279 永久に閉ざされる遺跡
崩れ始めた遺跡はすぐにも形を失い、まるで魔法が解けたように全体が脆くも沈み行く。
瓦礫というよりも砂粒のように流れていく大空間の内部へ山肌から滑り落ちてきた土砂までもが目に付くようになった頃に、ボロボロの出で立ちになった少女と少女はどちらも共に笑みを浮かべながら空中で向かい合っていた。
ふうー、と息を吐きながら腰に手を当てたナインは猿人の戦士へと語りかける。
「どうだい、クシャ。俺はあんたのご期待に沿えたかな?」
揶揄い混じりのその問いに、クシャは「ああ」と深く頷いた。
「まさに期待通りの戦いを演じてくれたこと、心から感謝しよう。いやしかし」
ふうむ、と彼女は顎に指を添わせて噛みしめるような口調で続ける。
「ここまで純に楽しめるとは思ってもいなかった。そういう意味でも己は手前に感謝せねば」
「はは、いーよ別に。楽しめたのはこっちも同じさ。嫌々付き合ったってわけじゃない――いや、初めは仕方なくだったんだけどな。でも途中からはすごく楽しかった。それに、色々と勉強にもなったから」
「学びの糧になったというなら善哉、こちらも新たに得るものがあった。互いの修練としてこれ以上の機会はなかったことだろう。ならば己は、その点だけはこの忌まわしき場所にも感謝せねばならないんだろうなあ……はっは! 人生万事塞翁が馬。目論見通り遺跡は崩れ、己たちは出会い、戦い、そして自由を得た。思うに最善絶佳の結果となれたのだから、ここで過ぎた五年も決して無為な時間ではなかったということだ」
「うーん、そうなのか……? クシャなら一人でもやり方次第で出られた気がするけどな」
「まあな。ただ脱出は叶っても遺跡自体を閉ざすことができん。それでは意味がなかったからな。楔石代わりに居座ったのもこの悪趣味な死の遊技場を永久に封印するためなのだから、己が先に音を上げて逃げ去ることなどあってはならない――それではクシャ・コウカの名が廃る」
「おお……」
なんとも格好いいセリフだ。
自分もこんな風になれたらいいと思える、とても強者らしいセリフ。
ナインの名が廃る――などと照れも臆面もなく言えるようになれば、どれだけ誇らしくあれるだろうか。
憧れてやまぬそんな感性を所持するクシャに、ナインは何度目かの感心と感嘆を抱かされる。
「なあ。こんな言い方はちょいと誤解を招くかもしれねーが……あんた、本当に『人』なのか?」
「んん? なんだその質問は。まさか手前には己が妖怪変化の類いか、はたまた単なる畜生にでも見えたか――なんてな。慌てるな慌てるな。問いの真意くらい理解しているとも。しかしだな、ナイン」
ひょいと軽い調子で肩をすくめてクシャは続ける。
「人ならざるかどうかなど所詮は心意気次第。どれだけ人道にそぐわぬ行いや所業偉業を重ねようと本人が人だと言い張るならそれは人間なのだろう。魔に堕つか神と兼ねるか……現人神などと名乗るみょうちきりんも己は何度か見てきたが、本当の意味で神なる者と出会ったことは未だかつてない。神血の後継や半神といった存在は己たちの生きる世界では決して珍しいものじゃなく、人ならざる身が人ならざる力を持つことは当然のことでもある――が、だからといって神のように人の頭上に居座らんとすることが善きことかと言われれば、己にはそうは思えんな」
崩落が進み、やがて陽の光が地下深くの大空間――その残骸となりかけているこの場にまで届き始める。文字には起こせないような多種多様な異音が四方八方から響く中、共に超人的な聴力を持つナインとクシャには誰かを呼ぶような人の声が聞こえてきていた。それはきっと、遺跡の瓦解に気付き慌てて主を探そうとする従者たちの声。
「神は営みを介さず、また解さない。非常に強大で、尊大で、そして窮屈な者たちだ。君臨する以外何も為せず、のこのこと地上を去った敗者になど誰がなりたがるものか。既に地上は己ら人の世よ。繋がり、交わり、継いでいく。時と同じく、移ろう命にこそ意味がある。確かに己は人の営みの範疇から些か外れた存在なのかもしれん……しかしそれも広い目で見れば、大いなる人道輪廻の輪の中だ。智で求め仁を抱き武に生き勇と死ぬ。己の志すはどこまで行っても人の目指す高みにこそある――『人』だからこそ叶えられる夢にある。それはたぶん、手前もそうなんだろう? ナイン」
「……!」
何故そこまで見透かせるのか。人ならざる身になっていようことを薄々察しながらもあくまで人たらんとする自分の拘りというものを、出会ったばかりの彼女がなぜ――。
と、そう声に出して訊ねかけたナインだが思い留まった。
自分にだって覚えはあるのだ。拳を交わした者同士、百の語らいよりも通じ合う部分が必ずどこかにある。それでナインはクシャという人物に根差す悲しみと、それでも喜びとともにあらんとする強き意志を知った。
ならば同じようにクシャのほうもナインという少女、その根幹にあるものを本人から言葉で聞かされるよりもよほど深く知れたことだろう――だからこそ彼女は、こうして自身の経験と信念に基づく教訓を語って聞かせているのだ。
「人のまま強くなれ、ナイン。あるがままの自分で、ありのままの姿で生きろ。変に取り繕う必要なんぞどこにもない。そんなことをすればいずれ破綻してしまうだろうよ。辛さを知らねば人は強くも優しくもなれない――そこが人のいいところだ。初めから超越者として完成されている神やそれに類するような『嘆き知らず』とはわけが違う。弱く脆く、ちっぽけで。だからこそ美しい大志を宿せる人間にこそ本当の輝きというものが生まれる。そうは思わないか?」
「ああ、わかるよ。俺はこれまでに、その輝きを持つ人を何人も見てきた――クシャ。あんたの中にもだ。眩しくて、輝かしくて、触れたくなって手を伸ばしても……でも、俺にはまだまだ届かない、すごく遠くにあるものだ。俺はそれが欲しい。胸を張って本物の強者だと名乗れるだけの、そんな強さが」
「手前は強いとも、ナイン。危うさはあれど性根は奇妙なまでに人間的で、歪みがない。手前ほどの慮外の力を有しながらその尋常さは物珍しい――それは紛れもなく手前の捨てざるべき長所だ。そのままで進め、どこまでも。手前の行き着く先にはきっと己が目指すのとは別の地平が望めるはずだろうからな!」
くるりと後方へ宙返り。
出会った際の名乗りを思い出す動きでナインから距離を取ったクシャは、朗々と言葉を紡いだ。
「それではこれにてご免! ナインよ、クシャ・コウカと互角に与する『王』に相応しき少女よ! 常々努々忘れるな、今日という出会いと別れの日を、己という一人の友の存在を! 助けが欲しくば天へ高らかに我が名を叫べ。たとえ遥か万里の先へいようとも手前の声を聞きつけ飛んで行こうではないか! なに、その対価には――一飯奢ってくれたらそれで十分だとも! さらば!」
今や完全に元の姿を失った遺跡。振り落ちる土の合間を縫うように軽やかに飛んでいったクシャを、ナインは黙って見送った。
去り際まで騒がしく、それでいて晴れやかな奴だった――清らかな風のような奴だった。
まるで泡沫の夢を見ていたような気分になったナインの下へ、クシャと入れ替わるように少女たちがやってくる。翼で飛ぶクータ。水泡に乗るジャラザ。スラスターを駆動させて浮かぶクレイドール。寄ってきた彼女たちのうち、質問のため最初に口を開いたのはやはりジャラザであった。
「主様よ。何事もなく、とはいかんかったようだがとまれ無事に脱出は果たせたようで何よりだ。……それで、今し方飛んでいったのは何者だ?」
「あいつはクシャ・コウカ。俺のひとつ前の武闘王だとよ」
端的に答えたナインに、続いてクレイドールが主人のボロボロになった格好を見て口を開いた。
「見たところ獣人の少女のようでしたが、戦闘になったのですか」
「なった。残念ながら勝てはしなかったけどな」
嘆息しながら己が敗北したように語る少女へ、驚いた様子でクータが身を寄せた。
「で、でもご主人様は元気だよね? 引き分けだったってこと?」
「まあ、そうなるか」
「では『勝てなかった』という言い方では語弊があるだろう。主様と引き分ける強者がこんなところで言葉通りに埋もれていたのはまさに驚天動地だが――」
「クシャは五年ぐらい絶食状態だったんだぜ。そんな最悪のコンディションで引き分けられたんだから実質、俺の負けみたいなもんさ」
「「「…………」」」
そう言われては、もはやクータたちも何も言い返せなかった。
五年以上幽閉され続ける。飲まず食わずで数年も生きていること自体が異常だが、そうであっても心身共に万全とは程遠い状態に陥っているはずが、そんなことを微塵も感じさせない態度でナインと相対し、そして激しい戦闘を繰り広げた。最後は遺跡のほうが先に壊れたことで――それこそがクシャとナインの目論見であったわけだが――結果として強制的なドローと相成ったが、お互いの勝負にあたっての条件の差を思えば、それは決して引き分けなどと称せるものではない。
片やひとつところに座り込んだまま絶食状態で数年を耐えた者と、来たばかりかつ試練のおかげで準備運動もばっちり済んでいたナイン。
戦うのに適していたのがどちらであるかなど言うまでもないだろう。
「まったく……つえー相手ってのはどこに転がってるかわからんもんだなあ」
「待て待て、余韻に浸る前に何があったのかを詳しく説明せんか。クシャ・コウカとはどんな奴だ? そもそも何故戦うことになったのだ?」
「私にも是非聞かせていただきたいですね」
「クータも!」
「あー……じゃあフェゴールに喋らせよう。こいつもぜんぶ見聞きしてただろうし」
『えー!? 面倒だからってボクに投げんなよっ、なんか通じ合ってるっぽかったお前たちと違ってこっちはあの猿人のことなんてよくわかんないよ!』
「そう言わず頼むよ。俺とお前の仲だろ?」
『いやどんな仲?! 急に親友面すんなよ、面の皮が厚すぎるよ!』
いつかどこかの誰かが作り上げた趣味の悪い遊戯場。そんなとうの昔に打ち捨てられ、それでも未だに死のゲームを黙々と続けていた謎の遺跡はようやくその役目を二人の強者によって強制的に終了させられて。
もはや跡形もなく土中へ沈んでいったそれに誰一人とて目を向けることもなく、少女たちは旅路に戻るために地上へと上がっていくのだった。
明日から新章に入りまっせー




