!
 




