273 波乱万丈クシャ物語・青
この遺跡の内部へと足を進めたからには当然、クシャもナインたちと同様にいくつかの試練を課され、それをクリアしたことで最奥の大空間まで辿り着いたことになる。しかしながら遺跡から試されるまでもなく、彼女の人生は数々の試練に満ちていた。それこそ転がってくる大玉や落ちてくる天井といった罠のようなアトラクションのようなそれらが試練だと認識すらできない程度には、彼女は苦難の道程を歩んできている――。
クシャは秘望郷という国外の人里離れた地にある、とある集落の生まれである。
獣人というものは国を持たない。何故なら一口に獣人と言っても犬人、猫人、虎人、鳥人といった具合に種族が多種多様で、他種族と交わることは「あり得ないこと」ではないが彼らの感覚として異種交配に近い。加えて獣人の遺伝は母体に依存することから、基本的に男は同種族の女性しか娶りたがらない。そういった事情から、他の亜人種――エルフやドワーフに代表される自らの国を持つ者たち――とだけでなく同じ獣人同士であっても袂を分かとうとする性質は、生物としての本能に根差しているものなのかもしれない。
それ以外にも、人間以上に闘争心や縄張り意識が強いこともあって獣人は特定の巨大なコミューンというものを形成せずに歴史を作ってきた、知能と言葉を持つ生き物として非常に珍しい種族なのだ。
そんな獣人の中でも一際特殊な立ち位置にいるのが、クシャの属する猿人である。
人間よりも遥かに優れた身体能力、戦うための武器を用意せずとも自らの口や手に生まれながらに持っている彼らは、その肉体の性能に絶対的な信頼を置いている。属性門という術こそ広く知れ渡っているものの、それも獣人界における過去の偉人がたった一人で成し遂げた偉業であって、間違っても人間のように魔力の扱い方というものを「研究」したわけでも「解明」したわけでも――そして「学習」したわけでもない。
それがあると知ったから、使えるようになった。
獣人の門術の習得とは得てしてそういうものだ。なので基本、自分に最も適した属性の術をいくつか自然と身に着けた程度で、それ以上の開拓というものに目を向けはしない。何故ならまるで人間がするようなそんな真似をしたところで、覚えられる術はどうせ貧弱なものになるのだから、あるものを活かすこと。そしてそれに合わせて肉体を更に鍛えること。それこそが獣人が強くなるための最適解なのである。
しかしその自然の摂理にも似た獣人としての在り方に反旗を翻そうとする変わり者たちがいた――それこそがクシャの属する種族『猿人』だ。
彼らもまた人間とは比較にならない肉体のスペックを誇るが、されど姿形は他の獣人種よりも遥かに人間的な造形をしている。犬人の特徴であるマズル、猫人の特徴である髭、鳥人の特徴である嘴や翼――そういった見るからに人以外の生物の血を感じさせるような部位が、彼らにはない。強いて言うなら体の特定部位が非常に毛深いことや尻尾がその証となるだろうが、一見すると人と見分けがつかないことが猿人の最たる特徴とも言える。
だからなのか、彼らは彼ら以外の獣人たちとは違い『武』というものに興味を持った。
力だけに飽き足らずそこに技術を求めた。
非力だからこそ、脆弱だからこそ人間たちが編み出した『武術』というものを追求し探究し求道することを彼らは選んだのである。
秘望郷は猿人の中でもとりわけその傾向が強い、武の道へ傾倒した者たちがひっそりと集まって形成した集落兼修行場であった。
山奥深くでなるべく外界との接触を断ち、各々が仙人を目指すような厳しい鍛錬を日がな一日繰り返す。
当人たちにとってはまさに理想的な環境。
誰憚ることなく武者修行に専念できる似た者同士だけの世界は彼らに確かな訓練の成果を与えていった。
――そんな経緯でできた秘望郷に、新たな命が生まれようとしている。
本来なら歓迎すべきはずのその報告を受けて、しかし住民たちは皆一様に眉を顰めた。
特に才ありと見なされていたその女性は確かに身籠っている。当初はそれを秘密にしていたようだが目に見えて腹が膨らんできたからにはもはや隠しようもない。
問題なのは、その父親が誰かわからぬことにあった。
秘望郷は選りすぐりの求道者のみで作られた村落のようなもので、その人員は限られている。一応の代表者である長老は現住民百七十七名すべての顔と名前、その力量まで完璧に把握しているが、彼女と密に通じるような男は一人もいなかった――少なくとも長老の認識している限りでは存在していなかった。若い男女の人数も限られるために番いとなることや子を授かることは秘望郷にとっても一大事である。
住民全体がひとつの家族のように過ごす日々の中で突如として現れた、謎の子。
父親の名を明かそうとしない彼女の態度に、住民たちの間では自然と様々な憶測が飛び交い出した。あの家の旦那が不義を働いたのではないか、禁止されている外界の男との交わりを果たしたのではないか、魔物にでも姦通されてその子を孕んだのではないか……どれも碌でもないものばかりだ。しかし秘密を許さぬ秘望郷という場所で妊娠の事実もその相手も黙ろうとするからには、人においそれと言えぬような不幸や不逞を疑われるのは至極当然のことでもあった。
猿人は他の獣人種の多くがそうであるように、プライドが高い。
誇りを尊ぶ人種の最たる例として語られるのは獣人ともまた違う異種族『竜人』であるが、それに与する程度には誇りというものを大切にしている。そして秘望郷に集うはより誇り高きを目指す武人ばかりで、彼らは潔癖にも近い清廉さを自分にも他人にも求めるきらいがあった。
不義の子か、異種の子か。
どちらにせよ真相を聞き出さないことには住民間を駆け回る「よろしくない噂」もやむことはないだろう。
秘望郷全体の不和にも繋がるおそれがあることから、長老や彼に近しい者たちは女へ厳しく問い詰めた。「それはいったい誰の子か」と。対する女の答えはいつも同じだった。
――私の子です。
これに呆れかえった長老たちは、もはや彼女に神経を使うべきではないと判断した。どれだけ言っても聞かぬなら何も言わないことにする。不和をもたらしかねない彼女という存在に長老はひとつの決定を下す。
誰も関わるな――住民へ告げられたのはただそれだけの言葉だった。
産むのなら産めばいい。
しかし誰も協力はしない。
その代わり、これ以上口さがなく根拠もない噂話を流布することも長老は皆にやめさせ、それを破った者には罰まで与えもした。
郷外れの小屋にて、他の住民たちとは必要最低限度の接触だけに保ち、女が孤独の生活を送るようになって三年の月日が流れた。
……否、一人きりではあっても彼女にとっては孤独ではなかったはず。己の腹の中には愛しき我が子がいて、彼女は日毎にその成長を自身の身体を通して実感していたのだから――だからその結末もまた、彼女にとってはなんということもない、恐れるに足りないものだったのかもしれない。
その女、クイシャナ・コウカが自身の名をもじって名付けた娘の名はクシャ・コウカ。
三年という長すぎる時間をかけて母の腹の内から飛び出した彼女の生誕はそのまま、母体の死をも意味しており――。
意図せぬ母殺し。
これこそがクシャの数奇な人生に課された、ひとつめの試練であった。
ここで過去編とかウッソだろおい、と自分でも思ったり。
でもこのライブ感は大事にしたいっす




