468 奈落へ
アリーカが『闇の領域』と呼んだヤハウェが創り出した特殊なフィールドは、彼が儀式に捧ぐ獲物として認定した者以外にその存在を悟らせないようになっている。それこそが二百年以上もこの地で人攫いを繰り返しておきながら未だに世の明るみに出ていない真相であり、転じてこの事実はナインズから選択肢の幅を奪う材料ともなっていた。
「おそらく、ここだの」
「わ、地面に穴が開いてるね。ぽっかりだよ」
「この奥に――フェゴールがいるのですね」
「ふん……ついでにヤハウェと、あの三人組のやかましい娘たちもな」
鼻を鳴らしながらジャラザが覗き込むのは、地面にデンと開いた大穴。まるで奈落のようなそれの底はとても深く、真っ暗な闇で満たされている。しかしながらクータたちは全員が夜目の利く特製の瞳を持っている。彼女たちの目には、通常なら見えるはずもない穴の最下層がしかと映っていた。
「アリーカは魔眼の一種だという『黒空眼』を用いてヤハウェを探し出したと言っておったが……そういった力のない儂らの目でも見通せる闇であれば、この奈落自体に詛術の能力は及んでいないようだの」
「壁面にも罠の類いはないように思えます。侵入に関しては容易ですね」
「罠があっても、燃やし尽くせばいいよ。とにかく中へ入ろう。そしてフェゴールを助けよう!」
勇ましいクータの言葉にジャラザはひとつ頷き、
「そうだな。儂らにはもはやそれ以外に取れる手はないのだから――」
半刻程前のアリーカとのやり取りを思い返す。
◇◇◇
まだフェゴールは死んでいない。
アリーカの推論を聞いて、最悪の結末を想定していたクータたちの顔にいくらか前向きな色が戻ってきた。
「殺されてはおらん、か。確証とは言えんが、それならまだ希望はあるな」
「だったら今すぐに助けにいこうよ!」
「そうですね。マスターを救うためにもヤハウェ打倒は急務ですから」
聞くべき話を大方聞き終えたと判断した一行は席を立つ。フェゴールはおそらくまだ無事だが、確かな保証がなされたわけではない。ならば一刻も早く救出に向かうべきなのは自明の理である。
たとえ最悪の魔女エンバーを復活させるための生命力簒奪の作業が数日がかりの工程を経るものだとしても、フェゴールの抵抗や反抗如何では万が一のことも起こりかねない。そういった不測の事態が生じない内に――つまりは子悪魔が自力脱出を目論み、成功すればいいが失敗して敵に始末でもされてしまわない内に、自分たちの手で救い出しておかねばならないと少女らは考えたのだ。
間違ってもフェゴールに「どうせ殺されるのだからダメで元々」といったような思考をさせて、やけっぱちな逃走を図らせてはいけないのだ――となると救援に向かうのは早ければ早いほどいいだろう。
詳らかに自らの過去まで明かしてくれたアリーカに礼を残して出発しようとする少女たち。ついでに眠る主人の様子を引き続き診ておいてくれというある種遠慮がないとも言える頼みをされたことに対しては何も言わず素直に引き受けつつ、しかしアリーカはまるで少女たちを脅すような口調でその背中にこう声をかけた。
「ひとつ教えとくが――確実に死ぬよ、あんたたち」
「「「…………」」」
「エンバーが得意としていた『木属性魔術』の安い真似くらいしかできなかったあいつも、今やご立派な詛術師になっちまってる。しかも二百年前――わたしがあいつに敗けちまった時には確認できなかった三人の部下までいるそうじゃないか。ヤハウェ一人にだってあんたらが勝てるとは到底思えないっていうのに、数の上でも負けちまってるんだよ。どうしようもないってのはまさにこのことだ」
「ノン、アリーカ様。これは数の問題ではないのです」
「そうだよ。ご主人様もフェゴールも、クータたちじゃないと助けられないんだもん」
「うむ……主様の感覚頼りで儂らはこの地へやって来た。一度儂らだけでここを出てしまえば、もはや二度とは戻ってこられまい。闇の領域とはそういった類いのものだろう? 伝承にもある『迷い家』に近いと儂は理解した」
迷いなく言葉を返す三人に、アリーカは少しだけ瞼を下ろして何かを考えている様子だった。
昔を思い返すような、先のことを予見するような、いずれにしてもどこか重々しい仕草で彼女はゆるりと首を振った。
「確かに、ここで逃げてしまえばもうこの地を見つけることはできないだろうね。逃げ出した奴がいないもんだから、わたしにもはっきりとしたことは言えないが……たぶんそうなる。だが、だが――そうすれば少なくともあんたたちは助かるじゃないか」
「クータたちが助かる?」
きょとんと。
意味がわからないという顔で聞き返すクータに、アリーカは「そうさ」と大きく頷いた。
「フェゴールって子は死ぬだろう。ナインも二度と目を覚ますことはないだろう。だが、あんたたちはまだ無事なんだ。今ここから逃げれば、何事もなく日常へ帰れる。犠牲は出ちまったが、これ以上犠牲を出すことはなくなるんだよ――二人を救うために、新たに三人が死ぬことなんて、どうにも馬鹿げているとは思わないのかい!?」
「? ……???」
「ちょ、ちょいと……ここまで言ってもまだわからないのかい」
眉根を寄せて首を傾げるクータはどう見てもアリーカの言葉の意味が理解できていない。
難解な問題を前にしているような――というより、まったく解読できない謎の言語を聞かされているような表情だった。
いくらなんでも話が通じなさすぎる。理解力を他のメンバーに吸い取られているのではないかと本気でアリーカが憂慮した時、「くっく」と低く笑う声がした。
それを発したのはジャラザだ。
「そうではない。そうではないのだアリーカ老。クータが小難しい会話を解そうとしないのはその通りだが、しかし今はそういった悪癖に関係がない。言っておろうが、これは数の問題ではないのだ。助からない二人を助けるために三人が死ぬ? いいや違う、まるで違うな。何故なら五人全員で助からないことには、儂らはもうどこにも戻れんのだから」
「加えて言うなら……『人食いの死地』であるこの土地を見過ごすことをマスターはきっと良しとはしないでしょう。故に私たちはとうの昔に帰還不能地点を過ぎてしまっているのです」
「アリーカの言ってることはよくわかんないけど、とにかくクータたちは行くよ! ご主人様は絶対に仲間を見捨てたりしない。だからクータたちも、仲間は見捨てないんだ。必ず助けてみせる!」
「……!」
瞠目し、驚いた顔を見せていたアリーカだったが――やがて彼女は諦観の表情を浮かべて言った。
「ああ……そうかい。だったら好きにしな。勝ち目なんてないとわかってるだろうに、それでも死に急ぐってんならわたしももう何も言わないさ。どうせ今までだって誰も救えちゃいないんだからね。……なんだい、あんたらにそんな顔をされるゆかりはないよ。ナインはいつまでだって預かっといてやるから、どこへなりとも行っちまうがいいさ」
その言葉を最後に背を向けた老婆に、少女たちはもう一度感謝の言葉を告げて本当に出て行ってしまった。ヤハウェが祭壇を構えている正確な方角まで教えてしまったのはアリーカ自身ではあるが、聞かれるままに答えたことに後悔がないと言えば嘘になる。
彼女はもう、誰にも死んでほしくなかった――彼に殺してほしくなかった。
「どいつもこいつも馬鹿たれだよ、本当に……」
少女たちが去った扉へなおも背中を向けながら、アリーカは一人ぽつりと呟いた。
◇◇◇
「何があろうと生きて帰るのだ。フェゴールも連れ帰る、主様の目も覚まさせる。それにはヤハウェ打倒が必須にして最低の条件でもある」
「確認できている敵四名のうち、必ずしも倒さねばならないのは彼一人だけということですね」
「あ、そっか! ご主人様はヤハウェを燃やせば起きるし、フェゴールはただ助け出せばいいんだよね。クータてっきり、あいつらを全員を燃やさなくちゃいけないと思ってたよ」
「いやクータ。お主の考えもあながち誤っていなかろうよ」
「え、なんで?」
「儂らは敵の居住地へ攻め込むのだぞ。見たところ出口はここひとつ。内部構造も定かではない穴倉でその最奥にあるであろう儀式の場を目指す……言うは易し、行うに難し。未だ見ぬ戦力が控えている可能性も大いにある以上、立ち塞がる敵との連戦はどうしても視野に入れておかねばなるまい。少なくとも敵の首魁のみを叩いて即離脱、という作戦はまず実行不可能だ」
「うんむむ……あれ? じゃあ、やっぱり敵を全員燃やすのが一番ってこと?」
ジャラザの言を聞き、現在の状況を彼我の差を踏まえて頭に入れたクータが出した結論は、結局のところシンプルこの上ないものだった。
「――私も否定はいたしませんが。しかしこちらの不利な条件を思えば、できる限りスマートな行動を心掛けたいところではありますね」
「かかっ、よいではないか。敵は強大、未知の術を扱う詛術師とその部下たち――しかしていずれも下さねばならない相手であるのは事実。ならば暑苦しいくらいの意気込みで丁度良いというものよな」
「? ……まあ、いいや! クータは敵を倒すだけだもん。ジャラザ、クレイドール! 準備はもういいよね?」
「うむ、用意ならとうに」
「ええ、私も同じく」
「よし、それじゃあ――バトルへGOだよ!」
まるで魔物が大口を開けて待ち構えているかのような底深き奈落へと、三人の少女は一寸の怯えも見せずに勢いよく飛びこんでいった。




