280 【雷撃】と呼ばれる少女
5章いくぞー!
クトコステン東部保守区域の歓楽街、その一角に『クック・オブ・ドギー』というレストランがある。犬人の夫婦が二人三脚で経営するその店は、料理の味と彼らの人柄の良さから評判を集めていた。ランチ時もディナー時も和やかなムードに包まれる近隣住民にとっての憩いの場。しかしてそんな人気店の雰囲気が、この日はいつもと違っているようだった。
店の中から不意に聞こえる大きな声。それが怒鳴り声になって、やがて叫ぶような声が響いたかと思えば――店から叩き出される店主。店頭のガラスを破って痛ましく道路へ転がった彼の下へ、のしのしと出てきた誰かが近づいていく。
普通の人間と比べれば大柄であるはず犬人の店主ですらも小さく見えるほどに太く逞しい体つきをしたその男は、猪人であった。短くも鋭い牙を口元から生やし、低い鼻をフゴフゴと動かしながら彼は嘲るような口調で店主へ言った。
「おらぁ! いつまでも寝てんじゃねえ、起きやがれ!」
「あ、あんたぁ!」
「お、お前は来るな――うぐっ!」
悲壮な顔で店から出てきた妻を制止した店主は、その首元を掴まれて強引に持ち上げられた。
「カッコつけてんじゃねえぞヘボ店主――この俺にクソ不味いメシを食わせやがった責任をどう取ってくれんだ!? ん!?」
「く、口に合わなかったのなら謝る……だからこんなことは、」
「馬鹿言っちゃいけねえな、謝られたって俺の腹の虫は収まらねえんだよ! 分かってんだぜぇ? てめえ、俺が改革派の大物ジェス・コーマン様だと知ってわざと不味いメシを出しやがったな!?」
荒くれ者のジェス・コーマン。
彼が大物であるかどうかはさておいて、改革派に所属する獣人であることは事実だ。だからこそ彼はこうやって、保守派の住む地域にわざわざやってきては進んで揉め事を引き起こす活動に日々明け暮れているのだ。
料理が不味かったなどというのは真っ赤な嘘で、彼は注文した品をろくに食べることすらしていない。当然店主がわざと料理の味を落としたなどというのも完全なる言いがかりであった。
真実はどうあれ、ジェスにとっては騒ぎさえ起こせればそれでいいのだ。その現場となるのが保守派住民にとって親しみある場であればあるほど尚のこといい。
「改革派の俺が店に来たのがそんなに気に食わなかったか! だからって不味いもんを食わせるなんていうみみっちい嫌がらせをするなんざ、保守派の性根ってのはやっぱ腐ってやがるな!」
「――そんなことは、しない……!」
「なにぃ?」
「誰であろうと、立場がどうだろうと……うちに来てくれたなら、全員が大切なお客様だ……! 料理人の誇りにかけて、俺は客を満足させる……それが信条! あんたが今言ったのは俺たち料理人に対するひどい侮辱だ――許せない!」
「はっ! 許せないだぁ? 今の自分の恰好を見て言いやがれ……許してもらえねえのは他でもないてめえのほうなんだぜ!」
店先でここまで騒げば近隣の者たちもそれを聞きつけて集まってくる。
今やジェスと店主は大勢の注目を集めていたが、どうにかしようと動き出す者はいなかった。
それもそのはず、ジェスは過去に何度もこの区域で乱闘を起こしている。彼とその部下数名が好き放題に振る舞うたび、言うまでもなく戦闘気質揃いの獣人たちは彼らへ食って掛かり――そしてあえなく返り討ちにあったのだ。
今やここいらで腕の覚えがある者は全員一度はジェスにこてんぱんにのされた経験があるくらいだ。
敵わないと身に染みて知ってしまった彼らは故に、迂闊に店主の救出へ動くことができずにいた。しかしジェスの彼を掴む腕、その筋肉へ徐々に力が加わっていくのを見てしまえば怖じ気づいてもいられない。
「おい、誰か奴に『決闘』を申し込む奴は!」
「ダメだ、もうあいつに勝てそうなのは俺らの中に残っちゃいねえ!」
「くそっ、こうなったら卑怯だがこの場にいる全員で襲いかかろう! これだけ人数がいれば奴もどうにもならんだろう……!」
と言ったはいいが勝算のほうははっきり言ってほぼない。それだけジェスの強さには飛びぬけたものがあった。特に奴の十八番である猛スピードの突進技を食らって無傷で済んだ者は未だかつていないのだ。多人数で一斉にかかったところで勝てるとは限らず、むしろ端から吹っ飛ばされて終わる可能性のほうが高いくらいだ。
「やめてよ、ジェスの凶悪な顔を見て! そんなことしたら今度こそ死人が出るわよ……!」
「そうだ、無茶はやめて今は早く治安維持局を呼ぼうっ」
「だけどそんなの待ってたら、ドギーの店主が殺されちまうぞ!?」
「ああ、こんな時に『あの人たち』がいてくれたら――」
「そこまでにゃ!」
高らかに響いたその声は、建物の屋根の上から聞こえてきた。
場の全員が揃ってそちらへと顔を向ければ――一様にその表情が明るいものへと変わる。
そこにいたのはピコピコと動く可愛らしい耳とヒゲ、尻尾が特徴である猫人の少女。全員を見下ろす位置から「とう!」と飛び降りて路上へ軽やかな着地をしてみせた彼女は、そのしなやかな肢体をぐっと伸ばして、それからびしっとジェス・コーマンを指差した。
「私が来たからには観念するにゃ、荒くれ者ジェス・コーマン! その人をはにゃして神妙におにゃわにつくにゃ!」
彼女の啖呵に周囲はわっと盛り上がる。
「カマルちゃんだ!」
「あの子が来てくれた、もう安心だわ!」
待ち侘びたジェス・コーマンを撃退し得る強者の登場に人々が華やぐ中、当のジェスもまたにやりと嬉しそうに分厚い唇を曲げた。
「来やがったなぁ……! 【雷撃】ぃ……!」
少女カマルの二つ名、【雷撃】。
クトコステンにおいて二つ名というのはかなり特殊なものである。名が売れており、聞こえのいい呼び名が考案されれば一気にその呼称が広まる人間たちの社会とは違って、獣人の名付けるそれは特に『強き者』へ送られる名誉ある称号のようなもの。個人の強さというものへ特段重きを置く獣人たちから満場一致で強者として認定されることがどれほど難しいことかは、別種族たちでもなんとなくその理解が及ぶところだろう。
そしてそんな偉業を、このまだ十代半ばというような若き猫人の少女が成し遂げているというのだから驚きだ。
「ジェス! 私は前に言ったはずにゃ――『次はもうにゃいぞ』って! にゃのにまたこんにゃ悪さをするにゃんて、いったいお前はにゃにを考えてるにゃ?」
「にゃあにゃあうるせえ! 部下たちをのしたくらいで俺に勝ったつもりになるんじゃねえぞ! あの時は俺が直々に潰してやろうとした途端にてめえが逃げ出したんだろうが……! 俺は負けてねえ、なのにまるで俺のほうがてめえから逃げ出したみたいに語る奴らまで出てくる始末だ……絶対に許さねえ! この落とし前はきっちりつけさせてもらうぜ小娘!」
何やらカマルと因縁があるらしく、極度にいきり立つジェスはもはや店主などどうでもいいとばかりに放り投げた。彼の目にはもうカマルしか映っていないようだった。
「ぐ――げほっ、がほっ!」
「あ、あんた! 大丈夫かい!?」
「おかみさんたち、こっちへ来い! ここじゃ巻き込まれるぞ!」
周囲の数名が店主へ肩を貸すようにして避難する。それを見送ったカマルは、闘志と怒りで顔を真っ赤にさせている猪人へ視線を戻し、「ふう」とため息を零した。
「この前お前を見逃したのは、部下が盾ににゃってでもお前を庇おうとしたからにゃ。その心意気に免じて注意だけで済ませたのに……それがわからにゃいのにゃら、お前は本当のお馬鹿さんだにゃ」
「黙れぇ! 粋がってんじゃねえぞ、劣等種の猫人風情が!」
数の多い虎人や豹人などと大まかな特徴を同じとしながら肉体的な強さで劣りがちな猫人は国内では減少傾向にあり、近年その数を減らしている。カマルも今となっては貴重な適齢期前の雌である――その最大の要因はやはり弱さだろう。安定して数を増やす近縁種たちに押されるように少子化と晩婚化という文明社会化の宿命とも言える波にのまれ、猫人は種族的衰退の一途を辿ってしまっている……それを指して「劣等種」と詰ったジェスであるが、その思い付きの暴言は猫人少女の逆鱗に触れるには十分だった。
すっと表情を消し、目つきだけを鋭くさせたカマルは――先より幾分か低い声で警告するように言った。
「お前は今、言ってはにゃらんことを言ったにゃ。獣人相手に種族を貶すというのがどういうことか、いくらお馬鹿にゃお前でも分かっているはずにゃ……?」
「当たり前だ、だから事実を言ってやったんじゃねえか――認めろ、薄汚ねえ猫人! 自分の種族がなんの価値もねえゴミみたいな劣等一族だってことをな!」
「にゃら死ね」
いつも調子のいいカマルが目に見えて激高している。それに気分を良くしたジェスはますます意気込んで猫人全体を貶めることで悦に浸り――そしてすぐ、その顔が驚愕に染まった。
消えたのだ。
視界からカマルの憎き姿が消え去った。
悪人ではあっても戦士としての腕も確かであるジェスだ。
何が起きたかわからない、などということはなく――カマルが己が目にも追えぬほどの速度で動いているのだと瞬時に理解し、だからこそ彼はここまで驚かされた。
敵の動きに動体視力が追いつかない、というのは言うまでもなく戦闘では致命的だ。見えず追いつけもしない相手に勝てるはずもない。つまり自分とカマルとにはそれだけ絶対的な力量差があるということ。部下が倒されはしても自分であれば十分カマルを倒せる、猫人にしては多少の実力はあるようだが所詮は小娘、負ける道理などない――と。
本気でそう考えていたジェスは、この事態を受けて一気に顔色を悪くさせて呻いた。
「ば、バカなっ! こんなことがあるわけ――」
「だから、馬鹿はお前だって言ってるにゃ」
「っ!」
背後から聞こえた少女の声。いつ後ろに回られたのかすらもさっぱりわからぬままにジェスが振り向こうと急いだが、いくらなんでも対処が遅すぎた。
彼からすれば大急ぎでもカマルにとっては欠伸が出るほど緩慢な動きだ――鈍いにもほどがある。
よって彼女は、その準備に悠々と時間を割けた。
魔力を練り上げ、腕へ集約させる。
そうやって放つのは、自身の二つ名の由来ともなったカマル独自の技。
『雷門・雷掌』をベースに放つ、更に雷撃を強力に仕上げた術の名はそのまま――
「――『雷撃』!」
「ぐぅえあああぁぁぁぁっ!!」
ガードがまるで間に合わず、強烈な一撃をまともに浴びた荒くれ者ジェス・コーマンはこれまでに出したこともないような壮絶な絶叫を上げ、あえなくその意識を手放した。
小娘と侮った相手にたったの一発で敗北する。
この事実はきっと、彼の男としての、そして戦士としての矜持をズタズタにすることだろう。
「みんにゃー! ブイにゃ!」
息巻いていたのが嘘のように呆気なく伸びたジェスの横に立ち、ピースサインを見せて明るくアピールするカマル。
「うおぉぉ! さすがは【雷撃】だぁ!」
「よくやってくれたわ、カマルちゃん!」
「スカッとしたぜ!」
そんな彼女に周りの獣人たちはこぞって賞賛を贈ったのだった。




