448 眠りと目覚めと客人と
「…………、」
ゆっくりと意識が引き上げられる――重たい瞼を開けて目にしたどこかの部屋の天井を見ながらナインは、久方ぶりに味わう微睡みというものの気怠さと心地良さに感慨深いものを抱いている。
「ご主人様、起きたんだね!」
「クータか……?」
『ナイン』になって以来初の眠気は強烈なもので、なかなか横たわっているベッドから離れる気になれないナインだったが、横手から聞き覚えのある声がしたことでようやく、のっそりとした動作ではあるが体を起こした。
椅子に腰かけてこちらを安心したように見つめるクータからはまるで病人の看護中の人物めいた気配を感じさせられる。きっと彼女自身もそのつもりでいたのだろうとナインは思った。何せ自分でも『眠ってしまったこと』にひどく驚いているところだ。ならば、クータたちが抱いた衝撃はそれ以上であったはず……。
「たぶん、かなり心配かけちまったよな。すまん」
「ううん。心配なんて、してなかったよ。ご主人様のことだもん。クータはただ起きるのを待ってただけ」
嘘だ。それくらいすぐにわかる。笑顔を見せるクータの顔に隠しきれないだけの疲労があることをナインは見逃さなかった。
「うわ、丸一日経ってるのか……」
壁にかけられた時計を見るに、少なくとも二十時間以上はぶっ通しで眠っていたらしい。……その間クータはずっとこの椅子に座って主人が目を覚ますのを待っていたのだろうか。だとすれば疲れもするだろう。ガスパウロとの戦いでの負傷だって残っているはずの彼女は、自分のほうこそベッドに伏していなければならない立場だろうに――。
「ありがとな、クータ」
「うん!」
だがナインは何を言うでもなく、ただ感謝だけを伝えた。おそらくはジャラザやクレイドールの忠告を聞かず不調の体で看病に務めていたであろう彼女に、野暮なことを言う気にはなれなかったのだ。
「ところで、ジャラザたちはどうした? それにここはどこなんだ?」
姿の見えない他の仲間たちの行方。それから自分がどこで寝かされていたのかが気になったナインは室内のあちこちを見渡しながらクータにそう訊ねる。
「ここはホテル『ファンファン』の最上階、一番高い部屋だよ」
一番高い、というワードで素寒貧同然のナインはぎょっとしたが、クータが言うにはあの象人店主の厚意によって「しばらく無料で貸し出してやる」とサービスを受けたのだという。ナインが眠っている間で既に一宿していることになるが、少なくともあと数日くらいなら問題なく利用できるようだった。
「そうなのか。やっぱりあの象の人はむっちゃナイスガイだよな……あとでちゃんとお礼しとこう」
「それから、ジャラザは街の怪我してる人とか、体調がよくない人たちの治療に行ってるよ。クレイドールもそのお手伝いで一緒に。獣人って体重が重いから、治療も力仕事になるんだって」
「おー、そっかそっか」
クトコステンにはどうも、只人の都市で言うところの治癒院のような施設が存在していないらしい。獣人の肉体があまりに頑強頑丈なせいでそんなものが必要ないのだそうだ――病気にすら生涯かからずじまいで天寿を全うする者がほとんどであるというのだから、つくづく彼らのタフネスには呆れさせられる。
「だけど今回はクトコステン住民にとっても未曽有の事態だったはずだからな。人間爆弾の被害を受けた人や、派閥間でそれこそ本気の殺し合いみたいな戦いをしていた獣人だってたくさんいたんだろう?」
「そーみたい。だからジャラザと、クトコステンで治癒術が使える人たちとで強力して、たくさんの獣人を診ているんだって……あ。あと、ついさっき首都から『応援』っていうのがきてたよ」
「応援? そりゃまたどんな」
「えーっとね……たしか『損害管理局』だって言ってたかなー?」
「あーハイハイ。なんか、どっかで何度か聞いたことあるよなその名前。そうか、俺が寝てる間に色々と話も進んでるみたいだな」
何はともあれ、前進している。
傷付いた街がそれでも立ち止まらずにいることにナインは少しだけ嬉しくなる。
起こった悲劇は消えず、失われた命が戻ってくることもないが、しかし残された者たちが懸命に今日を生きようとしているのであれば――きっと大丈夫だろう、と。
「ん……そういや一人だけ名前が出なかったけど、フェゴールのやつはどこで何してるんだ?」
「ああ、それなら――」
『ボクならとーぜん、君の傍で君の看護をしているに決まってるだろ? ナイン』
「?!」
ベッドの下。そんなところからいきなり声が聞こえてきたことに肝を冷やすナインの目の前で、潜り込める余地もなさそうなごく小さな隙間からぬるりとフェゴールが姿を現した。
相も変わらずの少年とも少女とも取れる顔立ちに身体つき。そして幼い肢体を過剰に晒け出す煽情的なファッション――その姿を改めて正面から眺めて「こんな恰好で看護は無理だろ」とナインは思った。
「あのね、ナイン。読んで字のごとく、ボクは看病するだけじゃなく護ってもいたんだよ? 我らが常識外れのキャプテンも今回ばかりはへとへとだったみたいだからねぇ。万が一にも『誰か』に寝込みを襲われちゃ君だってたまんないもんだろう? 寝ずの番でそれを防いでいたってわけさ。だから、ボクとクータに対してもっと心からの感謝を示すべきだね君は」
「そりゃ感謝ぐらいいくらでもするが……しかしお前、どこから出てきてんだよ。寝てる奴の真下なんてどっちかってーと警護役じゃなくて殺人鬼の隠れ場所だろうに」
「前に君の影の中は快適だと言ったけれど、ボクだってさすがに寝込んでいる奴の影になんて潜る気にはなれなくってね。だってそんなことしたら、こっちまで調子が悪くなりそうじゃん?」
「昨日はフェゴール、少しでもご主人様の負担になっちゃいけないからって遠慮してたんだよ」
「いやツンデレか。めちゃくちゃ典型的か」
「ち、違うから! そんなんじゃないから!」
褐色の肌を若干赤らめて慌てる子悪魔。そんな彼にナインとクータは「ぬふふふふ」と主従で息の合ったからかいの笑みを見せる。
「そのイヤらしい笑い方やめなって! ……まったくもう、こんなことしてる場合じゃないっての。ナイン、君にお客様が来ているよ」
「は、お客様……? こんな時に? 誰のことだよ」
「そんなの会えばわかるだろ。他の部屋で君の意識が戻るのを待ってる連中が三組ばかしいてね。目が覚め次第順次面会を求めているってわけだ。――君さえよければ早速ここに呼びたいけれど、どうする?」
会うか会わないか。
会うにしてももう少し休んでからにするか。
なんのかんのとは言いつつもナインの身を慮ってそう問いかけるフェゴールへ、ナインはあまり悩まずに「俺ならもう大丈夫だ」と答えた。
「誰だか知らんが待たせっきりってのも悪いからな。とにかくいっぺん会ってみようじゃないか。悪いがフェゴール、全員通してくれるか」
「いや一組ずつね? 一度に三組ともここへ招いたらきっと大変なことになるよ」
大変なこと。その言い様に少し頭を傾げたナインが、部屋を出ていったフェゴールを大人しく待つこと僅か一分足らず。
子悪魔が連れてきた第一の客人は彼にとってもナインにとっても浅からぬ縁を持っている、あの二人組であった。
「お前たちは――マビノ! それに、ユーディアじゃないか!」
「ふん。お久しぶりね、ナイン。柄にもなくあんたがぶっ倒れただなんて聞いたから、さあ怪物のかく乱でも起きたのかしらと期待すれば……なによ、存外に元気そうじゃないの? まったくガッカリしちゃうわね」
何故だか異様にツンとすました様子で開口一番なんとも偉そうなことを述べるユーディアと、その後ろで苦笑をしているマビノ。
思いがけぬ吸血鬼コンビの登場にナインは、彼女が見知った者にだけ見せる気安い笑みを浮かべて、ひとまずは歓迎したのだった。




