426 今日の友と言えなくもない
ナインはぐっと空を見上げる。西の空には変わらず暴風と雷光が密集した異様な危険域が出来上がっている。しかし先と比べると幾分か風の勢いが弱まっているように感じられる。そしてそれとは反対に、遠雷が届ける轟音はその音量と頻度を格段に増しているようだった。
急がなくてはいけない。雷と風の趨勢が何を意味するものかは知らずとも、ナインはそう確信した。
もう躊躇う心はない――獣人たちの命は他に預ける。
何もかもを自分だけで救おうという無謀など、今の彼女の心には存在していなかった。
「俺が戦うべきなのは、【雷撃】だ。イクアのせいで暴走しちまっている『神逸六境』の一人を、この俺の手で止めなくっちゃならない」
「そう、それがベスト。いつか私の目を覚まさせたように、彼女の目も覚まさせてあげなさいな。きっと今ならまだ間に合うでしょうから」
かつてのヴェリドットはもはや取り返しのつかないところにまで行ってしまっていた。それは未完成故に与えられた種そのものが不出来だったことや、摂取から時間が経ちすぎていたこと、そして何よりヴェリドット自身の心の弱さがその原因だった。
肉体にも精神にも付け入られ、汚染された。そして元の彼女であれば考えもしないような悪事に手を染めた――それらの一切をイクアのせいだとは思わないヴェリドットであったが、しかし同じように思考が狂わされている……否、『過剰』にさせられているであろう【雷撃】には自分のような末路を辿ってほしくないと願う。だから――。
「あちらはのことは貴女に任せるわ。ここまで届く雷の魔力が教えてくれている――いかに【雷撃】が苦しんでいるのかを、ね。だから救ってあげて。貴女の理不尽なまでの、その力で」
「おう。お前の二の舞にはさせねえさ。絶対にな」
「ふふ、デリカシーに欠ける台詞ね」
「俺にそんなのを期待するだけ無駄だ」
「どうやらそのようね――でも、その無頓着さには貴女のお仲間からも申しつけがあるみたいよ?」
「……?」
なんのことやら、と振り向いたナインの目に映ったのはうんうんと頷くクレイドールとジャラザ。
「彼女の言う通りです。今のマスターの姿は衆目へ晒すに相応しいものではないかと」
「え……いや、どうせここいらの人たちはヴェリドットが皆気絶させてるし別に……ていうか仕方ないだろ、【崩山】に服を焼かれるところをお前だって見てたじゃんか。『ファランクス』からの貰い物だから別に惜しくもなかったけど」
「まあ待て、丁度クータが戻ってきたところだ。――受け取るがいい、主様よ。再会を祝して儂らからのプレゼントだ」
「プレゼントぉ?」
訝しむナインの前に、軽やかにクータが着地する。いつの間にかいなくなっているかと思えば、どうやら彼女は監査官らと共に宿泊している宿屋からとある荷物を取ってきたらしかった。
「はい、これ! ご主人様用の服!」
「服……? って、これは俺の一張羅じゃないか」
村娘マルサより譲り受けたローブを修復したうえでリファインしたナインお気に入りの一品物。
久方ぶりにそれを手にして嬉しそうな顔をしたナインだが、しかしその表情はすぐに曇った。
「……わざわざ取ってきてくれたのはありがたいけど、これは着れないよ。今着たらどうせまたボロボロにされちまう」
空には激しく稲光が舞っている。その元凶とこれから戦うことを思えば、大切な一張羅を着ていくのはご免被りたいところだ。なのでクータにそのまま持っていてもらおうとつき返そうとしたナインだったが、彼女の手にローブとはまた別の服があることに気付いた。
「これは?」
「ローブの下に着用するための物だ。スフォニウスで来た闘技者用の衣服をやたらと気に入っておったろう。わざわざ似せて作ったこちらも一品物だ――その機能と併せてな」
「服の『機能』ってなんだよ……」
スフォニウスでまとめ買いしたあの動きやすい衣装をアレンジしたような上着とパンツ。黒一色だったのが白を基調としたものに変わっているのはきっとナインのイメージに合わせたのだろう。それを広げてじっくりと眺めたナインだったが、色と細部のデザイン以外で特に変わった部分は見受けられなかったので、頭に疑問符を浮かべる。
「見ただけでは気付かんのも無理はないがの。その服の真価は傷・汚れが生じた際や紛失した際にこそ発揮されるのだ」
「クトコステンで一番腕がいいっていう、エルフの仕立て屋さんに頼んだんだ! ご主人様のローブと服に、『じどーふくげん』の魔法をかけてもらったの!」
「コーティングと同じくこちらも魔力の消費によって元の状態に復元されるようになっています。この場合は着用者の魔力によって、という意味ですが」
「へえ……!」
ナインは驚いた。そんな便利な魔法が存在していたことにもだが、何より逃亡生活中であったはずのクータたちが自分のために有名店であろうエルフの店にまで出向いていたことに仰天したのだ。
監査官が身を隠すのを手伝っていたこともあって単身ファランクスへ乗り込んだナインよりは幾分自由があったかもしれないが、かと言って呑気に外を出歩けるような状況下でもなかったはず……店探しの段階から相当苦労したであろうことを思うと、感謝してもしきれない。
「やめんか主様、あまり頭を下げられると逆に心苦しい。何せこれのために一応は貰えるはずだった省からの報酬――違うな、任務貢献の褒賞を事前に使い切ることになってしまった」
「すっごい高かったもんねー、これ。財布に残ってるお金だけじゃ、ぜったいに頼めなかったよ」
「職人探しに加え交渉にもシィスィーやセンテの協力を願いましたから、その時点で諸費用等引かれていたのでしょうが……念のために申しますと、一から十まで私たちだけでやるよりも総額ではむしろ得をしている計算になります」
「マジかよ。ただまあ、それを聞くとますます感謝だな。なんせこれでこのローブをいつでも着られるようになったんだからな」
手早く服を着て、その上からローブを羽織る。落ち着きがあると言えば聞こえはいいが、華やかな外見をしたナインが身に着けるには些か地味な色合いと形をしたそのローブ。しかしナインはこれを何より好いている。
「あら……着ている本人はともかく、ローブのほうはあの時と少し変わったのかしら」
「ああ。お前さんがしこたま切り刻んでくれやがったからな」
「もう一度やってみる? 本当に治るかどうか」
「やめろ。そんなことしたらまたぶっ飛ばすぞ」
「うふふ、怖い怖い。ほんの冗談じゃない。それじゃあ、私は大人しく『エナジードレイン』の範囲を広げてきましょうか」
「おう。……街を頼んだぜヴェリドット」
「頼まれずともね。どうせ私一人でも中央帯をまとめて支配下に置けるもの、安心して自分の戦いに集中するといいわ」
「……やっぱヤベーな、お前」
ナインの浮かべた引きつった笑みにヴェリドットがくすりと笑ったかと思えば――その背中に蝙蝠のそれに似た翼を生やして、あっという間に飛び立っていった。
それを見送るよりも、ナインは空に見えている次なる己が戦場を睨んだ。
「俺も行くとするよ。もう風が止みそうになっている……そろそろ向かわねーと危なそうだ」
「一応教えておくが主様。衣服の復元には大量の魔力が消費される。高位の魔法使いでもない限りは戦闘に着るのは無茶な代物だが……」
「ご主人様には『聖冠』の魔力があるもんね!」
「実質的に消費なしでいくらでも復元魔法の発動が可能となっております」
「なるほどな。そいつは俺にピッタリだな」
何もかもお膳立てされて、後は心置きなく戦うだけ――。
いや、本当は気がかりとなることはいくらでもある。獣人たちの行く末や、イクアが今どうなっているか。そして元々の目的である七聖具奪還の任務がどういう進捗を辿っているか……あげればキリがないほどだ。
だが今はその全てに蓋をして、一旦無視する――努めて忘れてみる。
ここまでビリビリと届く電気ならぬ雷気の凄まじさを前に、他に目を向けている暇も余裕もないことはわかりきっているのだから。
「こりゃタフな戦いになりそうだ。どれぐらいかかるか検討もつかん。だから、フェゴール。お前も影から出ろ。俺のことはいいからクータたちをサポートしてやってくれ」
『――ふぅん。いいんだ? ボクを野放しにしちゃっても』
「どうせ影で繋がってる。逃げられるもんなら逃げてみろよ。ま、お前はそんなことしないだろーがな」
『へーんだ、知ったようなこと言っちゃって。……あいあいキャプテン、命令には従いますよっと』
にゅるり、とナインの影から生えるように出てきた子悪魔フェゴールは、悪戯っ子そのものといった顔でナインズの面々を見渡した。
「やぁ久しぶり! ボクに会えなくて寂しかったかい? でも大丈夫、お達しが出たんでここからはボクも君らと一緒に行くからね」
「あ、いたんだ」
「む、いたのか」
「――?」
「いや淡泊! ボクのこと忘れてたの!? メイドさんなんかまだ思い出しきれてない感じだし――ってんなわけあるかぁ! 君が記憶力ないとかありえないだろ!」
「よっしゃ! 行ってくるぜ!」
「聞く気なしか! 誰一人も!? うぅ、そんなことするんならボク、本気で逃げ出してやるんだからなぁ!」
逃げませんでした




