373 キャンディナは独断する
時刻は『孤混の儀』が始まる直前。今や壇上にいる市政会員は会長を含め人形ばかりとなっているが、あとはプログラムされた通りに『リッちゃん』が式を強引にでも押し進めてくれることだろう。多少の違和感を覚えたところで革命会員も式を中断させてまでその原因を確かめようなどとはしないはず。
(つまり私がここを抜け出すべきは『今』以外にないということ)
記念館に残った唯一の非人形の市政会員キャンディナはしかし、イクアが場を放棄したことで現状たった一人『孤混の儀』をコントローラブルに誘導できる立場にいながらも、そうする気はさらさらなかった。
(イクアの指示は『大監獄へ向かえ』というもの――つまり元々ここからの離脱を命じるものだったのだから、結局のところその前に用を済ませるかどうかの違いでしかないけれど……)
どうせ人形任せにしても大した問題なんて起こりようがないのだ。始まってしまった――ここで言う始まりは祭りではなくそれを台無しにする計画のことだ――その後を思えば、早々にこの場から離れていたほうがいい。一応は式の直前まで見守ることはしたのだからもはや記念館でキャンディナのすべきことなどないだろう……たったひとつを除いては。
彼女の済ませる『用』とは対【崩山】用の人質である『ドーララス・ドラゴニクセン』――保管庫に仕舞われっぱなしの竜人少女をここより連れ出すことであった。
それは引き続き人質としての価値を期待し【崩山】への脅迫による強迫を継続させるという意味もあれば、単純にドーララスの安全を確保するためでもある。これより後に祭りは大荒れし、ともすれば記念館だって戦場になるだろう。それでも保管庫内にいるなら滅多なことではドーララスに危害など及ばないだろうが、けれど絶対とは言えない。そして仮に無事だったとしてもそこから後々救い出されるかどうかは別の話だ。
(それに竜人がいかに頑強とはいえ【崩山】と違ってドーララス・ドラコニアはまだ子供もいいところ。一週間以上も猿ぐつわをかまされ転がされているのだから、いい加減にそろそろ限界のはず……)
ちゃんと最低限の食事は与えているしそのたびに外の空気を吸わせてやってもいるが、しかし着々と少女は弱っている。薬剤の類いが効かないので扱いを悪くすることで物理的・肉体的に衰弱させる必要があったという事実もドーララスの気の毒なまでの弱りっぷりに拍車をかけている。神という存在に倣って超生命体とまで称される竜や巨人。それに当てはめて人間や亜人種の中でも特に優れた者を『超人』と呼ぶことがままあるが、その筆頭がどの種族かと議論になれば、やはり第一候補として挙げられるに相応しいのは竜人族であろう。それほどまでに並外れた生命力を持つドーララスは故に、いくらまだ幼体といえども油断の気構えで身の内に抱え込めるような存在ではなかった。
(だから、本当に気の毒としか言えない。だけどイクアに目を付けられてしまったからにはもう仕様がない――諦めてもらうほかないわ)
ただしせめてもの安全は保障しよう。
【崩山】の役柄としてはナインを誘い出すための見せ駒に過ぎなかったわけだが、イクアのほうからナインへ会いに行ってしまったためにその存在意義は果てしなく微妙なものとなってしまった――しかしそれならそれでいいだろう。キャンディナとしては計画の成否などどうでもいいのだ。今日という日が終わるまで、クトコステンという都市がどうなろうとも自分の身さえ無事で、そして狂った己が主人に一定以上の満足感さえ抱いてもらえればそれで全ては無問題なのだ。
ならば後は、少しでも自分にとって――肉体的にも精神衛生的にも――いい方向へ。それだけを願うキャンディナからすると、幼き竜人の少女をすげなく放置しておくというのはあまり褒められたことだとは思えなかった。だから彼女は人気の失せた記念館の裏口から庭に出て両会の保管庫が置かれている場所――車庫ならぬ庫庫にまで足を運び、人形たちが『七聖具』を持ち出したあとの市政会側の保管庫を単身開いたのである。
本来は会長と幹部数名が登録した魔力を同時に流し込むことでしか開かないようになっていた保管庫だが、当然そちらはイクアの手によって再設定がなされ、今では彼女とキャンディナは単独でも自由に開け閉めできるようになっている。
誘拐直後、保管庫へ押し込められたドーララスへの餌やり係を自ら志願していたキャンディナは、そのおかげで扉の開閉も実に慣れたものだった。
今回もまたいつものように開錠。狭い一部屋程度の空間がある鋼鉄の箱の内部へと足を踏み入れ、奥に横たわっている少女をそっと抱え上げる。
「寝ている……か」
弱ってはいても流石は竜人といったところだろうか。少女はすぅすぅと可愛らしい寝息を立てて穏やかに夢の世界を楽しんでいるようだった。
とまれ、攫った当初は警戒と恐怖からろくに眠れていなかった少女だ。今こうして睡眠を取れているのは多少なりとも状況に慣れた図太さ故とも言えるが、それと同様にここまで落ち着けない状況下であっても休眠を取らざるを得ないほどに疲労が増しているせいだとも言える。実際日に日にドーララスは口数を減らし、その威勢を弱めていた。しきりに待遇の改善や交渉を持ちかけていたことも今となっては懐かしく思えるくらいだ。それくらいドーララスは疲弊してしまっている。
なんの説明もないままに目と口を閉ざされ身動きを封じられた状態で七日以上も過ごせばそうもなろうというもの……これがただの子供だったならばとっくに精神衰弱で死に至るか、あるいは頭がおかしくなっている頃合であろうことを踏まえると、やはりドーララスの体力・精神力は未だ子供ながらに人間の水準から大きくはみ出していると言える。
「――ん?」
眠っているなら僥倖、今の内に運び出してしまおうとドーララスを抱えたまま保管庫から出たキャンディナは……そこですぐに足を止めた。
目付きを鋭くさせて一箇所を睨みつける――その視線の先にあるのは庭に植えられた木々が形成している木立。
一見するとなんてことはないその風景に、元は裏稼業を生業としていたキャンディナの持つ鍛えらえた肌感覚が明確な異常を訴えていた。
「誰だ?」
……返事はなかった。
「…………」
キャンディナはもう一度呼びかける代わりに片腕のみでドーララスを支え、その首元にもう片方の手をやった。これは脅しのサインだ。キャンディナが少し手に力を加えれば少女の首の骨は圧し折られる。そうなってしまえばいかに竜人であっても助からない。少なくともすぐさま適切な治療を施さないことには生存が絶望的なものとなる。
気配の感じられたタイミングからして視線の主は今よりももっと前……つまりはキャンディナが保管庫へ立ち入るよりも以前から既に後をつけて観察していたことは確かなはず。そこまではキャンディナも追跡者がいることになど微塵も勘付いていなかった。それだけ巧みな隠形を実践できていながら一瞬とはいえ自身の気配を漏らした――それはキャンディナが保管庫から出てきた直後のこと。しかしながら彼女をつけていたのだからその姿をもう一度確認できたからといって大袈裟に動揺するはずもなく……即ち追跡者が気配を揺らしてしまった原因とはたったひとつ。
キャンディナの腕の中にいるドーララスを目にしたことこそが理由だとしか考えられない。
発見できたことによる気の緩みか、それとも安否を確かめる以上の次なる目的を見いだしたからなのか。どちらにせよ気配が伝えてきたのは心からドーララスを慮る善良な意思。ならば無暗な誰何を繰り返すよりもこうして目に見える形で脅かしてやったほうが話は早いはず――。
というキャンディナの考察はどうやら正しかったようで。
「あーっと! わかったよわかった! 今出ていくからその手を放してやりな!」
慌てたような、あるいは観念したような口調で想像以上に軽いテンションの声が庭に響いたかと思えば――それからさっと素早く木立から姿を見せたその人物を確かめて、キャンディナの眉間には深い皺が寄った。
「お前は――、」




