351 食われておしまい
「あなたからいただいたナイフであなたの首を裂く……申し訳なく思いますがそれ以上に、この結末に愉悦を感じますね」
血が舞う。深く引き裂いたイクア・マイネスの首にはぽっかりとした渓谷ができていた。呆れるほどの血しぶきが吐き散らされることで部屋の床が瞬く間に汚されていく――汚すことに忙しい少女の耳にリックの声は果たして届いているのかどうか。そんな彼女を見つめながらリックはますます愉快な気分になる。
(あぁ、いけないことだ。獣人相手でもないのにこんな気持ちになっちゃあ……僕はそう、この子と違って犯行そのものを楽しんでいるわけじゃないのだから)
べちゃり、と粘着質な音を立てて自らの血だまりに少女が倒れ込んだ。卒倒ならぬ即倒だ――そんな言葉があるのかはともかく、とにかくまともな反応らしい反応もなく倒れ伏したイクアは、どう見たってもう死んでいる。即死と言い換えたほうがいい。
二度と動きはしない。
悪辣な少女は散滅したのだ。
それを確かめたリックはすぐに左を向いた。そこにはたった今死んだ少女の護衛である人物――キャンディナが沈黙を守って立っている。
「…………」
キャンディナは扉の前から動かない。どころか、大したリアクションすら見せない。仇討ちに襲い掛かってくるだろうと警戒したリックの思惑はまるっきり外れたことになる……そしてそれはとても不可解なことでもあった。
「どうしたんです、キャンディナさん。なぜあなたは動かない? 何が起きたのかは理解しているでしょう……死んだんですよ、あなたの雇い主は。殺されたんです」
「そのようですね」
キャンディナはそれを粛々と認めた。やはり理解自体は追いついているようだ。護衛対象の死に茫然自失となっているのかと思えばそうでもないらしい――いや、そのことはリックとてわかっていた。正確に言えばキャンディナは僅かながらに死んだ主人へリアクションを見せていたのだから。血に伏したイクアを一瞥して彼女はため息をついていた……そう、『ため息』だ。他者から見ても容易に推し量れるその心境は「呆れ」以外の何物でもないだろう。
動揺じゃない、恐慌でもなければ憤っているわけでもない……彼女は心底から死んだイクアに対して呆れかえっていた。
――やはり不可解だ。
「ではなぜ、僕を排除しようとしない? 単なる雇用関係ではなかったはずでしょう、あなた方は。僕から見てもあなたたちにはある程度の親密さが見受けられました。ならばそこは当然、復讐に動くべきなんじゃないですか?」
「これはジェネス様。私のこともついでに始末したいという欲が隠しきれていませんよ。まあ、それはともかく……そちらから仕掛けてくるのであれば応じることもやぶさかではありませんが、けれど。私のほうからあなたへ襲い掛かることはないと断言させていただきましょう」
「……その理由は?」
淡々とした物言いにリックは眉根を寄せる。
それに対しキャンディナはこう言い放った。
「命令ですから。『手出しはするな』と」
「――ハッ」
ようやくキャンディナが戦う意思を見せない理由に思い至ったリックは、思わず吹き出してしまった。
「なるほどそういうことですか――イクアからの最後の命令を、あなたは忠実に守り通しているというわけだ。仇討ちよりも彼女からの『手出し無用』の言を守ることを選んだ。ご立派な話じゃないですか。死した主人の言葉を遵守する健気な臣下とはいかにも涙ぐましい――ですがキャンディナさん。だからといっていつまでもそこから動かないわけにはいかないでしょう?」
そのまま石像にでもなりたいのなら話は別ですが、とリックは嘯く。
「雇用主を失ったことですし、どうです? 今度は僕の下につくというのは」
「なるほど――あなたはイクアの持ち物をそっくりそのまま頂戴しようというのですか」
「理解が早くて助かりますね。ええ、そうですよ。今後は市政会も僕が動かしましょう。なに、どうせ交流儀も翌日という段階にまで来ているのですからそう大した労力なんてかからないでしょう。革命会が武闘王の手によってどれだけの被害に晒されているかはまだ想定がつきませんので、今はこちらの掌握に専念するとして。手始めに『リッちゃん』さんの使用権限についてお話がしたいですね。一部譲渡ではなく操作の一切をこの僕に――」
「お言葉ですがリック様」
距離を詰めながら朗々と今後の予定について語り出したリックのセリフを遮ったキャンディナは、微塵も謝罪の意を感じさせない平坦な口調で「まことに申し訳ありません」と謝った。リックは足を止める。
「……それはなんの謝罪でしょうか?」
「私はあなたの部下になるつもりはございません。ですので、勧誘にお断りを告げているのです」
「おや、いいんですか? これを機に自由の身になりたいというのであれば、こちらも尊重して差し上げたいところではありますが……果たしてそれでこのクトコステンから五体満足に出ていけるかどうか。僕としては非常に心配になってしまいますね」
それは明確な脅しであった。あまりにも物事の奥深くまで知り過ぎているキャンディナという女性を、リックが放っておくはずもない。手中にできないのであれば残るは排除一択だ。市政会と革命会双方の実権を握るつもりでいる彼は、それが叶えば都市の八割方をある程度自分の意思で操れるようにもなる。そうなれば一人の只人女性くらいどうとでも好きなようにできてしまう――たとえキャンディナの足がどれだけ速かろうとも逃げ切ることなど絶対にできない。
そう確信しているリックは剣呑な色味をした瞳で相手を見る。ギラついたその双眸は彼が手に持っているナイフの硬質な鋼色とよく似ていた。直近で立て続けに人命を屠っている今のリックの殺気は鋭く研ぎ澄まされている。それをよもや感じ取れないようなキャンディナではない……彼女とてその手で多くの命を奪ってきた兇手の一人であるのだから。
だが、それでも。
彼女はあくまでも淡々と答えた。
「まず認識に間違いがあるようですね――私は雇用主を失ってなどおりませんが」
「はい?」
これにはリックも首を傾げる。何を言い出しているのだろうか、この女は? 殺意に満ちていた目に若干の侮蔑がこもるが、キャンディナはそんなことに頓着しなかった。
「ですので私があなたからのヘッドハンティングに応じることはございません。何故なら私は、自らの意思で現在の立場を離れることが不可能だからです。そうしたいしたくないの話ではなく、そこに私の判断が介在する余地など皆無ですので……」
「まったくわかりませんね。あなたは何を言っているんです? 相当に強固な雇用形態に縛られていたようですが、そうやってあなたを縛り付けていた主人は今し方この世を去りましたよ」
「そこです。そこに認識の齟齬があるのです」
「いったいどういう意味――」
「それはつまりこういう意味だよ、リック」
「――ッ!?」
即座に振り返る。聞こえてきた声は聞こえてきてはならないはずの声だった。それを否定したくて背後を確かめたリックだったが、ああ、しかし。そこには否定しようのない歪んだ現実があった。
「あ、あり得ない――その傷でどうやって……っ?」
死んだはずのイクア・マイネスが立ち上がっていた。
開いた喉の裂創をぱくぱくと動かしながら笑っている。くすくすくすくす。自分の流した血でエプロンドレスを象るように体中を濡らす少女は、窓から差す夕陽の淡い赤色と一体となって溶け込んでいる。非現実的な光景だ。自分は幻覚を見ているのではないかとすら疑う。しかし少女の眼差しが逃避を許してくれない――髪色と同じ薄紫をしたその瞳は夕陽に照らされることで不思議と濃度を増し、まるで澄んだ紫水晶のような輝きを放ってこちらを見据えてくる。
見抜いてくる。
「痛かったなぁ……でも、だいじょーぶ。どれだけ傷付いたってあたしは負けないんだ」
「なっ……、」
唖然とするリック。瞠目する彼の眼前でぱっくりと裂かれた傷が、みるみる治っていく。深々と開いた谷間を埋めようとその周辺から新たな肉が湧き起こるようにして盛り上がって修復し――あっという間に首の切痕はなかったことになった。
「増肉剤、だったかな? あたしに致命傷はない。ついでにこれは血も増やしてくれるから出血多量で死ぬこともない」
「なんですか、それは……」
「ドックの発明品だよー。最近は薬剤に凝ってるみたいでね。『弛緩爆化剤』をリックだって使ったでしょ? それと似たようなものだよ。あたしの身体にはそういうのがいくつも入っている……この身体はどんなものでも受け入れられるようになっているんだ」
「ちっ……そうですか。要するに、あなたはとっくに化け物になっていると」
「化け物? 面白くもない言い方だね。でもそうじゃないとは否定しないよ。あたしは人と違うって、生まれた時から自分でもわかってたもん。それはリックだって知ってたはず。なのにこんなことをしたからには――もう、覚悟はできてるってことだよね?」
「……!」
その瞬間、先手を打つべくもう一度『クイック』を唱えようとしたリックは……ピクリとも腕が動かないことに気付き驚愕する。いや、腕だけじゃない。体全体が動作を止められている――顔から下が石膏で固められているかのようにガチガチに硬直してしまっている。
「リッちゃんを使ってここまで来たくせに、警戒が足りてないよ。まさかお掃除やお人形遊びしかできないとでも思ってたのかな……? バカだね。ま、警戒したところであなたにやれることなんて何もなかっただろーけどさ……この部屋に居座ってあたしと敵対を選んだ時点で、リックさん。あなたはもうとっくに死んでいたんだよ」
ひどくつまらなそうに、少女はそう言った。
身動きひとつ取れないリックを見ながら、安い玩具へ向けるような目で――とうに壊れたガラクタを見るような目でそんなことを言った。
愉快も愉悦もそこにはなかった。あるのは落胆だ。彼女の内には落胆ばかりがあった。
リックにはそれがハッキリとわかってしまう。
「あーあ。もっと劇的な死に様を見たかったな。成功するもよし、失敗するもよし。どちらにせよ最期には非業の死を遂げてもらいたかった……できることなら獣人の誰かに惨たらしく殺されてほしかった。でもこうなっちゃった。何もかもうまくいくことってやっぱりなかなかないよねー。でも、いっか。あたしにはナインちゃんがいるもん。リックぐらいの些末事にはこの際文句をつけないでおこうかな。だから、ね、リックさん。安心して死んでちょうだいね」
「――ああ、クソ」
間違いだった。
どんなに魅力的な提案と手段を携えていても、この少女の手を取ったのは決定的な間違いだった。
食い物にされようとしている今この時。もはやどうすることもできない正真正銘、自身の命運の瀬戸際においてそれを悟ったリック。このような状態から彼が口に出せるのは、短くそして単純な恨み節だけであった。
「魂ごと呪われてしまえ、この異端者め」
「ちっ、ちっ。そいつは違うぜよリックさん――あたしの魂こそが、呪いなのさ」
そんなイクアの言葉に不覚にもひどく納得してしまったリックは……その直後に何も見えなくなって、何も聞こえなくなった。




