294 往来行き交う異邦人:吸血鬼
「……ふん。どうやら追ってはこないみたいね」
「そう、だね。これだけ離れたらもう安全かな」
ふうー、と安堵の吐息を漏らすのは幼き少女であるマビノ。そんな少女に、傍にいるもう一人の少女――マビノより幾分か年上に見える彼女は笑って言った。
「なによあんた、そんなに怖かったの? 人間ごときがそこまで?」
「……、」
小馬鹿にしたようなユーディアからの言葉に、マビノは黙った。
マビノもユーディアも、姿形は人間――亜人種が呼ぶところの只人と瓜二つではあるが、しかし彼女たちは『吸血鬼』なのだ。
ただの人間などとは比べるべくもない、誇り高き種族。
闇を統べ血を支配す夜を歩く者としてたかだか人間にそうも怯えてどうするか。
マビノを見下ろすユーディアの視線には確かに吸血鬼としての矜持があった。
(本当に、よくよく吸血鬼らしい奴だこいつは)
ちっ、と心の内だけで舌を打つ。
態度にこそ出さないが、マビノはユーディアの直情型の思考に辟易としていた。
只人――つまり純粋な人間種と瓜二つというのは、何も見てくれだけのことではない。今の彼女たちは他者から人間に見えるようにと擬態している状態なのだ。足運びから気配にまで気を配って、単なる姉妹として人々の目に映るようにと努力している最中。……だというのに、それをあっさりと見破られてしまったのである。
自分たちに反応を示した連中の闘気はすさまじいものだった。まだ疑惑でしかななかっただろうに――吸血鬼だとバレていたならおそらく即戦闘になっていたはずだ――それでもあの一瞬、背中に叩きつけられた戦意というものは尋常なそれではなかった。
察知能力も戦闘力も、間違っても「人間ごとき」と切って捨てられるような奴らではない。
実際に戦っての勝ち負けがどうなるかはともかく追われたら確実に面倒なことになっていたのは疑いようもない。
人を見下す不遜なる態度は吸血鬼が持つべきものとして相応しくはあるが、それも最低限時と場合を選ぶくらいのことはしてほしい……などという本音をぶつけることは今の立場上できず。
マビノは誤魔化すように質問を返した。
「でもお姉ちゃんだって、見つかりたくはなかったでしょ?」
「まあ、そうね。ここでどうでもいい連中に絡まれるのなんて勘弁してほしいわね――だって、今の私の目的はたったひとつなんだもの」
彼女の言う目的とは即ち、イクア・マイネス。
傲岸なる吸血鬼ユーディア・トマルリリーが唯一特別視する人間の名である。
特別視というのは勿論いい意味ではなく、その反対。
ただの人間に対して抱くべきとは思えぬほどの深き怨嗟がその者へと向けられている――復讐心。
エルトナーゼを発って以来、ユーディアは愛する姉の死の原因を作ったイクアという小娘を自らの手で凄惨に縊り殺してやるべく流離い続けているのだ。
その旅路の途中で拾った、自身と同じく吸血鬼のマビノという少女を連れて、こうして亜人都市クトコステンにまでやってきた。それが昨日までの彼女たちの足跡である。
「それにしても意外だったわマビノ。あんた、てんで力はなまっちょろいくせに、『影渡り』なんていう難しい術を使えるんですもの」
「う、うん。私は弱いから、逃げるためのものは頑張って覚えたの」
という設定だ。
マビノは訳あって全盛期とは程遠い状態にまで力を落としてしまっている。しかし破壊力や魔力量は著しく衰えていても身についた技術までが失われたわけではない。今の姿でも『影渡り』や『血潜り』といった始祖の血を引く者のみが覚えるかなりの高等術も使おうと思えば使える――とはいえ相当な負担になりはするのだが、それで亜人種以外の来訪には厳しい目を向けるクトコステンの検問をスルーできたのだと思えば安いものだ。
だがそれも、本当にこの街にユーディアの追い求める相手がいるのであればの話だが。
そうでなければマビノの苦労も水の泡、というより単なる骨折り損になってしまう。
「間違いなくここにいるわ。あいつは行く先々で自分の名前も容姿もまったく隠そうとしていないんだから、一度痕跡を見つけたら追うことは難しくなかった。特徴的な三人組がリブレライトからクトコステンを目指す計画を大声で話し合っていたのを聞いたっていう確かな情報があるんだからもう確定よ――奴はきっとまた何かを企んでいる。この街でもエルトナーゼの時みたいに、何かしらの事件を起こそうとしているのよ。……ほら、姉様だってこう言っているんだから、やっぱり間違いないんだわ」
またしてもマビノには見えない姉様との会話が始まった。こうなると他にも見えないナインとやらも出てきて彼女は一人きりでも非常に騒がしくなってしまうので、急いでマビノはその会話を遮った。
「けどさ! エルトナーゼでは事件が起こった頃にはもう、イクア・マイネスは街を出ていたんだよね?」
ならば今回も、何かが始まる時には肝心のイクアが現場にいないという可能性もある。ひょっとすればもう既に街を後にしているかもしれない。そういったマビノの理路の整った指摘に、けれどユーディアは理の欠片もない返事を寄越した。
「いえ、それはない。私の勘が言ってるのよ――奴は絶対、ここにいるってね」
「か――勘」
「ええ、勘よ」
「そう……、」
なんと言えばいいやらマビノは迷う。直感に自信を持っているのはマビノも同じだし、命を懸けた戦いの場において働く勘というものは自分のも敵のも決して馬鹿にできたものではないとも思うが――だが今は戦闘中ではなく、人探し中なのだ。探す根拠を勘に頼るのは些か無作法というか無作為というか……はっきり言って頼りない。
それも、『影渡り』すら習得できないほど吸血鬼としてはガキであるユーディアの勘だ。
いかに彼女の中に幼き吸血鬼とは思えぬほどの強大な『別の力』が渦巻いているとはいえユーディア本人はマビノからすれば単なる子供でしかない。そう思えばますます頼りがいなどないと感じてしまうというもので。
しかしここで正論を返すのは『か弱い吸血鬼マビノ』の態度としてはどうにも不自然だし、そもそもユーディアという我儘が服を着て歩いているような少女が聞く耳を持つこともないだろう。
イクア・マイネスを見つけられるにせよ見つけられないにせよ、取り合えずはこの街を彼女の気が済むまで探索するほかない。
「じゃあやっぱり気をつけないとね。イクアを見つける前に私たちの正体がバレたりしたら、大変だから」
「そうね。あっちこっちで品のない獣人どもが喧嘩ばかりしているようだから、下らない騒ぎなんかには巻き込まれないように注意しないといけないわね。ただでさえナインはそういうのに首を突っ込みたがるみたいだけど、そこは私が抑えるから安心しなさい」
「わ、わかった……」
さも当たり前のように存在しない同行者の話題を出すユーディアに寒気を覚えつつその後ろ姿についていくマビノ。
彼女たちは気配こそ人に似せてはいるが、それ以外に変装の類いは施していない。顔を隠さず晒しているというのはつまり、吸血鬼の美しさがそのまま露わになっているということでもある。
吸血鬼のそれは単なる造形美に留まらない魔性の色気だ。只人とは好む顔立ちというものがまるで違う獣人種の目すらも一瞬引くほどの色香を漂わせる彼女たちは、ただの人間として見られていることもあって余計に注目を集めてしまっている――が、それを嫌って変に顔を隠そうとすると、余計に周囲から怪しまれるようになるはずだ。
(獣人は視覚が頼りにならない場合、嗅覚その他で執拗に探ってくるからな。ただでさえ鼻が利くのに念入りに匂いを嗅がれたらどれだけ薄めても私たちの持つ『血の匂い』は隠し切れない。やはり顔を隠すのは得策ではない――同じ理由で、羽を生やして蝙蝠人を騙るという方法も、露見のしやすさとそうなった時のリスクから選ぶべきではない……結局外見は素のままでいるしかないということだな)
人目を気にしながらの人探し、というのはけっこうな労力のいる作業だ。
これまでの人里はまだ気楽だったが、ここクトコステンでは人を相手にする以上に注意しなければならないことが多い。
相方がいまいちそういった方面に疎い分、気を付ける役目はマビノが担当することになる。
(まったく、私は私でやらねばらないことがあるというのに、このままではそれもままならん。なるべく早くに復讐を遂げさせてやって、次は逆にこいつを私へ協力させ――、っ!)
不意に肩を跳ねさせ、足を止めたマビノ。その気配を察してユーディアが振り返れば、彼女は顔を俯かせてしまっているではないか。
「なに、どうかしたの?」
「う、ううん。なんでもない。こんなにたくさんの亜人を見たのは初めてだから……ちょっとくらくらしちゃって」
「気圧されたってわけ? それならいいけど……疲れたんなら正直に言いなさいよ。宿に戻って休憩したっていいんだから」
「ありがとう。でも、私なら大丈夫だよ」
「そう。だったら行くわよ」
中央帯を抜けようとするユーディア――それに追従するマビノ。
来た道を引き返すよりもすぐにここを抜ける、というのは彼女も大賛成である。
(くそっ、やはりおかしなところだこの街は――また見つかったぞ?! しかも今度は確実に私たちの正体に気付いていた……今のはそういう視線だった。そのうえで見逃されたんだ!)
見破られたことも、それでいてあっさり見逃されたことも、どちらも非常に気味が悪い。
吸血鬼ともあろうマビノがそんな風に思ってしまう程度にはクトコステンという都市は魔境である。
こちらの心境にはてんで気付かず――気付かれても困るのだが――見当外れの優しさを見せたユーディアとともに賑やかな通りを行きながらマビノは……今後しばらくは最近頻繁に生じるようになった胃痛がより深刻化するであろうことを覚悟するのだった。




