445 空を覆う月光
バギリと。
強く顔面を打ち貫いたナインの拳――だがその音は打撃音でもなければ鼻が折れた音でもない。
それはもっと内側。
カマルの限りなく心の領域に近い場所から響いた、「心情の音」だった。
それが聞こえたのはまさしくカマル本人だけ……しかし彼女がそれを聞いたからには。
認めてしまったからには。
(戦え、ない……、私はもう、こいつに……ナインに。立ち向かう気力が、尽きてしまった――『敗北』を、この心が。今の一撃で認めてしまっている……)
「が、はぁっ……、」
身体は、まだ動かせる。意識だって、ほんの一瞬だけ飛びかけたものの今はしっかりしている。ダメージは甚大だが戦おうと思えばまだまだ戦えるだろう。受けた痛みの総量で言えば自分より遥かにナインのほうが深刻であるはず。
ならば依然としてこの勝負、有利なのはこちらなのだ――と。
そこまで頭は考えるが、それでも心は沈黙を保ったまま。
ちっとも昂ってくれない――戦意を募らせてくれない。
まるで燃え尽きたように。薪をくべて保たれていた焚き木の火が、嵐に晒されしんと消沈してしまったように……どうしようもなくしけっている。
虚空に膝をついたまま立ち上がれないカマルへ、肩で荒く息をするナインが問いかける。
「へっ……ようやく、ちったぁ効いたかよ。なあカマル……」
「得意ぶって……殴られた私より、殴ったお前のほうが……キツそう、じゃないか」
「うる、せえな。両腕とも、こんな黒焦げにされちまったもんだから……殴るのも一苦労なんだっつーの」
だらりと垂れ下がった腕を、恨み節を込めてナインは持ち上げてみせる。ぶるぶると震える彼女の腕は人のものというよりも焼死体のそれに近い。そんな腕を抱えて、あまつさえ武器としながらここまで戦っていたという事実にカマルは改めて戦慄する――まったく馬鹿げている。
こんなものとぶつかり合うなんて、正しく馬鹿のすることだろう。
「にゃは……私は、馬鹿だったな。敗けてしまったからにはそういうことになる。強さ以外を切り捨てて進もうとすることは、間違っていたのだと。――お前が正しいのだと、そちらも認めなくてはならない……」
「なんだ、急に殊勝に……。まあ。お前は確実に間違っていたけれど、だからって俺の主張が絶対的に正しいかっていうと、そうでもないと思うぞ」
「なに……?」
俯きかけていた顔を、思わず上げる。今更になって聞き間違いかと思えるようなセリフを吐いたナインを、困惑の瞳で見つめるカマル。
「お前は、なにを言っているんだ?」
「だからさ。さっきも言ったが、俺とお前は実のところ、似た者同士に思える。【雷撃】がこの街でどれだけ多くを救ってきたのか聞いているから……そんなお前が、そういう姿になっちまっているその理由も、なんとなく察しだってつくから。お前を否定することは俺にとって自分の一部を否定することでもある。今回はあくまで、真剣勝負で俺が勝った。だから俺の言い分が通ったっていう、それだけのことでしかない。これは元から正しい正しくないと『判定』のつくようなやり方じゃないんだ。だって俺とお前に、言うほど違いなんてないんだから」
「だ、だったらなんで……なんでそれでもお前は、私を否定した? 正誤の区別はないと思うのなら、どうしてあんなに死に物狂いで戦う必要があった?」
「止めなきゃならないと思ったから。理由を聞かれりゃそうとしか答えられないな」
「……!」
そこでカマルは、自分のとんでもない思い違いに気が付いた。
端から認識が違っていたのだ――カマルにとっての殺し合い、命の奪い合いでしかなかったナインとの勝負は、しかし彼女にとってはそうではなく。
彼女は最初から自分を……カマル・アルという存在をも『救うべく』あれだけ必死に拳を振るっていたのだ。
すれ違うはずだ、噛み合わないはずだ。
ナインが否定していたのはカマル個人というよりも、カマルを取り巻く状況に対してだったのだから。
それを知って呆然とするカマルに、ナインは。
「絶対ってもんを押し付けるつもりは、俺にはない」
「……、」
「だけど俺は俺自身を、正しさの中にいると信じている……信じたいと、思っている。それを証明する手段がないのが、歯痒いところでもあるけどな」
「証明……それなら、もうされているさ。私がクトコステンでそうしてきたように、お前だって色んな街で、大勢を救ってきているじゃないか。正義はつまり実績が証明するんだ。私という間違いを叩きのめしたことも、ナインという英雄の新たな実績の一ページになる……」
「正義は実績ね……なるほど、そういう考え方もあるか。それも力のある奴にしか言えない言葉だな」
「だけどこいつは決して間違いじゃない。真化した私をも凌駕するお前は、強いどころの話じゃあないんだから。力で以って示すと、お前自身そう言った。だったら――さあ、決着をつけろ」
「決着だって……?」
戦闘中の鬼気迫る表情が嘘だったように、あどけない顔できょとんと首を傾げるナイン。その様を見て逆にそら恐ろしさと、それ以上に愉快さを覚えたカマルは「にゃはは」と擦れた声で、しかし楽しそうに笑う。
「何を不思議がる? きちんと私の討伐を実績に加えろと言っているんだよ。なあなあで終わらせちゃ、いけない。二度と止まらないと誓ったこの身だ。だったら結末は決まっている――些か終着が早すぎたのは残念だけど、仕方ない。それが私の目指した『先』だったんだ」
「……トドメを刺せと、言っているのか」
「そうだよナイン。きっちりと勝て。私はお前を殺すつもりでいた。お前にそのつもりがなかったとしても、私がまた同じことを繰り返さない保証だってないんだ。……私には覚悟がある」
元々、そう遠くないうちに戦いの中で死ぬことになると。
そんな未来予想をしていたし、そんな死に方を受け入れてもいた――否。
待ち望んでいたカマルだ。
力そのものよりも。
力の果てに尽きるその時こそを、本当は切望していた彼女だから……手にした頂の力を絞りつくしたナインとの戦いで死ぬことは、ある種本望でもあると言えた。
死にたがり。ただの自殺志願ではなく、あくまで根本にあるのは力なき存在への忌避感と、そういった存在を救いたいという純真なる欲望なのだが……しかし入り組んだ欲が形成する死への憧憬、自己破壊願望とでも言うべき破滅の欲求というものを――以前にもこれとよく似た欲に溺れた者を目にした覚えのあるナインは、故に。
「はぁ――……ったく」
深く深く、息を吐いて。
「そんなもんを『覚悟』と言ってほしくはないんだが……とはいえ、一理ある。確かに決着はちゃんとつけなくっちゃいけないよな」
まるで独り言のようにそう呟いたナイン。その手にはいつの間にか、刀身が青白く光る大剣が握られている。一目見て魔武具であることが明らかなそれを確かめて、カマルは目を細めた。これが自分を終わらせるものか、と。
これで与えられる最期ならば、せめて華々しく散ることもできそうだ――。
と思っていたカマルの安らかな表情がしかし、少しずつ固まっていき……やがて呆気に取られた顔へと移り変わる。
それは偏にナインが天高く掲げた大剣が――本当に天にも届くほどに、どんどんとその大きさを増していっていたからだ。
「なな、何を……!?」
「まだだ、これじゃあまだ小さすぎるぜ……! もっと強大くなれっ、『月光剣』!」
黙って大剣の一振りを受け入れようとしていたカマルがついついツッコみを入れてしまったというのに、ナインはそんなものに取り合うことなく、更に剣を大きくすることにばかり集中している。
やがて持ち主の希望に沿うように『月光剣』と呼ばれたその魔剣は――空をも貫いてそびえ立つ、巨大塔が如き桁外れの大きさとなった。
これにはカマルも口をあんぐりと開けるしかない。
「いくらトドメと言っても――こ、こんなのやり過ぎにゃ!? これじゃ私だけじゃなく街にまで被害が……!」
既に『守護幕』が解除されていることもあって、せっかく守った街をこのままでは守ったナイン本人が壊滅させてしまう。流石にそれは敗北した側としても看過できないとカマルは大いに慌てたが……しかしそんな暴挙に出ようとしている当の本人は、不自然なほどに冷静そのものだった。
「安心しろ、こいつは物理的に大きくなってるわけじゃねえ」
「にゃ……?」
「お前を切ろうってんじゃない。月光剣で断ち切るのは――『呪い』さ」
「の、ろい……」
「そう、お前やクトコステンを包み込む、あいつのくそったれな呪いを! どうにかしないことには確かに『決着』とは言えねえからなぁ……!」
だから――力を寄越しやがれ、月光剣!!
ナインの命令と同時に、天に蓋するように広がった極大剣の刀身がより強く光を放つ。清廉さを思わせるその幻想的な輝きにカマルは神秘的な力の片鱗を感じ取る。何をしようとしているのかは定かではなくとも、ナインとこの剣ならそれを十分に成し遂げるだろうと。
そう根拠もなく信じさせてくれるくらいには。
紅い瞳の白い少女が振り下ろす青い剣が、とてもとても綺麗だったから――。
「こいつが月の光明……『天蓋月光剣』ォ!!」




