35 さらばリブレライト
麗らかな昼下がり、天気は晴天。
抜けるような青空の下で、鞄ひとつに収まるだけの荷物を持ってナインとクータは宿屋の店主ドマッキと向かい合っていた。
彼のどこか寂し気な表情から分かる通り、これは別れの場面である。
「今日までお世話になりました!」
「なりましたー!」
「…………おう」
クータと揃って頭を下げるナインを見て、ドマッキの瞳が一瞬潤む。彼は娘の独り立ちを見送る父親のような気分だった。間違ってもただ下宿させただけの相手に抱くような感情ではない。ドマッキがそういった感傷にどっぷり浸っているのは少々気味が悪い、というのがナインの本音であったが、別れ際ということもあって何も言うつもりはなかった。
正直度の過ぎた構い方をされて本気で治安維持局に通報しようかと何度迷ったか分からない相手ではあるものの、彼に大変世話になったのは本当だ。若干精神状態に不安があるとはいえ無下な扱いをしていいはずもない。
「へん、どこへでも行けってんだ。俺からすれば部屋がひとつ空いてせいせいすらあ。戻ってきたってもう空きはねーぞ」
いかにもな言葉を投げかけられる。ドマッキらしい送り出し方に、ナインもにやりと笑ってそれに応じた。
「よく言うぜドマッキさん。看板娘の俺がいなくなったとあっちゃ、ここも客足が落ちるんじゃないか? 閑古鳥が居座らないか心配だな」
期間にして二カ月弱、五十日と少しほど。
長いとは言えなくとも決して短くもない時間を、ナインはここで過ごした。ただ働くだけでなく、なるべく客寄せにもなろうと初日からして素顔のまま接客をしていたのだ。ナインは超絶的な美少女である。そんな彼女が顔をさらけ出して笑顔で注文を取ったり料理を運んだりする姿は、元来であれば常連客くらいしか足しげく通わないような『ドマッキの酒場』(ふざけた店名だとナインは思っている)を大盛況の超人気店に変貌させるだけの効果があった。
後半になるとミスしがちではあるがとにかく明るく元気なクータも加わって、店はいっそう賑やかになったものだ。酒場の評判が広まるにつれ宿泊客も以前より増加したので、ナインもその分忙しくなり日雇いの仕事を減らすほどだった。直近ではリュウシィからの依頼を受ける以外ではほぼこの店の看板娘として生活していたと言える。
とまあ、それだけ店を盛り上げた要因である自分たちが揃っていなくなってしまうため、憎まれ口のようでいて割と本気で稼ぎの心配をしているナインであった。
だがドマッキはふんと鼻を鳴らし、
「ナマ言ってんじゃねえ、お前さんがすぐいなくなっちまうのなんてお見通しに決まってんだろ。お前さん目当てに働こうとする輩やミーハーな客が顔を出さなくなろうが、そりゃいつも通りに戻ったってだけのことだ。元からこの店の経営は順調なんだよ、転がり込んできた側からそんな心配される謂れなんぞねえっての」
だからとっとと好きなところへ行っちまいな、と彼はそっぽを向いた。しかしやはり、態度とは裏腹に滲み出る寂寥感を隠しきれていない。
「ドマッキさん。またこっちに来たら、必ず訪ねるよ。今度は客としてさ……歓迎してくれるよな?」
「へん! ……期待しねーで待っといてやるよ」
「ドマッキ、ばいばい!」
「おう。クータちゃんも達者でな。こいつのことよく見といてやってくれよ」
「任せて!」
「あれ? 保護者は一応俺のはずなんだけどな」
釈然としない思いをしつつも、ナインはドマッキに手を振りながら別れる。向かう先はリブレライトの外――別の都市である。
どうして彼女たちがリブレライトを出る必要があるのか。そのきっかけとなったのは数日前のことだ。
◇◇◇
暗黒館襲撃から三日後、ナインはまたしても治安維持局からの呼び出しを受けていた。面会主はもちろんリュウシィである。場所も前回と同じく彼女の私室で、ここでの会話はたとえ職務上のことであっても彼女にとってプライベート扱いになるらしいことをナインもすでに察している。局長としてそうしているのか、それとも組織としてそうせざるをえないのかまでは窺い知れないが。
先日の聖冠の件もあり、呼ばれた訳は何であろうかとやきもきしているナインとは対照的に、一通りコーヒーの香りを優雅に楽しんでからリュウシィは事も無げに言い放った。
「ナイン。リブレライトから出て行ってくれ」
「……え? なんて?」
呆けたように聞き返す。まるで初対面時の焼き直しのような要求に己の耳がおかしくなったのかと思ったからだ。しかし、返ってきた言葉は一言一句違わないものだった。
「リブレライトから、出て行ってくれ」
「…………」
「いやなに、私とてあんたのことは憎からず思っている。ナインのおかげで助かったことは多いからね。だから何も、悪感情から追い出そうってことじゃあないんだよ?」
「じゃあなぜ?」
「あんたが聖冠を食べちゃったから」
「うぐ」
そう言われるとぐうの音も出ないナインだ。うぐの音は辛うじて出たが、それ以上言葉が続かない。あのときはあれが最良と信じて実行したが、やはりまずかったかと今更になって後悔していたりする。
「……弁償、とかいう次元でもないんだよな?」
しばらく悩んでから絞り出した言葉も、多分に諦観が含まれたものだ。
というかもしも「弁償できるならしてくれ」などと言われてしまえばナインは余計に首が絞まることになるのだが、幸か不幸かリュウシィはその問いかけをにべもなく否定してくれた。
「当然。そもそも金に換えられる物じゃないからね。まさにプライスレス。お金に変換しきれないだけの価値がある、それが七聖具というアイテムだ。そして悪いことに、お上が急に七聖具を集め出している。もしここであんたの蛮行が知れたら、さすがにまずいことになる。私たちのどっちもね」
「うへー……」
リュウシィから事情を聞かされたナインは、治安維持局の活動を総括している万理平定省の人間――オイニー・ドレチドというナインともすれ違ったあの少女――が七聖具を収集していること。
その理由までは知らされていないが七聖具が必要な理由があるという推測は立つこと。
故に七聖具のひとつを胃に収めて(?)しまっていることがバレたらどうなるか分からないこと。
以上の三つを理解した。
だからこそ早急に街を出る必要があるのだとリュウシィは言う。
「幸いなのかどうか、何故かナインからはもう聖冠の魔力が漏れ出ていない……けれど万平省はどこからどうやって嗅ぎ付けてくるか分からない。特にオイニー・ドレチドは危険な相手だ。嫌らしい奴だし、頭も回る。暗黒座会壊滅の報から奴にしか感じ取れないような何かを見抜いても不思議じゃない。実際、ただの悪党退治にしては山中の被害は相当なものだったからね」
「派手に暴れちゃったのは認めるけどさ。いくらなんでも、それだけで七聖具と結びつけはしないんじゃ?」
「いや、それがさ……」
頭をかくリュウシィは参ったもんだという顔をしながらどうしてオイニーがここを訪れたのか、その用向きを打ち明けた。
「実を言うと私は、オイニーに疑われていたんだよ。まあ、その疑いはもう晴れたんだけど……いや、まだ推定無罪ってところかな」
「どういうことだ? リュウシィが何を疑われているって?」
リュウシィがリブレライトを守るために日々腐心していることを知っているナインは、そんな彼女が上の人間から疑いの目で見られているという事実に怒りを覚えた。リュウシィのことを、称賛されこそすれ容疑をかけられるような人物では決してないと信じているからだ。
ナインが僅かに漏らした怒気。
剣呑さが募る雰囲気にリュウシィは困ったように、けれど少し嬉しそうに笑った。
「そう顔を険しくしなくていい、なんてことはないんだ。オイニーの調べでは、どうも七聖具らしきアイテムがこっちに流れた可能性があるってことだったんだけどね。それを私が万平省に報告もなしに隠し持っているんじゃないかってカマをかけられたんだよ。この街でそれができるのは私ぐらいだろうってね。実際のところそれは聖冠のことで、隠していたのはオードリュスだったわけだけど……」
オイニーと顔を合わせてそう訊ねられたとき、勿論リュウシィは否定した。七聖具を持っていないどころか流れてきたという情報すら彼女には入っていなかったのだ。
唐突にも突飛にも思える質問に面食らったリュウシィは、確証はあるのか、何かの間違いか勘違いではないのかと逆に詰め寄ってみせた。その様を見たオイニーは「嘘はない」と判定したようだった。彼女には長年の経験から嘘をある程度見破る技術があった。オイニーの目にリュウシィは嫌疑に対し憤っており、七聖具に関しても何も知らない、という風にしか映らなかった。
実際にそのときのリュウシィは真実、何も知らなかったのだが……。
「問題は今だよ。私は聖冠をこの目で見た。そしてナインが聖冠を食べてしまうところも、確かに目撃した。もしもオイニーが引き返してきてもう一度七聖具について何か知らないかと訊ねるようなら――そうなればもう、隠し立てはできないだろう。悔しいことに私なんかの誤魔化しがきくような相手じゃないからね」
「だから俺を街の外に出そうってことか。追い出すんじゃなく、逃がそうと……でもそれじゃ、リュウシィはどうなる? 俺がいようがいなかろうが嘘は通じないんだろ?」
「ナイン、一番まずいことは何かを考えるんだ。この場合は、オイニーと対面する場面であんたが居合わせること。それこそ最も避けるべき展開だ。あいつがまたここを訪れるかどうかは五分五分だと私は思っている。ただ時間が経てば経つほど急な来訪の危険性は増す……で、あるからして。最善にして唯一の策は、オイニーが再びやってくるまでにこの事態を解決するしかないってことだ」
「解決、だって?」
ナインの声に疑問符がつくのも仕方がないことだった。国宝を食べて無くしてしまったというこの現状。自分でそうしておいてなんではあるが、いったい何をどうすれば解決と相成るのか彼女にはまったくもって想像がつかず、そのせいでリュウシィの言っていることがよく分からなかったのだ。
「まあ聞きなって。一応、私にも考えはあるんだ」
「そりゃ解決の手があるって言うなら、喜んで聞かせてもらうけどさ。……ちょっと確認。俺がリブレライトを出ることとそれは何か関係があるのか?」
「大いにあるね。あんたには是非、会ってもらいたい人がいるんだよ」
「ほほう。この事態をどうにかできる人がいると?」
「その可能性のある人、だね。こういう珍妙なケースでこそ力を発揮する、歪んだ知識の宝庫とでも言うべき人物がいるんだ。場所はこのリブレライトと同じく五大都市のひとつに数えられる街――『エルトナーゼ』!」
露骨な新展開




