30 聖冠走れば追いて怪物少女
「待て待てコラ! おい!」
必死に呼びかけながら山中を駆けるナイン。彼女が追っているのは言うまでもなく、七聖具という国内最高峰の宝がひとつ『聖冠』だ。
そんな尊き宝のはずの冠が、とてもではないが見栄えが良いとは言えない昆虫じみた動きと格好で山肌をガリガリ削りながら疾走していく様は、なかなかに非現実的な香りを醸し出している。
白兎を追うワンピース少女になった気分でナインは走り続ける。
「そんな可愛らしいもんじゃないけどな、こいつも俺も! ……しかも速えぇのなんのって! ぜってー追いつくけどなあ!」
いつまでも追いかけっこを楽しむ気のないナインは、ギアを上げた。
タッタッタ、というリズムからダダダッ! というリズムへ。
急速に足の回転を速めて瞬く間に聖冠との距離を詰め、手を伸ばしかけたそのタイミングで。
――ぱっくり、と地面が割れた。
「うおおおおっ!?」
ナインには当然、魔法の知識などない。だから突然の浮遊感に、何が起こったのかまるで理解が追いつかなかった。しかし見る者が見れば分かっただろう、これが『グラウンドクラック』と呼ばれる十段階中の七に位置する高難度魔法が使用された結果であることを。
大きく割れ、引き裂かれた大地。走ることに意識を傾けていたナインはあっさりと割れた地盤に呑み込まれ、姿を消した。
すぐに地面が閉じ、封印されるが如くナインは地中深くへと囚われる。
それを受けて聖冠はききり、と機械めいた音を立てながら駆けるのを止めた。その場に静止したのはタイミングから見てもナインの死亡を確かめる意味があったのだろうが……それは明確なミスだった。
地面に押しつぶされた人間が生きているはずもない、という思考は常識と言ってもいいくらいに当たり前のことだ。自律機動する宝冠という常識外れの存在が下した判断としては、存外にも極めて真っ当なものである。
しかし相手はナイン。常識外れという点では至高のマジックアイテムたる聖冠にもまったく引けを取らない非常識的存在だ。
すぼり、と地面から腕が生える。
その真っ白な手は狙ったかのように聖冠の足元から出てきた。
ぎょっとする聖冠――表情はないがきっとそうだ――がその場から飛びのくよりも早く、脚を掴まれてしまった。白魚を連想させるような清廉な指は、しかしその嫋やかさとは裏腹に異様なまでの力強さを発揮している。力持ちどころではなく、鬼神のような握力である。決して離さないと言わんばかりにがっしりと握りしめられ、脚部に信じがたいほどの圧迫を感じながら、聖冠はようやく己が軽率を理解した。
こいつは正真正銘の怪物である――と、ここまでの己が認識の甘さを修正したのだ。
「つ~かま~えた~……やってくれやがったな」
土から誕生するようにして勢いよく全身を露わにするナイン。
地割れに呑まれたというのに、当たり前のようにその身に怪我など一切負っていない。
土中をかき分けるように掘り進めてきたことへの疲労すらも感じさせない、とてもイキイキとした姿だ。額に浮かべられた青筋は、彼女が怒りによって一層力を漲らせていることを分かりやすく対外に知らせるマークとなっている。
張り付いたような笑顔で、聖冠を掴むのとは反対の腕を振りかぶるナイン――その在り様はまさに理不尽の権化であった。
「おっらぁ!」
拳一閃。
両者に衝撃が走る。
聖冠は殴られたことによる物理的な衝撃。そしてナインは、これまでにない感触を味わったために。
(か、固い――いや、硬い! こいつ、今までに殴ったどんなものよりも!)
聖冠を余すことなく包み込む半透明の繭のような謎物体は、一見すれば柔らかそうにも見える。だが、拳に返ってきた触感はその正反対。
ただ固いというのとも違う、異様な堅牢さがそこにはあった。
「へえ、さすがに不思議パワーの宿るお宝は侮れないってことか……守りがこんなにも堅いですよ、と」
幾分鋭くなった目付きで視線を送るナイン。その先では打たれ弾き飛ばされた聖冠が、そのダメージを感じさせない俊敏な動きで起き上がるところだった。それはナインの一撃が大して――いや、まったく効いていない証拠だろうか。
この体になって初めて自らの拳が通用しなかった事実にナインは驚いた。
手加減がなかったかと問われれば、是とは返せない。
リュウシィから「国最高の宝」などと言われたからには、下宿しながら働きどおしでその日暮らしを送る、一般人代表たるナインでは盛大に尻込みもしようというものだ。遠慮なくぶん殴ることなどできようはずもない。
ただし、では殊更手加減をしたのかという問いにも、素直に頷くことはできない。文字通りに地に沈められたことで多少なりとも苛立ちはあったし、何より珍しく油断もしていなかったナインだ。必殺の心構えまではなくとも、先の一撃は戦闘を終わらせるつもりで放ったものに相違なかった。
なのに、だ。
未だ聖冠の赤い宝石は燦然と輝き、ナインへ敵対的な眼差しを送ってきている。
「上等……! 今度こそ手抜きなしで一発かましてやるぜ」
意気込みも新たに、またぞろ聖冠が逃げ出してしまう前に距離を詰めようとするナイン。ただこの時の彼女はとんでもない勘違いをしていた。
聖冠が山中を駆けずり回っていたのは逃走のためではなく、あくまでナインを確実に仕留める機会を作り出すためにあった。聖冠は所持者の命令に忠実に従っている。脅威を確実に、絶対に殺すという意志のもとで行動しているのだ。
その動機に伴って背中(?)を見せながら猛スピードで離れていく相手を、ナインが逃げていると受け取ったことは無理もないだろう。ただし、対面時にお互いが感じ取った濃厚な戦意を考慮すれば、聖冠の次なる一手にも思い至れたはずだった。
即ち、小細工なしの正面戦闘を選ぶという可能性に。
「うえっ? がっ!!」
ナインの額に衝撃が走った。
駆け出しの一歩目を撃ち抜かれる形で、ナインはあえなく体勢を崩した。
(び、ビームだと……!)
ちかりと聖冠の宝玉が光ったかと思えば、次の瞬間には真っ直ぐに赤い光線が飛び出し、眉間上部を狙い撃ちしてきた。
以前ナインは光を操る敵と戦ったことがある。その時の相手は『光の矢』を放ちながらも、その速度は光速には程遠く、普通の矢と大して変わらないぐらいのものだった。ナインからすればあくびが出るほどノロマな代物でしかなく、避けるにも防ぐにも対応はいくらでも可能であった――が、聖冠のビームはそれとは訳が違う。まさしく光の如き速さでナインを迎え撃った。
また逃げようとするはずだ、と高を括っていたナインはその思い込みによってまったく反応もできず、むしろ自分から攻撃を食らいに行ったようなものだった。
我が身にビーム攻撃なるものが直撃したことにまたしても精神的衝撃を受けるナインだったが、同時に聖冠も少なからず驚かされていた。本来ならナインの頭部は額から後頭部にかけて綺麗にくり貫かれた風穴が空くはずだったのだ。
ところがナインは倒れこそしたもののその額に傷らしき痕は見受けられず、血の一滴すらも流していない。もはや常識外れどころか天理の慮外に座する怪物としか表現のできない相手に、しかしそれでも聖冠は果敢であった。
直土葬が通じなかった時点で評価は定まっているのだ。このぐらいならやってのける相手だとすでに承知済み。なればこそ、聖冠はたった一度の攻めで手を緩めるつもりなど毛頭なく、即座に第二の矢を弓につがえたのだった。
「うっぐ、ぅおおぉぉおおぉっ!?」
ナインの悲鳴が山間に木霊する――。