287 飛べよ【風刎】
「そら、そこにいられちゃ邪魔だ邪魔だ! こっからは俺っちに任せてあんたらはとっとと退場しときな!」
そう言ってゼネトンが大きな両翼をはためかせれば、そこに突風が生じた。
渦を巻くように吹き荒れた風は転がっている男たちを問答無用で吹き飛ばし、怖いもの見たさで周囲に固まっていた衆目たちをも強引に遠くへ押しやった。あまりに乱暴などかし方である。ひょっとすると風に飛ばされたことで怪我をした者もいるかもしれないが、そんなのはゼネトンにとって関係のないことだ。これから起こる事態に巻き込まれたほうが遥かに酷いことになるのだから、それくらいは許容してもらわねばならない。
翼を止めたゼネトン。彼はジーナとは違い、背中から翼を生やした今の姿こそを常態としている。目立つ嘴や手先の鳥の足めいた形といい、かなり鳥人としての特徴が強いことがわかる。「部位の見た目が鳥元来のそれに近ければ近いほど強い」という彼らの性質からすればゼネトンとはつまり、最高の素質を持っている生まれながらの天才ということになるだろう。
しかしてそんな彼が、陽気な口調とは裏腹に油断も隙もなく見据える相手がいる。
それこそが竜人ガスパウロ・ドウロレン。
巌のような巨体を筋肉で覆った、正真正銘の人の形をした化け物である。
「さあて【崩山】のじっちゃん、聞かせてもらいてーな。弱い者いじめなんてとてもしそうにもねーあんたがここ最近、問題を起こした連中を執拗に痛めつけてんのにはいったいどういう訳があるんだい?」
自らを自由人と称すゼネトン。彼は他の神逸六境と同じく、いやそれ以上に自由な身として都市を好き勝手に動き回っては、目に付いたあれやこれへと首を突っ込んでは引っ掻きまわしているひどく迷惑な男だ。
とはいえ、彼が手を出すのは決まって面倒事の悪化を防ぐためである。実際、たとえ幾分かややこしい結末になったとしても死傷者の数そのものは彼のおかげで減っていることも疑いようのない事実である。奔放なようでいてゼネトンは意外と空気というものに敏感な男で、そんな彼だからこそ自分以外の神逸六境の動向についても常にある程度把握してもいる。
目の前の【崩山】は義憤ではなく自分の信条、あるいは心情でのみ動くタイプの如何にもな強者。
スタンスは違えどやっていることはゼネトンと同じようなものだったはずが、いつからか彼はあえてやり過ぎることを選ぶようになった。
それは何故かととても気軽そうに、されど瞳の奥に真剣な光を灯しながら問いかける鳥人へ、竜人は「知れたことだ」と返す。
「嫌気も差そう。どれだけ目に付いた輩を諫めても明日には――否、次の瞬間にはまた同じことが起こるのだ。痛みなくして人は学ばぬと、俺こそが痛感させられた」
「だから死人を出してでも見せしめにするってかい?」
その通りだ、と頷くガスパウロにゼネトンは呆れたように言った。
「だったらそもそも手を出さないって選択肢はねーの? 言っても聞かない連中に気分を悪くするなら何も言わなきゃいい。どうせじっちゃんはこの街の事情なんざ大して気にかけてねーんだろ?」
「……俺が我慢する必要があるのか?」
「ははっ!」
ガスパウロらしい返答に思わず素で笑ってしまいながらも、ゼネトンは「まず俺っちが気になんのはだ」と話を進める。
「人々の事情には興味がなく、注意すんのも面倒に感じてる。なのに手を出すことをやめねーってのは……明らか矛盾だぜ? 前々から妙だとは思ってたが最近のあんたは余計におかしい――まさか、だ。どっちかからそういうことを頼まれてる、なんてことはねーだろうなじっちゃん?」
「愚問だな。俺は他人の指図なぞ受けん」
「……ま、そーだよなぁ。あんたはそういう男じゃない。悪ぃな、変なこと聞いてよ」
けらけらと笑いながら謝罪するゼネトンに、今度はガスパウロのほうが厳しい目を向けた。
「お前のほうこそどうなんだ、【風刎】」
「あぁん、なにがだ?」
「俺の前に立ちはだかるその行為。お前こそ、保守派か改革派のどちらかに金でも積まれたんじゃないのか?」
「ははは! それこそまさかだぜじっちゃん! 俺っちがどこぞの下につくなんてありえるわきゃねーだろ?! 金だろうが女だろうが、誰であろうと俺っちを都合よく動かすことなんてできねーのさ」
「ならば言ってみろ、俺の邪魔をするその理由を」
「んなの簡単、見過ごせねーからだよ。【崩山】には【崩山】流儀があるように、【風刎】にも【風刎】としての流儀がある。今のあんたは俺っちの目に余りまくんだよ、じっちゃん」
「生意気を。まさかお前――先の一撃を止めた程度で思い上がってはいまいな?」
ずん、と【崩山】の肉体から発せられるプレッシャーが増す。
それはチンピラ如きを相手にしていた時とはまるで違う、本域の圧だ。
これでもまだガスパウロは本気と程遠い状態にあることをゼネトンも分かっている――が、それにしたってこの圧力はとんでもない。びりびりと肌を震わすような空気の振動を感じながら、かいた冷や汗を隠すように【風刎】は翼を広げた。
「いいぜぇじっちゃん。俺っちがあんたのストレス発散に付き合ってやるよ。すっきりしたなら、もう少し他人にも優しくしてやりな!」
「お前は人よりもまず自分を心配すべきだな……ふんっ!!」
巨体から繰り出される拳はそのスケール感からは信じられないような速度でゼネトンに迫る。しかし彼はそれを余裕を持って回避した。真っ直ぐ打ち込まれることはご丁寧にも構えからガスパウロ自身が教えてくれていたのだ。先制を取られようとこれを躱せぬゼネトンではない。
ところが――
「うぉっ!? ひ、引きこまれ――っ?」
拳圧だけで地面に亀裂を生じさせるその強力無比な打撃は、周囲の空間すらもその圧で捻れさせてしまう。文字通りに飛び乗ったはずの風が巻き込まれたことで半端に宙に浮いた状態のままで拳へ吸い寄せられたゼネトンは、ガスパウロの反対の腕が既に殴りつけるモーションに入っていることに気付いて「やっべ」と慌て、急ぎ対処する。
「風門・疾無!」
しん、と風がやむ。
拳が降ってくるまでの一瞬の間――そんな刹那がまるで時間が止まったかのように固まった最中を、ゼネトンだけが俊敏に動いた。異様なまでの加速でガスパウロの巨体を越えて飛び上がった彼は、ふうと一安心の息を吐く。下にいるガスパウロは見事手の内から逃げ出した鳥人を見上げ、目を細めて言った。
「随分と器用なことだ」
「へへっ、お褒めに預かり光栄だね。俺っちは飛ぶことに関しちゃ誰にも負けねーのさ」
『疾無』とは風属性ながらにまず自分の周囲の風を消失させることから始まる高等術である。風を無くすとは即ち空気を無くすこと。時を止めるにも近しい無風空間を作り上げたのちに自らの思う通りに空気の通り道を描く。それに乗ったゼネトンは自前の飛行速度と合わさって突風すら置いてけぼりにするような速さで飛ぶことができる。その真価は超高速ながら好きに小回りを利かせられる点にこそあるのだが――その小細工もガスパウロを前にしてはさほど誇れたものではない。
(やーれやれ、そっちは軽く殴っただけで乱気流を発生させたようなもんじゃないか――やっぱ【崩山】のじっちゃんはとんでもねー……力強い、なんてもんじゃあねえ)
山を崩す。
その巨体や埒外の腕力のに相応しい【崩山】の二つ名。
誰が名付け親かは知らないが実にぴったりだとゼネトンはそのネーミングセンスに何度目かの感心をし――そして、負けじとこちらも【風刎】の二つ名に相応しいだけのことをしてやろうではないかとほくそ笑んだ。
「見たことはねーけどよ、鳥人みてーに竜人も空を飛べるって聞いたぜ!? どうだいじっちゃん、ここらで俺っちといっちょ競争してみるか?」
「遠慮しておこう。お前と違ってちょろちょろと飛び回る趣味はないんでな」
飛ぶことへ並々ならぬ自信を抱いているゼネトンへ暗に挑発を送りつつすげなく断ったガスパウロは、言葉の通りにどっしりと待ち構える姿勢に入った。
それを見て「言ってくれんじゃん」とわざと挑発に乗ってやることに決めたゼネトンは見せつけるように魔力を練り、周囲一帯から根こそぎ風をかき集め始めた。
「!」
「本当にちょろちょろかどうか、その身で確かめてみな!」
豪風を纏い、轟風を広げ、剛風を叩きつける。周辺被害が凄まじい勢いで発生しているが、しかしその程度はあくまでも余波の範囲に過ぎない――本命はたっぷりと風を引き寄せたゼネトン本体の次の動きにこそあるのだから。
「風門――!」
「そこまでです!!」
「――あ、あら?」
今まさに全霊の一撃が放たれよう、としたその瞬間に【崩山】と【風刎】の間へ割って入る影。
翼持つ少女、ジーナ・スメタナが決死の表情で強者二人を止めんと双方へ手の平を向けた。
「【崩山】ガスパウロ・ドウロレンに【風刎】ゼネトン・ジン! これ以上戦闘行為を続けるようならあなたたちは捕縛対象となる! 矛を収めて大人しく立ち去りなさい!」
「あー……ジーナちゃんがそう言ってるけどよ。じっちゃんが続けるってんなら俺っちは受けて立つぜ。どーするよ?」
「ふん……下らんな。俺をどうこうすることもできん小娘になんぞ、文句をつけるのも馬鹿らしい」
そう吐き捨てたガスパウロは二人に背を向けた。それきり振り返ることなくのしのしと歩き去っていく【崩山】の巨体を見送り――ふぅと安堵したジーナは、残っている【風刎】へとジト目を向けた。
「あなたもですよ。この場から即刻立ち去ってください」
「んだよ、つれねーなジーナっち。俺っちは君の師匠だろー?」
「私はもう治安維持局の職員で、あなたはただのならず者だ。ジーナちゃんなどと軽々しく呼ばないでいただけますか」
「あらら、ホントにつれないなぁ。でもいいのか? 事情聴取とかそういうの、あるんじゃねーの?」
「そんなものは他の人たちから済ませます。あなたを連行するならするで、しないならしないで別の問題があるんですから、今は早くどこかへ行ってください」
「あーはいはい、邪魔者は大人しく消えますよっと。んじゃまたなジーナっち。気が向いたらまた稽古つけてやっからさ!」
やめろと言っているのにどこ吹く風で軽口を残し、あっという間に見えなくなるゼネトンの姿。軽く流しただけの飛び方でここまでの速度。やはりその背中はまだまだ遠いとジーナは改めて思い知らされる。しかし、昔より確実に近づいてもいる。
「いつか追いついてみせるとも……絶対に」
果たしてその誓いは本当にゼネトンに向けられたものであったかどうか――。




