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290 女中イーファの憂鬱・上

「ん……」


 話をしていた最中、急にぶるりと震えた彼の姿を見て、少女は心配そうに声をかけた。


「大丈夫、マイス? 無理をして風邪でも引いていない?」


「いや、俺は風邪なんて引いてないよ――今少し、妙に冷たい風が吹いてちょっとだけ寒かったんだ。ただそれだけさ」


 どこかで誰かが水門でも使ったかな、とマズルという伸びた鼻先を指でこすりながら朗らかに笑うマイスに、少女ルリアもふんわりと微笑んだ。


「そうかもしれないわ。クトコステンでは毎日、喧騒が絶えないものね」


 と言った彼女だったが、不意にその表情に陰りが差した。


「……毎日どこかで誰かが傷付いている。それを思うと、私はとても胸が痛いわ」

「ああ。早くどうにかしないといけないよ。だから俺たちが、こうやって派閥の壁をなくそうって頑張ってるんじゃないか!」


 俯かないでくれ、とマイスは少女に言う。


「君の落ち込む顔は見たくないんだ。俺にとってはそれが一番つらい――だから、どうか任せてくれよ。副会長さんたちと一緒に革命会のほうはちゃんと動かすからさ!」


 その力強い宣言に、ルリアも伏した目を少年の顔へと戻した。


「ありがとう。マイスは言った通りに、革命会の中身を変えてくれた。私ももっとちゃんとしないといけないわね。弱音を吐いてしまってごめんなさい」

「いいさ。それにルリアだって市政会を導く立場なんだから、十分にちゃんとやれてるって。それは俺が保証する!」

「マイス……」

「ルリア」


 どちらも犬人の少年と少女は、互いを励ますように鼓舞し合う。その会話内容から察せられる通り、ルリアは市政会という保守派を取りまとめる代表組織の会長職についている。対するマイスはその対立組織として見られている改革派代表組織の革命会の会長を務める人物である。二人ともに十代後半というまだ若い――若すぎるくらいの年齢だが、ふたつの会は最近になって内部で大きな動きを見せて両会長の交代が演じられたばかりだ。つまり新任のトップ同士がこうして通じ合っているということになる。……ルリアとマイスは元から親しい友人であるのだが、それを知らない者が見ればとんだ一大事として映ることだろう。


 そのことを承知しているので、二人が語らいの場として利用しているのはルリアが私室として普段使いしている部屋の窓である。市政会館の裏側にあたるその窓部分はちょうど構造的に窪みになっていることと、背の高い木の枝葉が茂っていることもあって、そこに登れば窓から顔を出したルリアと目立たずに向かい合うことができるのだ。


 まるで逢引きの逢瀬を重ねるかのように二人は会長となって普段は離れ離れになって以降、こうして度々密会を行っている。互いの属する組織の動向を知らせ合ったり、今日のようにただ相手の体調を慮ったりと話す内容は毎回異なるが、毎度共通しているのはこの二人がとても仲睦まじい関係であり、それを互いの支えとしていることだ。元から友人、あるいはそれ以上の秘めたる感情を向け合っているルリアとマイスであるが、会えない時間がより愛情を育てるかのように見つめ合う時間は以前よりも長く、そして熱の入ったものとなっている。



「……はぁー」


 と、名を呼び合ったかと思えば今度は黙って視線を絡ませ合っている二人を見ていた『彼女』はとても重たいため息を吐いた。



 彼女の名はイーファ。市政会所属の犬人の少女である。ルリアより三つばかり年上のイーファは女中としてその世話係をしている。常日頃からルリアの傍についている彼女はこうして逢瀬の時間にも毎度の如く付き合わされているのだが、これもまた毎度の如く、すっかり二人の世界に入り込んでいるルリアとマイスはイーファという第三者が控えていることをまったく意識してくれない。


 ため息もつきたくなるというものだ。このような光景を……まるで有名な恋愛劇の舞台の一場面のようなシチュエーションで行われる本人たちにとっては自覚のない、甘い甘いやり取り。

 こんなものを繰り返し見させられている唯一の観客としてはその度に眩暈がしてくるような気持ちだった。


 だいたい、見られてはまずいと理解しているならこうも幼稚な真似をしている場合ではないだろう。いくら見られにくい場所を選んでいるとはいえ完璧に姿が隠れているわけではないし、マイスが市政会館の敷地内を出入りする際には当然見つかってしまう危険が毎度付き物となる。窓越しの対面を二人ともに気に入りでもしたのか、必ず会う場所をここだと定めているのもお粗末極まりない。というか会わずに通信ぐらいで済ませろ、というのがイーファの偽らざる本音なのだが――しかし彼女はそれを直接ルリアへ告げたりはしない。


「――ルリア様、そろそろ」

「うそ、もう時間がきてしまったの……? ごめんなさいマイス、私このあと会合があるの」

「おっとそうか。俺もリックさんを待たせてるんだった。もう行くとするよ」

「帰り道には気を付けてね」

「へへっ、心配いらないさ。俺の鼻があれば誰にも見つかりっこない。これまで一回もバレたりしてないだろ?」


 その返答にルリアは安心したように頷く。……イーファは頭痛が止まらない。一度でもこの密会が露呈すればその時点で二人の関係は終わりなのだ。ひょっとすればその政権ごと。事態は重大で、そしてこれまで見つかってないからといってこれからも絶対に見つからないという保証はどこにもないはずだ。だというのに二人は本気で「そんなことにはならない」と信じている。


 ――自分たちの輝かしい未来を信じて疑わない、若者らしいひた向きさで希望だけを見つめている。


「次に会うときには『交流儀』の計画もだいたい煮詰まってるだろうな」

「まだ大まかな日程しか決められていないものね」

「でも、いよいよ保守派も改革派も手を取り合える日が来る……交流儀さえ成功させれば絶対にそうなるはずだ。すごく楽しみだ! なあ、ルリア」

「ええ、マイス。私もとても楽しみよ」


 ルリアは自分も精一杯に腕を伸ばすことで差し出されたマイスの手を取り、互いにぎゅっと握り合う。


 長年実現されていなかった交流儀という市政会と革命会の共同主催で執り行われる祭典。二人はこれを成功させることを第一目標として日々その調整に努力しているところなのだ。


「…………」

 イーファの目が、細まる。


 街の確執を払拭しようと開催が目指される交流儀ではあるが……なかなか会うことのできない日々の中でいつの間にか二人はその原因を取っ払うこと――要するに所属する会の違いなど関係なしに、自分たちが会いたい時に会えるような状況を作ることも、多分にその目的の内へと含んでしまっているのではないか。


 とイーファはどうしても穿った物の見方をしてしまうが、それが悪いことかと言えば決してそんなことはない。



 この二人は恐ろしいまでに純真無垢なのだ。



 対抗心と嫌悪ばかりを向け合っていた先代会長たちが選挙で敗北したのは、まさにこの若人の純真さに負けたから。疲弊していた会員たちの心に清涼剤が如くしみた邪心のないルリアの情熱と実直さ。それは凝り固まった現に身動きを封じられていた大人たちを動かしてみせた。多くの者たちがこの夢見がちな少女の夢を本当のことにしてやろうと奮起したのだ。革命会のほうでも同じような流れで政権交代がなされたはずだ。……無論、それなりの根回しは行われていた。とある『協力者』の助力あってこその勝利ではあったものの、しかしその最大の要因がルリアの人間性にあったことは疑いようもない。


 汚れを知らず、人の良き可能性を無条件に信じる今時珍しいほどに世間ずれしていない二人の犬人は、だからこそその言葉で人の心を揺さぶるのだ。


 この子たちは綺麗なままでなければならないだろう――。


 そう冷静に分析しているイーファもまた、ルリアの純粋さに色んな意味で心を奪われた側の人間だ。


 世話係の任を勝ち取るためには大変な苦労をしたし、なってからの苦労はそれ以上だったが、彼女は決して後悔などしていない。むしろ大いにやりがいを感じているくらいだ。


 ルリアのことを想えば日々の疲れなどなんということはない。それくらいイーファはルリアのことを好いている――そう、この真っ白な心根の少女を独り占めしてしまいたい、などと大それたことをふと考えてしまうくらいには彼女のことを好いている。


 特にこうして、マイスが無自覚ながらにまるで「ルリアは自分の物だ」と誇示するかのように彼女の手を取ったりしている場面では、なおのことその欲求が強くなる。


 ちょっと昔から知り合っているくらいで調子に乗って――。

 と、そう思わずにはいられない。


 だが、悔しいことにマイスと一緒の時のルリアが一番美しい。会える喜び、声を聞ける嬉しさ、見つめ合う照れ臭さ、そして隠し切れない愛しさ――そういった諸々の感情を覗かせるルリアの表情には、ただでさえ可愛らしい彼女をより愛らしく見せる魔法が宿っている。それもこれも、互いしか目に入っていないような真っ直ぐすぎるルリアとマイスの関係性があってこそ。そこに他の者や恋の駆け引きのような()()()()()は一切混入していない。そんなものが入り込む余地などないのだ。


 ――清廉だからこそ二人は人を動かした。

 そのどうしようもない白日さに疲れ切った人々は惹かれたのだから。


 ぱたん、と窓が閉じられる。その音でイーファは我に返った。いつの間にかマイスの姿は消え、そこにはルリアただ一人だけがいた。少年は帰ってしまい、少女はそれを見送ったあとらしい。その間ずっと自分がぼうっとしていたことに気付いたイーファは自身のすべきことを思い出して、普段の彼女らしくもなく慌てた。


「さ、さあルリア様。参りましょうか」

「ええ。待たせてしまってごめんなさい」

「謝罪など不要です。決められた時間は守られておりますから」

「でもイーファが声をかけてくれなかったらきっと遅刻していたはずよ。いつもありがとう、あなたがいてくれて私は助かっているわ」

「……いえ」


 眩いばかりの笑顔で謝辞を述べるルリアは、やはり美しかった。

 イーファはその美しさをどうしてかまっすぐ見返すことができず、目礼によって応じる素振りで床に視線を落とすことでやり過ごす。


 なぜか、酷く惨めな思いがした。


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