42 可憐なる夜嬢ユーディア・トマルリリー
ヘッドがまるで陥落するようにして了承したことに、今度はサングラス少女が目を見開く番だった。
自分があれだけ言葉を尽くしても――多少粗野なやり取りにはなったものの――頑として要望を聞き入れようとはしなかった男が、この少女にはあっさりと屈した。
もはや篭絡もかくやというぐらいに粛々と上司を呼ぶべく退室する男の、幾分か凝りの取れたような背中を凝視し、次に少女のほうへと目を向けた。
「ちょっとあんた……」
「まあ、待てよ。今からここの親分がいらっしゃるんだ。まずは彼を説得すること、そうだろ? 俺たちの自己紹介はその後でもいいはずだぜ」
「……それもそーね」
言いたいことを飲み込んで、サングラス少女は不承不承ながらも同意する。確かに良い流れにはなっているのだ。歓迎こそすれ、それを邪魔立てするような了見など彼女にはない。色々と納得いかない部分はあるけれど、今は目を瞑っておくべきだろう。
とにかくここにやってくるカラサリーという男に話をつけることだ、とそのシミュレートを開始するサングラス少女。しかしそのエア説得にはなんの意味もなかった。彼女の想定する説得は傍から見ればただの恫喝であるという点も致命的であったが、今回の場合は実際にその場面になっても彼女が口を挟むことがなかったから、というその点に尽きる。
体格のいい中年男カラサリーが部屋に到着し、当初こそヘッドと同じく難色を示す反応であったものの、途中ナインから真っ直ぐに見つめられその瞳に何も言えなくなってしまった彼は、あっさりと前言を翻した。
彼は言う。
「分かった、もう止めはすまい……が、頷くこともできない。こちらから頼む形になるなどもってのほかだ。何故かって? これは本来なら万理平定省へ委託せねばならない案件だからだよ。ならどうしてそうしないかと言うと、頼ってしまえばその都市は「自己管理のままならない失格都市」の烙印を押されてしまうからだ。一度そう認定されてしまえば、この都市は何をするにも万理平定省の許可と指示を頂かねばならなくなる。口悪く言えば支配される、ということだ。万理平定省の管理はひどく画一的で厳しいものだ。その都市ごとの実情なんてほとんど考慮されず、すでに支配下にある他の都市と均されるようにして、枝葉を切り落とされてしまう。ただ都市としてやっていくだけならそれでも十分なのだろう、しかし、この街にはこの街の文化があり、歴史があり、過去がある。私はそれを守りたい。だからこうして都市だけの力で乗り切ろうと……している、のだが。結局この土地を捨てることに変わりはなく、迷いはあった。これでは万理平定省に縋ったほうがいいんじゃないか、と日に日に強くなる考えに自分でも参っていたところだ。……ナインくん、といったね。君には不思議な何かを感じる。信じたい、信用したいと思わされる何かが……もしも君が百頭ヒュドラをどうにかしてくれるのなら、これ以上の喜びはないだろう。ただし、私がお願いするわけにはいかないので……目を瞑る、いや、そもそも目に入らなかった。そういうことにしておこう。街の外のことは、元来私の管轄外でもあることだしな」
ここに百頭ヒュドラ退治の依頼は成った。あくまでもナインが勝手にやること、そういう体裁ではあったが。
◇◇◇
「ムカつくんですけどー!」
いきり立つのはサングラス少女。フールトを出てナイン、クータとともに百頭ヒュドラのもとを目指す傍らに、彼女は先ほどの会話を思い出しては憤りっぱなしであった。
「何をそんなにキレてるんだ?」
そうナインが問えば、勢いよく振り返った少女は「これがキレずにいらいでか!」と猛る。
「あんの都市長代理! もとはと言えば私が退治しようかって持ち込んでやったっていうのに、この私をガン無視するとはどういうことよ! あんたにばっかり神妙そうに頭を下げて! 不愉快ったらありゃしないわ!」
「そのことに怒ってたのか……でも、とんとん拍子に話が進んでよかったじゃん?」
「それはまあ、そうだけど。私だけじゃちっともまったく何ひとつ話は進まなかったけど! それでもムカつくものはムカつくー!」
きー! と甲高く鳴いた少女は、そのあと急に黙り込んだ。
黙々と歩を進める少女が何か考え事をしているのはその背中からでも分かったので、ナインも大人しく口を噤んで次の言葉を待つことにした。
彼女が何を言い出すか、大体の想像はついている。
「で……あんた、何者よ?」
「何者って?」
そらきた、とナインは予想通りの質問に少しおかしくなった。
「言葉通りよ、あんたはいったいなんなのかって聞いてるの」
「なんなのと言われてもなあ……」
「なによ、いまさら隠そうっての? あんたがただの人間じゃないなんて、とっくにお見通しなのよ。あれだけ気配を垂れ流しておいて私が気付かないとでも?」
「そういうことじゃなくてさ」
ナインには「自分が何者か」という疑問に対する答えがない。
本人にとっても謎なのだから、他人から問いかけられても返せる言葉がないのだ。
ただ、その煮え切らない返答を少女は違う意味で受け取ったようだった。
「あーはいはい、聞くならまず自分から教えろってことね。いいわよ、特別にバラしてあげても……何を隠そうこの私は!」
勢いよく振り返った少女は胸に手を当て、堂々たるポーズでナインを見据えた。急な展開に戸惑う相手を置き去りに、サングラス少女は高らかに名乗りを上げる。
「数少ない純正たる吸血鬼であり高位なるヴァンパイア! 真祖が一人――可憐なる夜嬢ユーディア・トマルリリーとは私のことよ!」
バーン、とSEが付きそうなほど派手に自己紹介を終えた彼女は、ナインたちの反応を待つが……呆けたように(あるいは白けたように)黙りこくる二人に焦れて声を荒らげた。心なしかその白い頬も赤く染まっているようだ。
「ちょっと!? せっかく人が正体を明かしてあげたっていうのに、なにボケっとしてるの? もっと然るべき反応があるでしょう!」
「いや、驚いたよ。初めて見たしね、吸血鬼なんて」
「た、淡泊! ちょっと珍しい動物を見かけただけみたいな態度取らないでよ!」
「そういえば俺も吸血鬼に間違えられたことあるぜ」
「わー! このタイミングで聞きたくなかったその話! 私すっごく馬鹿みたいじゃないの!」
眦を吊り上げたユーディアはナインに詰め寄ると、その胸を人差し指で激しく突く。
「今あんた、俺『も』って言ったけど、私は本物なんだからね! 自称吸血鬼の痛い奴じゃなくて正真正銘の吸血鬼だから!」
「ふーん」
「信じなさいよ! っていうかなんでそんなに疑うのよ?! あんただって私と似たようなものでしょう!」
どこか冷めた目をしていたナインだが「似たようなもの」という言葉に反応し、興味深そうな顔をしてユーディアに訊ねる。
「俺のことも吸血鬼だって思ってるのか?」
「ハン、まさか! 確かに一瞬、そう疑ったけどね。フードの奥の目とか、手先の肌の色が私たちによく似てるし……でも、『似てる』ってだけよ。『同じ』だとは思わないわ。見せてあげる」
言いながらフードとサングラスを取っ払って素顔を晒す少女。
露わになったのは陽光を反射する流麗な黄金色の髪と、鮮血を思わせるような真っ赤な瞳、そして非常に端整な顔立ちであった。肌の色は死人を連想させるような青白さではあるが、少女の快活な物言いがその印象を幾分か和らげている。
総じて不健康そうな美少女、といった具合か。
にやり、と弧を描く口の端からは鋭い歯――否、牙が自己主張をしている。
「お初にお目にかかりまして、私が巷で噂の吸血鬼でございます……なんてね。どう? あんたとはずいぶん違うと思わない?」
「そう、だな。知り合いからもそう言われたけど、こうして見てみればお前さんと俺は似ているようで似ていない、かな」
細かな違いと言えばそうだが、容姿の端々で差異がある。加えて目につかない部分で最も大きな差と言えばやはり、匂いだ。
仄かに香る血の匂い。
ヘッドも都市長も、あの街にいる人々は誰一人として気付かなかったようだが、ナインには初めから鉄と生臭ささが混じったような独特な臭気が気になっていたのだ。
吸血鬼だと明かされてようやくその匂いの正体に思い至ったぐらいにナインは呑気だったのだが、どうも飼い主ほどの間抜けさがペットにはなかったようで。
「だからクータ、さっき言った!」
「危ない奴ってのはそういう意味だったのか……」
今更になってユーディアとともに街を出発する際、異様にクータが警戒していた理由を知ったナイン。こっそりと「こいつは危ないやつだよ」と耳打ちしてきたクータに「そんなの分かってるさ」と頭を撫でてやるだけでまともに取り合わなかったのを申し訳なく思う。
ナインはてっきり、クータが夢現ながら聞き流していたヘッドの説明で、ユーディアの我儘かつ粗暴な性分を見抜いたことによって忠告しているのだと思い込んでいたのだ。だが真相はそうではなくて、もっと直接的な危険性を彼女は訴えていたのだ……ということを察してやることができなかった。
ナインはそれを非常に申し訳なく思ったがしかし、たとえクータの真意を汲めていたとしても返事は変わらなかっただろうとも思う。
なにせ彼女とともに街を出たのは、ナインがそうなるように誘導したからなのだ。多少得体が知れないからといって無下にしてしまっては、苦労して――大した労力をかけたわけでもないが――都市長を説得した意味がなくなってしまう。
クータに背中をつんつんと押されながら苦笑するナイン。
仲睦まじい二人だが、危ない奴などと言われてしまったユーディアとしては黙っていられない。
「あら心外ね。吸血鬼だからって差別するっていうの? ただの人間ならともかく、あんたたちが私を?」
「ご主人様の安全第一!」
「だーかーら、安全も何も危害なんて加えてないでしょうが」
「これからするかも」
「んなこと言ったら誰とも仲良くできないわよ」
「おまえとは仲良くしなくてもいい」
「言ったわねこいつ!」
今にもクータに飛び掛かっていきそうなユーディアを「まあまあ」と宥めつつ牽制するナイン。その肩からべー、とクータが舌を出して挑発をするものだから、ますます彼女は顔を赤くする。先ほどの羞恥とは違って、これは怒りの感情だろう。
ナインはここにきて、相性というものを一切考えていなかった自身の短慮に気が付いた。
ユーディアの自分本位を隠そうともしない奔放さと、クータのナイン第一主義はどうしたって衝突するものだ。
これが例えばリュウシィなどであれば、クータの性質を嗅ぎ取ってからかいつつも上手く立ち回っていたものだが、出会ったばかりのユーディアにそれは期待できない。というか彼女には遠慮という概念が欠如しているように思えるので、そもそもリュウシィのように押して引いての付き合い方は不可能だろう。
(これから一緒に怪獣退治するってこと、本当に分かってんのかな……?)
自分を前後から挟み込むようにしてやいのやいのと言い合う二人に、思わずため息が漏れるナイン。
興奮状態の彼女たちの耳に、その重たい吐息が届くことはなかった。




