39 ホテルに集う珍客たち
今日の分はこれだけになりそう
その代わり明日また連続投稿だぞい!
彼ら調査隊はヒュドラを知っている。知識として情報を持っているだけの者もいれば、動く実物を目にしたことがある人物も調査隊の中にはいた。
というのもフールトがあるこの山岳地帯の更なる奥部ではヒュドラの生息が確認されており、この地の住民にとっては馴染み深いモンスターでもあるのだ。
ヒュドラは大人しく、ちょっかいさえ出さなければいたずらに人を襲うような気質を持たない、数少ない「人間にやさしい」魔獣である。仮に山道ですれ違ったとしても下手なことをしないのなら、良き隣人のように挨拶を交えながら横切ることもできるかもしれない。
少々大げさだが、それだけヒュドラが害意を持たない生き物であることを人々は知っているのだ。
そんなヒュドラの一番の特徴と言えば、何と言っても複数の頭部である。頭の数を増すごとに体躯も大きくなり、過去には九頭を持つヒュドラが確認されたこともあるという。九頭ヒュドラは全長も巨木のように立派なもので、人間一人程度なら丸呑みにしてしまえるような巨躯を誇っていた、とのことだが……風聞に伝わる九頭ヒュドラであっても、目の前にいる「これ」と比べれば赤子のようにすら思える。
何せ巨木どころではない、ひとつの山かと見紛うレベルなのだ。人どころか街すらも飲み干せそうなその超のつく巨体は調査隊員らを愕然とさせた。
足元から見上げた先にある頭部は角度の都合上、端の一部分しか見通せないが、それでも数えきれないだけの重々しく蠢く長い鎌首が確認できた。「こいつ」の頭はいくつあるのだ……? 十はまるで下らない、もっとだ。では五十か、六十か……いや、ともすれば百に届くほどの……? ああ、納得だ。これだけの大きさ、これだけの異様。百頭のヒュドラだとしてもなんら不思議はないだろう。
一様に青ざめた顔でそう結論付けた調査隊は急ぎフールトへと帰還した。
いつまでもヒュドラの足元に居られるだけの胆力が無かったというのもあるが、一刻も早く都市長たちへ報告せねばならないという義務感にせっつかれたからでもある。
休憩もろくに取らず大急ぎで引き返した調査隊。疲労と興奮によって空回りしそうになる舌をどうにか押さえつけながら自分たちが見たものをそのまま伝え終えたところ、意外にも都市長(代理)の顔に焦燥は浮かばなかった。
むしろ、光明が見えたとばかりにその瞳に輝きが宿ったのを、調査隊リーダーは見て取った。いったいどうするつもりなのか、と疑問に思った彼の脳内を占めた謎がすっかり氷解したのは五日後のことだった。
「百頭ヒュドラを我らが街の観光スポットとする!」
都市長の放ったその突拍子もない宣言に多くの者たちが呆気に取られたことは言うまでもない。情報を共有していた都市の重鎮たちはもちろん、今の今まで巨大物体の正体を伏せられていた住民らも目を白黒させてカラサリーの言葉を聞いた。
彼曰く、どんなに大きかろうとアレが大人しいヒュドラであることに変わりはなく、フールトへの実害は無い。むしろあれだけの威容を見せつける特別なヒュドラはただの置物であっても人の関心を引くだろう。であるなら都市としてその恩寵を十二分に活用しようではないか――熱っぽく振るわれる弁舌に聴衆たちの表情にも理解の色が浮かぶ。
なるほどよくよく聞けばこれは名案なのではないか、小都市フールトに新たな風が吹くときが来たのではないか、やはり都市長(代理)はその立場に相応しい御方だ……と街は大いに盛り上がった。
カラサリーに舞い降りた天啓のような閃きによって一大事業――と言ってもただ百頭ヒュドラを喧伝しホテル業に力を入れただけだ――がフールトに興った。
話題は緩やかながらも確かに広がり、半年も過ぎればヒュドラ観光ツアーなども企画されるまでになっていた。
フールトに金を落とす旅客は日に日に数を増し、カラサリーは現都市長とともにホテルオーナーとしても辣腕を振るいながら日々を過ごすことになった。胃痛は酷くなったが以前より暮らしはよくなり、人望も高まった。ようやく激務にも慣れて休みの取り方を覚え始めたその頃になって、また胃痛の種になる問題が起きた。
いや、それは以前から起きていたことだが、目を逸らしていたというのが本当のところだ。直視せざるを得ない時がやってきたという、ただそれだけのことだったのだ。
――百頭ヒュドラは動いている。
その事実が判明したのはヒュドラ観光を推し出す決定をしてから三カ月余りが過ぎた日のことだった。ヒュドラの様子を間近で観察するために定期的に繰り出される調査隊がその日、それまでの「異常なし」という報告とは異なり、ひとつの新情報をもたらした。
「気のせいかと思ったんですが、やはりどうにも……嫌な予感、と言いますか。念のためにとヒュドラの『背後』にまで回ってみたんです。考えてみれば奴を後ろから眺めるのは初めてでしたが、やってみてよかった……ええ、間違いありません。地面が抉れていました。あれはヒュドラがその巨体を引きずった跡でしょう。思った通り、奴は『前進』しています。ゆっくりと、しかし確実に、進んでいる。方向はここです、奴はこの街に近づいてきている。違和感の正体はそれだったんです。……奴はいつか、ここまで来てしまいますよ。必ずその日はやってくる……」
恐ろしい内容だった。カラサリーは自身の見通しの甘さを後悔したが、もはや回した歯車を止めることは提案者である彼でさえ――否、提案者だからこそ、歯止めをかけることなどできなかった。
だが待て、希望はまだある。そうカラサリーは自分に言い聞かせるように呟いた。調査隊にもっと詳しく調べさせるのだ。百頭ヒュドラの向かう先がこちらであることは確かなのだろうが、その進路上にフールトが重なっているとは限らないのだ。たまたま方角が一致しただけで、すべてを諦めてしまうことはない。
そこからは様子見だ。ほんの少し立ち位置がずれたくらいではヒュドラの正確な進行方向を見極めるのは難しい。その巨体もあっていかに足繁く調査隊が通い詰めたところでどうしても期間の経過が必要になるのは致し方ないことであった。
時間がかかることに調査隊はやきもきさせられたが、カラサリーにとっては大いに助かった。その間に順調に観光業は形になり、すっかり街に根付いたのだから。ただし彼は薄々、気付いていた。今の自分はかつて会議で否定したはずの意見をそのまま実行しているという事実に。
こんなのはただ働いているフリをしているだけで。その実、脅威から目を背けているだけだということに。
それを殊更に痛感させられたのがつい数週間前。
百頭ヒュドラまでの道程が二日半から一日ちょっとまでに短縮されたその日、調査隊リーダーはもはや言葉を選ぶこともなく、激高するように訴えた。
「何度言わせるんですか! もう確定してるんだ、俺は前からそう言っているでしょう! いつまで目を背けるつもりなんですか?! アレはここに来る! この街を踏み潰していく! はやいとこ対策を取らないと、フールトは瓦礫の山になるんだぞ!」
苦虫を噛み潰したような顔で訴えを聞いていたカラサリーは、もはや逃げようはないのだと悟った。当初の懸念通り、事態は未曽有の大事件へと陥ってしまったのだ。
「対策など、どうやって……」
ぽつりと漏れた彼の言葉は弱弱しく辺りへ漂い、すぐに消えていった。
何度となく会議を開き、都市住民たちへ事実を発表し、一年後の今日までには避難を終えねばならぬと当たり前の結論を導くのに二十日以上を要した。しかし具体的なことは何ひとつ定まらず、まるで現実逃避のように今日の仕事をこなすのはカラサリーだけでなく、フールトの住民全員に共通していた。
今日も今日とてカラサリーは会議に赴く。ホテルは立派に育った従業員たちに任せて、都市の未来のために出ないアイディアを捻りだすために。
――そこに彼女はやってきた。
百頭ヒュドラがフールトを壊滅させるであろうという予測はすでに外部にも広まり始めていたが、それを知ったところで外の人間が何をしてくれるわけでもない。観光できるうちに訪れようと予定を消化するような面持ちで足を運ぶ者もいれば、万が一を恐れてフールト近辺に近寄ることを避ける者もいる。
しかし彼女に限ってはそのどちらでもなかった。
ホテルに都市の代表がいると聞き及んで乗り込んできたその少女は、手始めに臨時で働く従業員を捕まえて「上の者を呼べ」と言った。
次に出てきたフロアリーダーにも同じように告げた。
その次がカラサリーから教育を受けてそれぞれが十数名の部下を纏めるヘッドと呼ばれる地位にいる男性で、カラサリー不在の現在はホテル内で最も偉い立場に就く一人であった。
そんな彼に少女が言い放った一言。
「この私が、ヒュドラを退治してあげるわ!」
――ここからヘッドと少女による喧々諤々の議論が繰り広げられることになった。
話が通じぬと更に上の人物、都市長を出せと憤る少女に対し、こんな珍客のためにオーナーに迷惑はかけられぬと、どうにか自分で対応し追い返そうとするヘッド。ロビーの隅ながらもやり取りは喧騒となって周囲に広まる。
あの客はなんなのか、と興味深げに見つめる他の利用者たちと、彼らに「お騒がせして申し訳ありません」とぺこぺこ頭を下げながら接客する従業員たち。ホテルは異様な雰囲気になっていたが、そこに更なる乱入者。
「――たのもーう!」
入口の扉を勢いよく開け放ちながら、底抜けに明るい声をロビーへと響かせたのは……燃えるような赤髪を持つ、露出した肢体が健康的な印象を抱かせる可愛らしい少女だった。
新しい珍客の登場に、ヘッドの頬がひくりと引きつった。