343 匂いのない異変
「だから、絶対におかしいんだって!」
「何がおかしいのか、俺にはさっぱりわからん……。妙な感じはしなかったぞ。匂いだってそうだ」
還暦も近い年老いた狼人がすげなくそう言えば、若き犬人はそれに食ってかかった。
「それはリーグさんがあいつのことをよく知らないからだろ! 俺には分かるんだ。ここ最近のルリアはなんだか変だってことが!」
「…………」
ふぅ、と小さく息を吐く。リーグは辟易としていた。
自分たち革命会とよく似た、しかし正反対の組織であるところの市政会。そこの新会長であるルリアという犬人の乙女の様子がおかしい、とはこの犬人少年マイスの言だ。
しばらく前からしきりにこのことを口にするようになったマイスは、今日の交流儀前日会合――明日からの二日に渡って行われる祭典に向けた最後の激励会において顔を合わせたルリアを見て、いよいよその確信を強めたようだった。
しかしながら、副会長として同場に居合わせたリーグにはいったいルリアの何がおかしいというのか、まるで理解ができないでいる。公的な場でしか彼女を見たことはないが、それらの時と比較しても先ほどのルリアに違和感は特になかった。リーグの目に映る彼女は極々いつも通りの少女でしかなかったのだ。
強いて言うなら、犬人の割にひどく体臭が薄い――これは狼人たる彼の嗅覚での基準である――ことが若干気になったくらいだが、激励会に参加するにあたって念入りに身を清めるというのは別段おかしなことでもない。同じく若い会長でありながらそこらへんがどうにも野放図なマイスはともかく、ルリアは少女であり花も恥じらう乙女であるからして。
「信じてくれリーグさん! 絶対、ルリアには何かがあったんだ!」
「何か、ねえ……」
爪で頬を掻く。リーグからすれば憑りつかれたようにおかしいおかしいと連呼するマイスのほうがおかしくなっているように見受けられるのだが、さすがにそう指摘することは憚られた。内実がどうであれ、今の彼が真剣に市政会の会長を想っていることは確かに感じられたからだ。なにかにつけひた向きで情熱的な彼のこと、そこを否定されたら一人でどんな暴走を始めるかわかったものではない。
特にルリアに関して言えばマイスの情熱が最も捧げられる対象でもあるため、ここは多少なりともこちらも態度を改め真剣に彼のよた話……もとい相談を聞いてやる必要があるだろう。
「それで? いったいお前はあの子のどこを変だと思ったんだ。まずはきっかけとなった出来事を教えろ」
「あ……っと、それは――」
途端、熱く言い募っていたのが嘘のように言葉を詰まらせるマイス。それを見てリーグは呆れたようにした。少年の不可解な態度から、老狼は事の起こりの場面を正確に把握してみせたのである。
「マイス。まさかとは思うがお前……俺が『逢引き』に気付いていないとでも?」
「えぇ!? まさかそのことを――し、知ってたのかよリーグさん!?」
「当然だろうが。いくら気を付けたところでお前なんぞが俺の鼻を誤魔化せるとは思うな。向こうの会長との密会なんてとっくの昔から知っているさ」
マイスだけでなく、革命会の幹部とも言える長職に就く者たちは漏れなくこの事実を知っている。たった一人の非獣人幹部である只人のリック・ジェネスとてそれは同じだ。彼は「いいですね、少年少女の恋というのは」などと言って静観する構えを取っており、リーグにとっては非常に癪なことだがしかし、そのスタンスは自分を始めとする他の長の思惑とも一致しているものだった。
本来なら即刻中止させて然るべき、両会の会長同士の逢瀬。
決して歓迎すべきではないそんな事態が頻発していてもマイスに一切注意がいかなかったのは、そんな彼だからこそ信じられるものがあると――要するに己が立場すら顧みず、ただ愛に従い生きるその若者らしい勢いへ陰りをもたらしてはならないとリーグたちが考えたからだ。
遠慮や権謀を覚えたらマイスが会長となった意味がない。
さりとて何も物を知らぬままでもさすがに会長職は務まらない。
ここら辺の塩梅はとても難しいところではあるが、情熱以外はなにひとつ足りていない彼のことを万全に支えてやる腹積もりでいるリーグは、故にその恋路についてもなるべく邪魔をしないようにしていた。バレバレの工作を行ってこっそり出かけ、市政会館にいるルリアへ会いに行く。その背中を見送りながらも目を瞑ってやっていたのだが……そのせいでマイスが妙な疑念に囚われてしまっていることを思えば、あの判断はもしかすると失敗だったのかもしれない。
「なんだよリーグさん、それならそうと言ってくれたらよかったのにさ。そうすれば俺だって――」
「もっと堂々とルリアの下へ会いに行けた、か?」
「そう!」
「馬鹿たれが」
ガツン、と決して軽くはない拳がマイスの頭頂部を叩いた。あいったー! と呻く少年へ鼻を鳴らし、リーグは話を続けるように促した。
「そ、そうだ。今はルリアのことだよ――俺がいつものように彼女へ会いに行ったら、急に交流儀が終わるまではもう会えないって言い出したんだ。どうしてって聞いたら、催しのために準備がいるんで、時間が取れなくなるって」
「ああ、そのことか」
マイスが市政会の催し物について報告してきた時のことはマイスも覚えていた。
情報源がどこかについては下手くそな隠し方をしていたので大方の予想はついていたのだが、やはりそちらもルリアであったらしい……。
調べてみたところ確かに、市政会はこっそりと革命会にはない独自の段取りをひとつ設けていた――それは演武。市政会の有する『七聖具』がひとつ『聖槍』を用いて会長が直々に披露するというものだ。孤混の儀にて密かに予定されていたそれが露見したことで、負けじと革命会も住民の目を引く出し物を用意しようとした。が、『七聖具』ほどのアイテムを使う市政会に対抗できるだけのアイディアはなかなか浮かばなかった。同じように演武をしたところで単なる後追いでしかなく、そもそも革命会が有するのは『聖杖』だ――武具ではない。舞うことはできても『聖槍』の放つ力強さに比べれば大きく見劣りするものになることは想像に難くない。
ということで弧混の儀で革命会が見せるのは……マイスによる公開告白になった。
……どういうことかと思うかもしれない。実際、この案がリック・ジェネスの口から飛び出た時にはそのにやけ面に牙を立ててやりたくなったリーグだが、よくよく考えてみればこれは悪い策ではないと思えた。
マイスがルリアを好いていることはもはや幹部に限らず革命会員にとっての周知の事実である。ルリアのほうもマイスを憎からず思っていることは、公の場であっても時折彼に対し親しい口調が漏れてしまうことからも明らか。ならばいっそここで想いを成就させてやるのもいいだろう。
それは告白という行為がもたらすインパクトを期待してのものだ。
溝深き革命会と市政会。その代表から代表へ都市住民の目の前で告げられる愛の言葉は、『聖槍』の演武にも負けないだけの衝撃を生むはずだ。同時に革命会側であるマイスからの告白によって、過激派の活動で何かと『悪』と見做されがちな自分たちのイメージもある程度は払拭できることだろう。
ルリアがマイスと男女としてくっつく――交際を始めるというのはある意味では交流儀として何より正しい形でもあり、都市全体の融和を図る現革命会にとってもこの上ない結果となる。仮にマイスがフラれたとしても個人の恋愛事と組織は別とすることでマイナスにはならないだろう。……唯一マイスのメンタリティだけが懸念事項となるが、しかしこれですべてを投げ出すようなら彼はその程度だったということだ。
――まあ、十中八九恋は実るだろう。
リーグは犬人の少年少女を見てそう考えている。
断れば市政会のイメージがうちとは逆に下がってしまうのでは、という打算ありきの目論見ではあるもののリーグがマイスの恋路を応援しているのは間違いなく本心からくるものである。
「そう、それでお前の男として最高の見せ場が作られたわけだ。……なんだ? ひょっとしてお前、逢引きの機会がなくなったことでしょげているだけ、なんてことはないだろうな?」
この少年から自信を取ったら何も残らない。とまでは言わないが一番の魅力は間違いなくそこだ。変にモチベーションが下がってしまえばルリアへのアプローチだけでなく交流儀の進行にも差し障りが出てしまう。そう心配しての問いかけだったが、マイスは頭を振って強くそれを否定した。
「そんなわけない! いや、ルリアとお喋りする時間がなくなったのはすごく残念だけどさ、仕方ないだろ? 会長としての仕事なんだから、それはちゃんとやらなくちゃ。ルリアがそうやって頑張ろうとしているのに我儘は言えないよ。それに、会えないって言ってもさっきみたいに会議とかでは姿を見れるんだし、交流儀が終わるまでの短い間のことだ。それくらいぜんぜん平気だ――って、思ってたんだけど……」
マイスの言葉は尻すぼみになっていった。
彼は言う――近頃のルリアは、まるで別人のようであると。




