376 一振りのキャンディナ
「ぐうっ……、」
血反吐を吐き出しながらボールのように地面を転がったキャンディナは、しかしそれでもすぐに立ち上がった。華奢ながらによく鍛えているために見かけ以上のタフネスを持ち合わせる彼女だが、ただそれだけならここで立ち上がることなどできなかっただろう。彼女がたった今食らった『風門・暴』は人が直撃を受けて無事でいられるほど安い威力をしていない。一時期は俊英と称されるジーナ・スメタナの師匠でもあったゼネトン・ジンが放つ風術なのだ、その一発の重さはジーナの同術と比較しても軽々とその上をいくほどである。
そんな門術を浴びてなおキャンディナが、深刻と言えるようなレベルのダメージを負いつつも戦闘不能にまでは陥らなかったのか――答えは明瞭。
直撃を受ければ確実に無事では済まない、というのなら逆説的に『直撃していなかった』ということに他ならない。
メタルアームの優れた性能を活かす高速駆動。この肩から先限定の特殊な機動性によって羽根の剣による乱舞をどうにか凌いでいたキャンディナは、『暴』に対しても同じように対処したのだ。物理攻撃である剣撃を防ぐように……とは流石にいかなかったがそれでも体の前に盾として出した鋼鉄の義手は荒れ狂う風の砲弾の勢いをいくらか減退させてくれた。
構えた腕によって進路が阻害されたことで、生身の部分を襲う風は幾分威力を散らされた不完全なものとなった――だがそれでもゼネトンの風術は重きに過ぎた。あるいは敵が彼でなければキャンディナもダメージと言えるほどの負傷はなかったかもしれない……しかし彼女に相対するは才人の鳥人ゼネトン・ジン。【風刎】の二つ名に恥じぬ圧倒的な風の暴威を操る彼を前にしてはその場しのぎのような防御など、所詮は僅かばかりに敗北までの時を引き伸ばすだけの時間稼ぎとしかなりえない。
――ただしそれは、彼女がキャンディナでなければの話。
ゼネトンが然る者であるというのならキャンディナとてまたそうだ。幼少の頃より恩人のためにと刃を振るってきた彼女はその生き方から在り方まで生粋の兇手である。物心つく前から自前の短刀を握りしめて自分と恩人の命を守り抜いてきた……手段として割り切って多くの者を殺してきた。
他の兇手として生きている者たちとキャンディナの相違点を挙げるとすれば、それは大多数と違って彼女が己が所業に対してなんの感慨も抱いていないという点だろう。血に染まる我が手を悔やむ者もいれば誇る者もいる。『兇手』『殺し手』『暗殺者』――そう呼ばれる者たちには少なからず自身の生き方に思うところがあるものだ。プラスの感情にしろマイナスの感情にしろ何かしら抱くものがある……あって当たり前のそれがしかし、キャンディナにはない。
何も特別なことはないし、かと言って劣等だとも思わない。
殺すことは当然の生き方でしかない。
生きるために他者の生を奪う行為に喜びを見出すこともなければ殊更に悲しむこともしない。
キャンディナの精神性はまさに彼女が武器として信用する短刀のようだった。剣の道を往く剣士をしてその心を一振りの刃へ例えることがあるが、キャンディナの場合はそれよりも更にもうちょっとだけ純粋だった。
ただ、切る。
崇高な理念や目指す目標などまるでなしに、彼女は必要のままにものを切るだけだ。
気付けばそうやって生きていた。
必要な技量はあとからついてきた。
どうにか命も今日まで拾い続けてきた。
一人の兇手としてあるがままに極まった者――それがキャンディナ。人らしい感性を持ち合わせながらもそれが一切揺れず逸れずブレず、ただ一筋の剣閃が如く在る。
怪物少女と真っ向から殺し合いの対決をしながらもしぶとく生存の結果を勝ち得てみせた過去を持つ彼女は――今日この時もまた、いつものように己が在り方を貫いたのだった。
「と、とんでもないなァねーちゃん……あの状況! 俺っちの風門が炸裂しようっていうその瞬間に――き、切り付けてくるとはな……!」
袈裟懸けに走る裂創がゼネトンの胸元を赤く染める。これは彼の言う通り、今し方キャンディナの手によって付けられた傷だ。
『暴』が決まろうというその一瞬、キャンディナは防御をメタルアームへ一任し、自身は腰元の短刀――ではなく新しく得たばかりのナイフへと手を伸ばしてそのまま抜き放った。回避は間に合わない。ならば攻める。当然の帰結。刹那の内に下した決断は脳ではなく体で考えたもの。思考するよりも早くに動いたキャンディナの右腕は自身が風の砲弾を浴びると同時に敵を切り裂いていた。
『無銘』――名無しのナイフだというイクアの言葉より、キャンディナは譲り受けたこの武器をそう呼ぶことに決めていた。元はイクアの持ち物だがそれよりも前はそもそもドックの私物だったというこの短剣は彼の出身国……科学技術が一等発達したとある国でドックの知人が気まぐれで作成したという変わった出自の武器である。魔武具などとは違って魔力を内包しているわけでもなければ使用者の魔力を消費することもなく、しかし常に最高の切れ味を保ち、そして大概の物をバターを裂くのと変わらぬ抵抗で切ってみせる優れもの。
リブレライトの治安維持局にある地下独房。そこの虜囚となっていたキャンディナを連れ去る際、イクアの手に握られ振るわれ檻を切り開いたのもこのナイフだ。その直後には餞別品のひとつとしてリック・ジェネスへ贈られたが、回り回って今はキャンディナの所有物として彼女の手の中に納まっている。
「ふぅ――、」
ゼネトンからの忌憚なき賞賛を受けてもキャンディナは表情を変えない。『暴』の影響で筋肉や骨だけでなく内臓にまで軽くはない損傷が生じている彼女だが、それを表に出すこともしない――敵の言葉へ得意になるでもなく不快になるでもなく、落ち着いて呼気を整えつつ油断なくゼネトンを観察している。
(奴の傷は深い……だけど致命傷には到底届かない、か)
狙ったのは首だったがさすがに暴風に体を揉まれていては寸分違わず切って仕留める、とはいかなかった。それでも深々とナイフの食い込んだゼネトンの傷は常人であれば十分に致命的なものだろう――ただし人を基準にすれば勝負が決するような傷を与えたとしても、獣人相手では決着足り得ない。彼らの頑丈さはキャンディナの比ではなく、そして生命力も頗る強い。重傷や大量失血にも当たり前のように耐えてみせる種族である――故に死なば諸共というくらいの気概で放ったキャンディナ渾身の斬撃も、クリーンヒットはしたもののゼネトンにとっては軽傷の内でしかない。
そのことに、種族的差異による覆しがたい劣勢を悟ってほんの少し眉間へ皺を寄せたキャンディナだったが……そういう顔をしたいのは彼女よりもむしろゼネトンのほうだったろう。
只人の、それもまだ成人したて程度に見える女性を相手にここまで傷付けられるとは思いもしていなかったゼネトン。
それは油断というよりも彼が持って当然の自負であった。彼は人より強き獣人であり、大空を庭とする鳥人であり、その中でも特に戦士として皆から一目置かれる『神逸六境』の【風刎】なのである。いかに相手が只人としては優れた戦士であったとしても【風刎】たる自分に追いつけるはずがない……そう思っていたし、信じていた。
だがその予想は覆された。確かにドーララスの安全ばかりを気にするあまり馬鹿なことをしてしまったという自覚はあるが、それでも余裕を持ってキャンディナを退治できるつもりでいたのだ。だが事はそう上手く運んではくれなかった――全身の裂傷は電流ワイヤーから逃れるための苦肉の策として自傷に及んだようなものなので別としても、この胸の大きな傷は看過できるものではない。
ゼネトンが衝撃を受けたのは『暴』を前にして反撃に打って出たキャンディナの見かけに似合わぬ根性に対するものと、もうひとつ。彼女が持つ武器の性能に対しての驚きでもあった。
(ありゃあ厄介だな……メタルアームとかいう戦闘義手とは違って、あのナイフには魔力反応がまるでない! 勝負を終わらせるつもりで風術を放ちはしたが、だからって敵の魔力の動きを見逃すほど俺は間抜けじゃねえ――武器があのナイフだからこそこうもあっさりと切られちまったんだ!)
嫌でも目を引くメタルアームにばかり気を取られ過ぎていたというのも理由としてあるのだろうが、何よりキャンディナの切るというよりも空間を滑らすような刃の扱い方と、魔力を使用しないことで不気味なまでに静かに振るわれる無銘との相性が良すぎるのだ。
「……、」
「、……」
じり、と今度はお互いに慎重になりながら間合いを調節する。
ゼネトンはまだ見ぬメタルアームの機能と始動を目で捉えないことには攻撃の瞬間を感知できないナイフへ注意を向けながら。
キャンディナは距離が開いたことで圧倒的威力の『風門』によってなすすべなく蹴散らされることを警戒しながら。
互いが互いの手の内をある程度知ったことで生じた僅かな膠着――その時。
――ドォォォォオォォォォン!!
記念館の向こう側から只ならぬ爆音と衝撃が響いてきた。
「な、なんだこいつは――あっと、ねーちゃん!?」
思いがけぬ事態にキャンディナよりも台方広場のほうへ気が向いた一瞬、慌てて意識を戻せば既に彼女の姿は目の前ではなく記念館の屋根の上にあった。
驚きを見せるゼネトンへ、キャンディナは淡々と言う。
「始まった。そしてよく考えてみれば私が回収に拘る意義なんて薄いと気付いた……ここは素直に私のほうから撤退させてもらうわ」
「ヘイ! なんだかわかんねえが俺っちを無視しよう――って、もう行っちまったヨ! 少しくらい俺っちの話だって聞いてくれていいんじゃねえの!? ……まードーララスちゃんを無事確保できたんだ、あのねーちゃんのことはこっちだって気にしなくていっか?」
あっさりと逃げの一手を選んだキャンディナに少々困惑しつつも、ゼネトンの目的はそこへ放置されたままの竜人少女ドーララスにこそあるのだ。逃走したキャンディナを追うよりも少女の保護こそを優先させるべきだろう。
思ったよりも手こずったことに内心でため息を吐きながら、ゼネトンは眠りこけている様子のドーララスの下へと歩を進めた。




