408 執行官コアランvs兎人局員ラズベル
「うぅ、ジーナちゃん速すぎるよぅ。私も追いかけっこなら自信あるのに、全然追いつけないし……」
同じ位置から同時に動き出したにもかかわらず、機動力の差からジーナのほうが幾分か先行することになり、その後方から追い縋って必死に走るラズベルは……まるでべそをかいているようにも見える、人目にはとても情けない表情をしていた。
彼女は兎人であるからして、他の獣人種と比較しても脚力には優れたものがある。故に決してラズベルの足が際立って遅いというわけではないのだが、あちらもこちらも大騒ぎとなっている広場の走りづらさに加えて、今回の比較相手がよりにもよって鳥人とあればさすがに駆けっこ自慢程度では分が悪かろうというもの。
ジーナが立ち止まって待ってくれでもしない限りは永遠に追いつくことはできないだろう――そうわかってはいるがまさか一刻も争うこの状況下で悠長にも遅いほうに合わせて足並みを揃えてなどいられないので、ジーナには気にせず最高速で先へ行ってもらい、ラズベルはラズベルで精一杯急ぐことしかできないのだ。
「でも、だからってジーナちゃんだけに任せるわけにはいかない。私も少しでも急がないと――ぅあ!?」
と兎の特徴を持つ兎人らしくどこか跳ねるような走り方で狂乱の広場を行く最中に、ラズベルは何かを感じて一際強く地を踏みして跳んだ。間一髪。本人にとっても訳のわからぬままに行った跳躍はなんと、思わぬ回避に繋がったようだった。視界外からの不意打ちを失敗に終わらせることができたと避けた後から気づいたラズベルは宙でくるんと体勢を入れ替え――着地。
あわや無防備に攻撃を食らう事態を防げたことにラズベルはホッと安心しながらも、襲ってきた人物か誰であるかを確かめたことで困惑せざるを得なかった。
「な、なな、なんでありますか急に!? いったいどちら様でありますかっ?!」
そう、いきなり死角から攻めてきた犬人にラズベルは一切の見覚えがなかったのだ。恐慌に騒ぎ暴れまわっているそこいらの獣人の一人に運悪く狙われただけか――とも思ったが、おそらくそれは違う。
犬人は見るからに冷静だ……至極冷静に、ラズベルをラズベルと認識したうえで襲ってきている。
彼の落ち着いた態度と観察するような静かな視線からそれを察したラズベルは困惑したままに身構える。
動揺はあれど不意の戦闘にも即時対応できる程度の心構えは彼女にもあるらしい――と見抜いたことで犬人に変装しているコアラン・ディーモは思わず舌を打った。
(やはりクトコステンの局員だけあってどんなに若くともそれなりだな……できれば一発で決めたかったところだが、想像以上に反応もいい。なるほど【天網】に目をかけられるわけだ。将来有望で何よりだな。まあ……俺にとってその優秀さはなんらありがたいことではないんだが、な)
どこからどう見ても本物の犬人にしか見えない顔をしかめる。いや、姿だけでなく実際に今の彼は犬人そのものとなっているのだ。
コアラン・ディーモの執行官としての、そして一人の術師としての特異性がここにあった――『悪魔憑き』。彼はそう呼ばれる者たちの一人なのである。
もっとも、一般人が悪魔憑きというワードから想像するような『悪魔に憑りつかれ意のままに操られている』状態とは違い、彼は悪魔に憑りつかれているわけではない。コアランがその身に宿しているのは正確には『悪魔の力』であって悪魔そのものではないのだ。
契約することで人間に様々な影響を及ぼす悪魔だが、コアランが契約したのはただの悪魔ではなくその最上位にいる存在。かつてフェゴールが階級として位置付けられていた最上級悪魔、すらも上回る魔界の最高峰、三つの頂点の一角をなす悪魔王の一人――『変容の王』その人。
つまりはコアランがしていることとは変装でもなければ変身でもなく『変容』。己が肉体を作り替えることで本物に成りすます能力である。
基本的に人にも悪魔にも無関心な月光の王とは違って変容の王は自身の力が如くに気まぐれで行動に一貫性というものがない。実に悪魔らしい悪魔である彼は故に、人を悪辣に弄びながらもそれと並行して自身の力を惜しまず貸してやるようなことも時にはする。
強力過ぎる変容の力によって肉体を蝕まれながらも日夜職務を遂行するコアランという人間は、きっと彼にとって無数にある玩具のひとつに他ならないのだろう。
それでいい、とコアランは納得している。
これは己が望んで得た力なのだ。結末はきっと決まっているのだろうが、しかしその日が来るまでの過程は自分が選べる。「どう死ぬか」はどんなに足掻いても変えられずとも、どう足掻くか、どう生きるかについては己が意思の下に自由である――ならばそれでいいのだ。
力を使うたびに本当の意味で自分以外の何かに変異していっている感覚を覚えながらもコアランはそれをまったく気にしていなかった。死期がいつになるかは逆算しているが、まだ遠い。少なくとも今日明日に死ぬわけではない――だったら構わないだろう、と。
今の彼もまた、これまでの彼と同じく、任務のためであれば……危険な悪魔の力に頼ることを少しも厭わない。
「部分変容」
「えぇっ!?」
コアランの腕がぐにゃぐにゃに曲がる。関節の数がとんでもなくおかしなことになっている……というより明らかに骨同士が繋がっている曲がり方ではなかった。例えるなら蛸のような軟体生物。あるいはもっと直接的に触手そのものと表現してもいいが、だがそれらを例に挙げても完璧な比喩にはなりえない。曲がりくねるだけでなくどろりと『溶けている』。
まるで不定形のアメーバが固体を保っているようななんとも言い難き気持ち悪さ。その異様なしなり方、うねり方を前にラズベルは思わず驚愕と恐怖の入り混じった声を漏らした、次の瞬間。
「!」
ずるるっ! と予想外の俊敏さで触手が伸びてきた。
体積が元の腕からすると考えられないほどに増えているが、これもまた変容の力だ。コアランは自身を作り替えることで姿形だけでなく中身までも別物となれる。骨格ごと体型を変えられるし、気配や匂いといった普通の変装では及ばないような部分まで完全模倣が可能なのだ。自分以上の背丈や体格を持つ人物にも化けられる彼はその一環で肉体の容量を増加させることもできる――腕を触手に変えての攻撃こそがそういった応用の典型例だ。
「わーっ! こ、怖いです!」
「悪く思うな――だが安心しろ。殺しはしない。少しの間眠っていてもらうだけだ」
軌道の読めない動きでのたうった触手が哀れな兎人を難なく貫いた――しかしラズベルは悲鳴を上げてはいるが痛がっている様子はなかった。それも当然だ、コアランの腕はラズベルに「刺さっている」わけではなく「潜り込んでいる」だけなのだから。あるいは腕が自身の肉体に入り込んできているのに、痛みどころか触角ですらも何も感じられないその異常事態にこそラズベルは思わず叫んだのかもしれない。
「獣人というのはいやに丈夫だからな。兎人は割合細いがそれでも油断できやしない。内側から直接攻めさせてもらおうか」
変容の力は無茶をすれば他者にも及ぼすことができる。それによって防具や防御に阻まれることもなく弱点を直に攻められる――これぞコアランが見せる対人戦闘における常套句。
対モンスター戦では急所の違いや単純に体格差もあって人を相手にするほど簡単にはいかないのだが、亜人種であればその懸念もあまり必要ない。体のつくりは少々異なるが大まかには共通しているし、重要な器官も大抵変わらない。
コアランは見識通りに攻め、ラズベルがこれ以上動けないようにその心臓へ負担をかけるべく触手をぐねらせ――。
「むっ……これは?」
行為の途中に生じた違和感。眉根を寄せたコアランは、直後に理解した。何がおかしいのか――それはあまりに腕の進みがスムーズであったこと。
如何に変容の力とはいえ他人の体へ侵入するのは容易ではない。コアランが契約によって借り受けた力はあくまで自身に作用させることを主としたものだ。契約の穴を突く形でこのような使い方をしているが本来の用途でない以上、自分が変容するのとでは大きく勝手が違う。だというのにラズベル・ランズベリーの身体に対しては自分に作用させるのと同じくらい手間がかからない。要するに楽なのだ。それはまるで――。
コアランだけでなく、ラズベル本人もまた自ら進んで己が肉体を溶かしでもしているかのように。
――とぶん。
「なにっ!」
潜り込ませた触手はやけに抵抗もなく動いた。あまりに抵抗がなかったものだからラズベルの体から飛び出してしまったほどだ――などと、そんなことが起こるなんてあり得ない。
あり得ないことが、目の前に起きた。それはつまり。
「これは――お前の力か! そうでなければこんなことが起きるはずもない!」
「はい、これが私の水門――『水化』の術です! 体を液体化させて、あなたの腕を外しました!」
「そんな真似が……!」
コアランが驚くのも無理はない。門術における属性基礎五門に数えられる水門だが、水属性とはコアランのような只人にとって馴染み深い魔法においても基礎的な属性のうちのひとつである。なので水術使いというのはそれなりに存在し、コアランもよく見慣れている――しかしそんな彼であっても、己が肉体を液体にしてしまう魔法使いなどというのは過分にして知らなかった。それほどラズベルの使う『水化』とは珍しい術なのである。
必殺のはずの変容による急所攻めをスカされたことに表情を険しくさせる犬人姿のコアラン。そんな彼に若き兎人はもふもふの毛皮に覆われた可愛らしい指を突きつけた。
「自分はその顔にまったく見覚えがありませんが、センテ殿とシィスィー殿をサポートとするからにはあなたは獣人ではなく、監査官最後の一人、コアラン・ディーモ殿であるとお見受けします! 容疑はいくつかありますが、ひとまずは公務執行妨害で局へ連行しますので神妙にお縄についてください!」
「そのつもりはない、と言ったら?」
「あなたにそのつもりがあろうとなかろうと、自分のお仕事に変わりはないであります!」
「違いないな。俺だってそうだ」
そう、争いは必至である。
それは互いの立場からしても避けようのないことなのだ。
「だったら出し惜しみはなしだ。力を貸せよ変容の王――起きろ『変容刀』」
「むむっ、なら自分も全力でいかせてもらいます! 『水門・完全水化』!」
――両者が切り札を切ったそのとき。
広場より僅かに東方の空では、ふたつの光源により眩い電光が瞬いていた。




