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45 乗るしかない、このビッグウェーブに

毒はやっぱりつおい

「かっ、はっ、はっ――!」


 体中を掻きむしるユーディア。

 鋭い爪が白い肌に痕を残すが、彼女には爪の食い込む痛みを感じるだけの余裕はなかった。

 全神経はひたすらに毒の刺激を味わうのに一所懸命だ。


 痛い、痛い、熱い、熱い、苦しい、苦しい、死ぬ、死ぬ――。


 生きてさえいれば神すらも殺すと謂れのあるヒュドラの猛毒は不死者であっても死を幻視させられるほどの劇物であったようだ。


 これも百頭ヒュドラが特別だからこそ。他のヒュドラとは大きさも頭の数も違いすぎる化け物は、毒の強さにおいても同種と一線を画す致死性を誇っていた。これが通常の個体であれば仮に被毒したところでユーディアにはなんの痛痒もなかったはずだが、百頭ヒュドラは神殺しとまで言われた猛毒を過不足なく体現する正真正銘の大魔獣である。相手が悪かった、ということだろう。


 ――ただし。


(舐め、るな……!!)


 自ら死を受け入れたくなるほどの――実際、凡百の吸血鬼であればここで呆気なく命を落としていたはずだ――そんな強烈な苦痛の中にあっても、ユーディアは戦意を衰えさせてはいなかった。むしろその逆。悶絶するような地獄の苦しみの中にあってもユーディアは自身をこんな目に遭わせた、憎き百頭ヒュドラへの屈辱と激怒で燃え滾っていた。


(血だろう! 結局これは、奴の体液! つまりは血液――私にとってはただの餌! 食料なんだ! こんなので私を殺ろうだなんて……ふざけるんじゃないわよ! 食らうべきはこの、私! 負けない――負けてたまるものか!!)


 血の支配において彼女は一家言ある、どころではない。純血にして真祖、吸血鬼の中の吸血鬼を謳うユーディアは懸命に毒へと立ち向かっていた。


 我が身を侵食するそれを、自ら受け入れる。吸収し、浸透させ、己が血肉へ還元する。理解と解析と変換。これが血であるのなら、たとえ猛毒であろうと支配してみせる。ユーディアの瞳に諦めの色はまるでなかった。


 時間にして僅か十数秒、しかし悶え喘ぐ当人にとっては幾日も経過したような長い体感を経て、ついに彼女は身を起こした。


「ふ、ふふ……ふはは! 勝った! この私が!」


 勝利した。ユーディアは猛毒に打ち勝ったのだ。


 けほけほと空咳を繰り返しつつ、ユーディアは真っ直ぐに立つ。ふらつきそうになる足を気力で抑えつけ、力なく垂れさがる腕を強引に持ち上げる。

 毒を捻じ伏せるために多大な体力を消耗してしまった……が、自分は勝利者ユーディア・トマルリリーなのだ。情けない姿をこれ以上見せてなるものか。


 卑怯卑屈の邪毒を屈服せしめた誇りを胸に、ユーディアは前を見据える。体力の回復を待たず、なけなしの精神力で再度血槍を作る。だがやはり集中に欠ける状態であることは否めず、一向に魔力がまとまらない。指の隙間から砂が零れ落ちるようにして逃げていく。


 ちっ、と舌打ち。これではしばらく攻勢に出られない。クータやナインが戦う様をただ眺めることしかできなくなってしまう。


 歯噛みしながらも現実は覆せない。魔力操作が覚束ない間は大人しくするべきだと自分を納得させて、ではせめて二人の戦いぶりでも評価してやるかとヒュドラの様子を窺えば――意外と言えばいいのか、そのとき戦闘は行われていなかった。


 代わりに、もっと異様なものが目に映った。


(な、んなのよ、あれは……?)


 ユーディアが放心したのも無理はない。その原因は百頭ヒュドラの異変にあった。


 傷口から猛毒を放出していたヒュドラは、今やその全身に毒液を纏わせているではないか。必死の奮闘を演じていた彼女は見逃していたが、ヒュドラはただ毒を撃ち出すに飽き足らず過剰なまでに生成し分泌、体表から湧き上がらせて濁流のように辺り一面へと広げていたのだ。


 足元には底なし沼が如き汚泥の毒溜りが生じ、その巨躯は溶けた飴細工を思わせるように紫の液だらけ。これを見てしまえば息を呑まずにはいられない――その毒の強烈さをこれでもかと理解させられたユーディアであれば、尚更に。


 何も彼女だけではなく、それは上空を飛ぶクータも同じだ。

 毒云々の知識こそ持たないクータではあるが、眼下にて溢れ出すその不気味な液体が非常にまずいものであることは獣的な直感によって察知している。


 これは駄目だ――触れてはいけない。


 本能に訴える危機感が、それ以上の接近をクータに許さなかった。今の彼女は先の回避位置よりも更に上、高さにして百頭ヒュドラを倍するほどの高度まで上昇している。これほどの高度に陣取っているのは、それだけ距離を取らねば安全を確保できないと判断したからである。あの液体に接触することがあってはならない。そうなれば自分はなんの抵抗もできずに地に落ちる、と予感よりも確かなものをクータは感じているのだ。


 仮に彼女が炎を十全に操れるのであれば、毒液を消し飛ばしながら攻撃を行うことも可能だったかもしれないが、しかし現時点での彼女にはそこまでの芸当はできない。


 やれることと言えば火力の上げ下げという大雑把な調整くらいのもので、細かな操作はまだ身に着けていないし、これまで必要だとも思っていなかった。毒ごと何もかも消し飛ばせるくらいの圧倒的火力を叩き出せるならそれも間違いではなかっただろうが、今のクータにはそれだけの力もない。

 臍を噛むとはこのことか。

 さっきまでは優位に責めていたはずなのに、敵のただの一手でもう何もできなくなってしまった。

 己が無力さに打ちひしがれるクータの心情などお構いなしに、百頭ヒュドラは次の行動に出た。


 そう、毒の過剰分泌はそれそのものが目的ではないのだ。

 ヒュドラの企ては――「毒液の波を起こすこと」にあった。


「んなっ!? まさかでしょあの化け物、こんなことって!」


 それはまさに毒液によるビッグウェーブ。うねる猛毒は胎動し、自ら意思を持つようにして動き出す。緩やかに見えるがその速度はかなりのもので、百頭ヒュドラの向く先へ津波のように押し寄せていく。


 それ以上にユーディアを驚愕せしめたのは、その毒波にヒュドラ(・・・・)が乗って(・・・・)しまった(・・・・)こと。巨体故にどうしても俊敏な移動ができないかの化け物は、自身が生み出した毒の水流によって速度向上を図ったのだ。


 先行する毒波に追従する形で百頭ヒュドラは山林をかき分けるように滑っていく。山に匹敵する巨大生物が静かにスライドしていく様はどこか滑稽でもあったが、しかしてその実態はどこにも笑える要素はない。

 ヒュドラだけでも脅威的であるのに、今は猛毒を連れ立って急速に街へと接近しているのだから。


 もはやこれまでの進行速度の比ではなく、数十分とかからずに百頭ヒュドラはフールトを圧し潰してしまうだろう。


(なんてことなの――動きが速い、いえ、流れが速い(・・・・・)! これをどうやって止める!?)


 毒に触れた木々は一瞬で立ち枯れるように生気を失い、ヒュドラの滑った跡には剥き出しになった大地が残るだけ。これでは何もかもが死に絶えてしまうことだろう。百頭ヒュドラは自分以外の全てを犠牲にしながら浸食の如き移動をするのだ。


 ユーディアは戦慄する。

 これは否定のしようもなく、自分(とクータ)が招いた事態だ。


 種族の違いもあってフールトやそこの住民に大した価値も見出せていない彼女だが、しかし人間の血を好む吸血鬼として、「気が向けば人を守ってやるのもやぶさかではない」という程度の思い入れはある。だから今回のヒュドラ退治も彼女からしてみれば百パーセントの善意での奉仕であり、大層な気概こそ抱いてはいなかったが街を守ろうという意思それそのものは他意なき庇護の気持ちであった――それは確かだったのに。


 だというのに、これだ。

 彼女には毒波に乗ったヒュドラを止める手段が思い浮かばない。

 多少の攻撃を加えたところであの進行は止まらないだろう。

 僅かにも速度を落とせるかどうかすら怪しいところだ。


 思わず遥か上空に佇むクータへ視線を向けるが、人外の視力で確認する彼女の様子は呆然と言うのが正しいものだった。クータにも手はない。それを理解してユーディアは顔を険しくする。こんなつもりではなかった。まさかこんなことになるなんて、とフールトの消滅を半ば悲壮とともに覚悟したユーディアだったが――そこで彼女は思い出す。この場にいるもう一人の存在を。


 ナインだ。ハッとして彼女の存在を探せば――いた。


 クータもユーディアも取れる手立てはなしと諦めている中で、唯一諦観を見せない彼女が猛然とユーディアの視界に入ってきた。


 ナインは言葉もなく疾走している。


 残像すら残すような速さで樹林の隙間を駆け抜け、百頭ヒュドラの後方から一気にその進行方向へと先回りする。

 立ちふさがる一層小さな存在にヒュドラが気付けたのは偶然かそれとも、ナインの持つ一種奇想な巨力を頭のどれかで感じたからか。


 一対の視線と無数の双眸が交錯する。この瞬間、百頭ヒュドラはナインを敵として認識した。だが、何をするでもない。何もする必要はないのだ。なぜなら今にも少女は猛毒の波に攫われようとしているのだから。


 ユーディアとクータが警告を発するよりも先に、濁流のような毒液はナインを飲み込まんと迫る。対するナインは焦る様子もなく、ただ拳を握り込んだ。そして振りかぶり――


「させるか……よっと!」

 地面へと叩きつける。


 さほど力の込められていないような一撃。単に上から下へ、それだけの動きでしかなかった。


 しかしその効果は劇的に過ぎた。


 少女の腕は軽々と大地を砕いてしまったのだ。まるで狙ったかのように横一線に亀裂が走り、ばくりと大きな谷が生まれた。非常に深く、底の見えない谷底に毒液は下り落ちていく。ナインが殴打で割り作った谷は防波堤として機能し、それ以上の毒の侵攻を防いだ。


 ただ殴っただけ。それだけで少女は地形を変えてしまった。

 ユーディアが、クータが、そしてヒュドラですらも瞠目するなかで、ナインはため息をひとつ零す。


「やっぱり追い返すだけってのは無理らしいな。……しょうがない。恨むならどうか俺を恨んでくれ、百頭ヒュドラ。俺はお前を――ここで仕留めなきゃならん」


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