275 波乱万丈クシャ物語・黄
秘望郷から西へ進んだ果てには、ある伝説が祀られていた。
その正体は土清神クドタスの眷属神である岩神が創り出したという巨大な一枚岩。地に蓋するように設置されたそれは神であってもおいそれと持ち上げられないほどの神威によるただの重量とは異なった重みが込められた、言うなれば自然的というよりも超常的な大岩である。
こんなものが置かれた理由は、そこに蓋をしなければならない何かがいるからだ。
岩に押し込められているそれの名は獣性神アロータス。
水星神ディエプより滲んだ水禍の魔物ショウプスと限りなく似た「生ける泥沼の魔物」であった。
土清神の手ずから生み出された存在ではあるが、それは神と呼ぶにはあまりに知性が低く、されどただの魔物と呼ぶには強大に過ぎた。土地を飲み込みあらゆるものを沈めていく泥禍の魔物は親たるクドタスの命令すら解さずに好き放題暴れるだけの手の付けられない問題児となってしまい――それを見かねた岩神が自身の持つ『不断』の権能を行使し弟分とも言えるアロータスを泣く泣く封じ込めた。
ひと思いにその命を奪わなかったのは憐憫のためか、はたまた彼であっても殺しきれぬほどに魔物が育っていたからか。その真意はいずれにせよ、こうして神の一柱は別の一柱に封印され、そこにはでんと居座った大岩と語り継がれる伝説だけが残った……そして。
神ならぬ秘望郷の問題児クシャ・コウカに課された試練こそが、何を隠そうこのアロータスの封印を解き、単独で退治することであった。
無論、そんなことは絶対にできるわけがない。クシャがどれだけの才に恵まれた猿人だろうと末端とはいえ神の名を冠する魔物に敵うはずがないのだ。彼女がまだ六歳であるという事実を差し引いても、このまま順当に成長し力をつけたところでアロータスに勝利する未来など訪れない――ましてや今のクシャでは勝負にすらならないのが現実だ。
魔物は伝承通りであるなら山のように大きく、そしてその体は蠢く泥沼でできている。
猿人の力でも技でも到底太刀打ちできるような相手ではないのだ。
だからこれは、遠回しな絶縁宣言。
許してほしくば倒せ、それが叶わねば出ていけ。
許しがたい行いをした者に度々下される住民としての存続を懸けた試練。秘望郷という生まれ故郷にして神聖なる修行場に居残れるかどうかの瀬戸際――しかしてそれは見せかけのものに過ぎない。試練の困難度合いは長老の推量で決められる。つまりは彼が咎人をどうしたいかで全てが決まると言っても過言ではない。
魔物退治の試練にはいくつか種類があるが、言うまでもなくアロータス退治はその最大級。
そもそも岩神の置いた大岩をどかすことがまずできっこないのだから、この試練は要するに「大人しく何処へ去れ」と通告しているに等しい意味合いを持つ。
たとえ幼くともクシャならばどこででも生きていけるだろう。
涙にくれる保護者代わりの老夫婦をそう説得した長老は試練を採決し、明朝クシャを出発させた。誰が従うものかと少女は突っ撥ねるだろう、という皆の予想に反し、クシャは「面白い」とただ一言だけ言ってあっさりと伝説の地を目指していった。秘望郷の住民なら子供であっても知っている神と魔物の伝説を、クシャはその時初めて耳にしたのだ。大人たちとは碌に会話もせず、同年代とも喧嘩以外ではまともに関わったことがない弊害だった。そんな面白いものがあるならなぜ教えなかったのかと彼女は意気揚々と試練を受諾したのである。
最悪その場で戦闘になるかと危惧していた長老もこれには安堵した――一応は試練を受け入れたからには、アロータスを倒せぬ限り二度と秘望郷の敷地を跨ごうとはすまい。クシャもまた他の猿人たちと同じく……否、あるいはそれ以上に誇りを大切にして生きている。
誰に倣うでも習うでもなく、既に武人として居る。
実に惜しいことだと、クシャが出歩かなくなったことで幾分か騒がしさの減った秘望郷にて、決して少数とは言えない人数が彼女という破格の才能の追放を悔やみもした。出奔ではなく自分たちが追い出したようなものだが、だからこそ……。
他人の気持ちなど露知らず、クシャは西へ西へと進んでいく。どこか一方へひたすらに行軍したことはなかったなと伝説の地への期待を胸にわくわくしながら更に西へ。
十日ばかり歩き通した先にようやく見えたそれは、なるほど、確かに「大きな」岩だった。
ただデカいという意味ではなく、何かしらの力強さを感じさせる、不思議な岩であり違和だった。ただの自然の造形物とは一線を画す奇妙なる佇まいの大岩――これぞ伝説に相違ないとクシャは納得し頷いた。
森続きだった景観は様変わりし、この地は荒野が如く殺風景な場所だ。草花も申し訳程度にしか点在しない剥げた大地は大昔にアロータスが大暴れしたという伝承の信憑性を裏付けてもいた。長い時が過ぎても未だ土地にこれだけの影響を残しているのだから神というものは恐ろしい。アロータスが大地を飲み込むということはきっとこういうことなのだろう、と。
見ただけで神力の凄まじさというものを正確に読み取りながら、しかしクシャの顔にはにんまりとした笑みがあった。
恐ろしい、などと思いつつもその心には恐れも、畏れすらもなく。
こんな一等素晴らしい獲物がいてくれたことにひたすら感謝ばかりをしていた。
「そぅら出てこい、寝坊助め!」
なんの迷いも衒いもなく、クシャは大岩へ拳を打ちつけた。
どかすのではなく壊すことを選んだのにさほど深い意味はない。
その蛮行を仮に秘望郷の住人が目撃していたなら大いに呆れたことだろうが、けれども次の瞬間には呆れも吹っ飛びただただ瞠目させられたはずだ――それもそのはず少女の拳が当たった箇所から、ぴきりと。
小さくも確かな罅が生じ、それが次第に全体へと広がっていき、やがては。
どんがらと壮大な音を立てて神威の込められた大岩が崩れさってしまったのだから。
力だけも、技だけでも、あるいはその両方を合わせてもまだ足りぬ、決定的な「何か」を拳に乗せて打ったクシャはその実感とともに……そこで生まれて初めて己が死を予感した。
神の封印を打撃で破るという離れ業を成しておきながら彼女が戦慄した理由とは――勿論、封印が解かれたことで自由を取り戻したかの存在を目に映したからだ。
地面の底から這い出すように身を持ち上げるは、果たして伝承通りの泥沼が生き物と化したかのような奇怪なる化け物。土壌を食らう知恵持たぬ獣性神――『神』。
神としては矮小そのもの。されどその力と威容にはたとえ主神たる兄弟神や巨神であっても扱いに油断を許されぬ圧倒的な暴威が伴っている。
そんな正真正銘の神話の大怪獣と相対したからには、クシャとて先とは別種の震えを背筋に覚えるというもの。
身に着けた武も、たった今感じた未知なる何かすらも、ひどくちっぽけでなんの頼りにもならぬのではないかと。
我が身の脆弱さに初めて気付かされたことは、負け知らずの暴れん坊クシャにとっては天地を揺るがすほどの衝撃であった。
ぐわり、と冗談のようなスケールで巨大な触腕を振りかぶるアロータス。
小さな小さな猿人の雌へ目掛けて振り下ろされたそれは、知力を持たぬ彼なりにクシャが岩神の封を解けるだけの力を持つ生き物だと見抜いたからか――もしくはただ単に、前へ進もうという一歩があまりに暴力的だっただけか。
とにもかくにも泥禍の魔物アロータスvs奔放なる麒麟児クシャ・コウカによる、階級差著しい無謀なバトルが開始されてしまった。
――それが決着を見たのは、大岩が崩れてからちょうど五日後のことだった。
湖の魔物のこと……覚えてらっしゃいますか?
自分はあんまり覚えてませんでした




