405 風鳥と毒蛇・転
皮膚に触れただけでも問答無用で全身麻痺を発症させる『堕落毒』。大地を埋め尽くすほどの猛毒を生じさせたあの百頭ヒュドラの娘であるジャラザ特製の恐るべき毒水が、表皮を突き破り直接皮下にまで侵入したのだ。『飛泉刃』が残した刺し傷よりも遥かに強烈な、全身に広がる痺れの症状が現れればもはや戦闘続行など到底不可能である。
読み通りに策を成功させ、強力な風の鎧を突き破って攻撃を命中させたことでジャラザは勝ちを確信した。その手応えを裏切ることなく、血流に直へ入り込んだ麻痺毒は常以上の即効性でゼネトンの体の自由を奪う。
力をなくした彼は翼の羽ばたかせ方すらも忘れてしまい。
鳥人の名折れが如く、あえなく落下して敗北――、
(なんてジョーダンじゃ、ねえじゃん……!? 俺の自由を、こんな毒なんかでヨ!)
【風刎】ゼネトン・ジン。
鳥人として、そして強者として誰より自由を愛し束縛することもされることも嫌う彼は故に、たかが毒如きに己が身体の自由を奪われることに納得なんてできるはずもなく。
「! ば、馬鹿な……っ?」
飛び上がった軌道を逆走するように今度は真っ直ぐ落ちてくる彼を、球体の水に閉じ込める『水牢』によって念入りに拘束しようと準備としていたジャラザ。
しかし彼女が術を発動するよりも早くにその異変は起こった――力の抜けきっているゼネトンのだらしなく伸びた肢体。重力に抗えず棒のようになってただ落下するだけのはずの彼の身体が、ピクリと動き。
その全身にある傷口から一斉に『血を噴出』させたのだ。
一見すると理解不能な怪現象。だがジャラザは多大な困惑こそあれ、果たしてゼネトンが何をしたのか……その可能性を即座に見出した。
(ま、まさかこの男! 直に自身の体内に――否、血管の中に! 術で風を送り込み、強引に血を流すことで排斥したというのか!)
自身の大量出血を促す謎の行動? いいやそうじゃない。鳥人としての優れた肉体機能で、対キャンディナ戦で負った体中の裂傷は完治こそしていないが出血自体は止まっていたのた。だが彼はあえて『風走り』の残り風で閉じ始めていた傷口をこじ開け、そのまま血流に風を混ぜ込み、今度は一転外へ。多量の血液と共に異物を捨て去った――己の血に混じったジャラザの『堕落毒』を力技で除去してみせたのだ。
(力技にも程があろう……しかしこれは風を繊細に操れる巧みな技量あってのものだ。加えて獣人らしいその頑丈な肉体で命の保証があるからこそまだしも成り立つ自爆技か――とまれ、それでもあり得ん! そもそも儂の『堕落毒』を受けてなお術を使えるなど、なお戦えるなど通常ならまず考えられんことだぞ!)
生物であればどんな者にも効く。例外などなく、それに最も近い怪物少女にすらも奥義たる極みの毒『極水』であればごく短時間ながらに影響を及ぼせるのだ。そういった過去の実績から自分の毒術に絶対の自信を持っていたジャラザ。対毒性に優れた種族的特徴や異能を持つようなごく一部を除けば己の毒が通用しない相手など存在しない……とすら思っていた彼女が、解術の手法としては論外な代物とはいえ『堕落毒』を克服されてしまったことに受けた衝撃は大きい。
(獣人の持つ人間とは比較にもならん肉体的強度……! それは何も頑丈さや身体能力だけに限ったものではなく、毒類に対する抵抗力もまたそうだというのか!)
そもそも何が「毒」となるかは生物によってそれぞれ異なるものだ。
ある種族が摂取してもなんともない成分が別の種族にとっては有害な毒素と成りえ、その逆もまた然り。
超常的技能のあらゆる分野でも毒術が一般的なそれからかけ離れているのは、多種多様なモンスターや亜人種ごとに効果的な毒を生み出すことが至難であること……濁さずに言えば実質的に不可能事に近いからであるが、その例を「知ったことか」とばかりに容易く強力無比な新毒を我流で生み出すジャラザはともすれば、吸血鬼や悪魔に勝るとも劣らぬ第一種危険指定種族として危険視されなければならないほどの、まさに世に垂らされた一滴の猛毒が如き存在だが――しかしそれでも今の彼女は生後五ヵ月弱のただの小娘でしかない。
身に宿る先祖譲りの破格の才覚を未だ万全に活かしきれているとは決して言えず……今日この時の彼女は、鳥人の肉体と精神の屈強さを前に後れを取ることとなってしまったのである。
「うぉっしゃ、動ける! 俺っちはまだ飛べる! まだまだ飛べるぜ!」
「ちぃっ……!」
軽やかに姿勢を入れ替え、地面に激突する寸前で彼はもう一度風を味方につける。翼を動かして重力へ抗うことを思い出した彼はもう、動きのどこにも毒の影響など感じさせないでいる。そのことに内心では驚くばかりのジャラザだったが、けれど追撃の手を緩めるような間抜けまでは犯さなかった。
咄嗟に術式を変更。拘束術『水牢』から奇しくも先ほどゼネトンが偶然にその名を口にした『鉄砲水』という手の平から水弾を撃ち出す術をゼネトン目掛けて数発放ったが。
「へへ――ここらで俺っちも奥義で行かせてもらおうか! 『風門・疾無』だ!」
――時が止まった。
と、ジャラザの意識上ではまるでそのように感じられてしまうほどに、全てがぴたりと静止した。
己の動きが遅い。撃った水弾が亀の歩みのように遅々として進まない。風の流れすらも悩ましいまでに鈍いまるでスローモーションの世界――その中を、【風刎】だけが自由に動いていた。
これぞゼネトンのとっておき。風門を得意とする鳥人でも過去に限られた才人のみが習得してきた風の奥義『疾無』。
風の奥義とはいえこの術の最も特異にして真価と称せられる点は風さえも止んでしまうことにこそあった。
自身の風属性の魔力で周囲一帯の空気へ干渉し、停止させ、その停止空間を改めて自身が生み出した風に乗って動くことで超高速かつ超精密駆動を可能とさせる絶倒絶技。
如何に鳥人、そして神逸六境と言えど傷だらけなうえに毒による悪影響を無茶なやり方で退けたばかりの彼にはいつも通りのパフォーマンスを披露することなんてできない。故の、奥義の使用である。これ以上の手傷や未知の毒を負う前に勝負を急ぐ。その思いで発動した『疾無』は創痍の肉体でも従来通りの効力を見せ。
「これで決めさせてもらうぜ――『風門・颪槌』!」
自分だけが動ける自由な時の中で彼が繰り出した術――それは言うなれば風のハンマーだった。突風を固めに固めた超風圧が停止した世界へ打ち下ろされ、まったく無防備なままでいるジャラザを水弾ごと呆気なく押し潰した。
「……!」
言葉もなく地に沈み、埋め込まれる。
『ナインズ』のメンバーとしては圧倒的に頑強性に劣る彼女では、このダメージに耐え切れはしなかった――。
決着である。
風で作られたハンマーが霧消するのと同時に『疾無』の効果も解け、静かに肌を撫でるそよ風の感触が戻ってくる。ゼネトンは薄く息をついた。
「ふう――。水使いじゃなくて毒使いだったとはたまげたが……この勝負、俺っちの勝ちだぜ。これ以上は何もする気はねーが、けど維持局への連行は覚悟しときなよ『ナインズ』のおじょっちゃん……ってもう聞こえてねーか」
風の槌は確かに彼女を叩いた。今度は水分身ではなく正真正銘の本体を、だ。『颪槌』は射程こそ短いが威力で言えば『暴』をも上回る強力な術だ。そんなものをまともに食らったからには彼女が沈黙するのも当然だ。意識なんて綺麗に失っているだろうし、体中の骨という骨は無惨なことになっているはずだ。せめてもう少し容易く下せるような相手であれば、こうも痛めつけることはなかったのだが……。
(彼の中では)悪人であるとはいえそれでも自分にとってやり過ぎな結末に頬を掻きながら、ドーララスのほうへと足を向けなおし――その足が止まる。
何か得体の知れない予感に従って彼がもう一度倒れている少女のほうへ振り向けば、そこには。
「なっ、――ぜ立てんだヨ!?」
「何、こちらも奥の手を使ったまでだ――『脱皮』という最終手段をな。喜べ、これは主様たちとてまだ知らん秘密の特技よ」
撃沈させたはずの少女がいつの間にか起き上がり、ゆるりとこちらへ距離を詰めてきていた。
彼女が倒れていた場所にはなるほど確かに、脱ぎ捨てられた皮のようなものが転がっている。
「……! やっぱ抜け目のない子だナ……!」
多量の体力的消耗と引き換えに瞬時に肉体の損傷を全快させる、少女が未だ誰にも打ち明けていない秘奥の手。その詳細をゼネトンが知ることはなかったがしかし、そんな彼でも現在の状況についてはきちんと理解できていた。
彼我の位置はもはや目と鼻の先。
術の行使よりも体術の一手が炸裂するほうが遥かに速い、至近距離における視線と思惑の交錯。
風門を使わせないようにと企む少女の意図を見抜き、実際にそんな暇などないありはしないと認めた彼は――それでも軒昂と笑みの形に嘴を曲げた。
「へっ……この俺っちが! 風に頼らなきゃただの非力な骨鳥だとでも思ってんなら、そいつは心外だぜおじょっちゃん! だったら見せてやろうじゃん――今世にまで受け継がれてきた秘技、鳥人体術を!」




