267 剛柔併せ持つ猿人
あえてだ。
大空間内程度ならどこでも好きな場所へ移動できる瞬間跳躍を用いて、何故わざわざクシャの目の前を転移場所へ選んだかと問われれば、それは「あえて」だとナインは答えるだろう。
転移は便利だ、足も時間も使わず任意の空間へ自身の身を飛ばす術は日常生活よりもむしろ非日常、戦闘中にこそ格段にその特性を発揮し、戦士として未熟な者だけを相手取るならこの技ひとつで何十、何百という敵集団を打ち倒すこともできるだろう。
ただし、敵兵の中に一人でも未熟とはとても称せないような、一流の腕を持つ戦士が混ざっていた場合は?
その場合転移は便利な術から一転、使い方を誤れば自身を窮地へと追いやりかねない危うい諸刃の剣となる。
一流同士の決闘で転移は決め手になりえない。
何故なら転移が便利かつ強力過ぎるが故に、互いが互いに相手の転移に対する方策というものを確立させていることがほとんどだからだ。
魔法やその他不可思議な術が当然のように存在するこの世界。「戦える者」が元いた世界とは比較にならないほどそこら中にごろごろといるこの未知なる世界……そんな場所だからこそ生まれる常識というものを、ナインは未だ万全と言えるほどには学びきれていない。
だがそんな彼女とて、戦士としての学習や鍛錬はともかく、戦闘経験だけはそれなりに積んできている。跳躍を駆使しても瞬時に捕捉されたこともあったし、またナインのほうが敵の転移先を捕捉するすべもアムアシナムでの戦闘、その最中に繰り広げた転移合戦を通してなんとなくではあるものの理解しはじめている――だからこそ。
背後へ回る、頭上を取る、あるいは単に仕切り直すために距離を開く。
そういった転移を使えば容易に叶う、算段として一見最適に思えるあれやそれをナインは頭から根こそぎ追い出し、あえて。
敵の見据える視線に晒されながら、それでもその真正面の位置を堂々と奪ったのである。
意表を突く、不意を突く、隙を突く。
言葉にすれば容易くも、クシャを相手にしている今そんなことが自分にできるなどとはここまでの攻防からしてまったく思ってないナインが、それでも彼女の裏をかける行動は果たしてどのようなものであるかと刹那の間で講じて思い付いた、策と呼べるかも怪しいところの転移を用いたこの吶喊策。
「ぶっ飛びなぁっ!」
「ふはっ!」
転移し、威勢を発し、同時に殴る。
その気持ちがいいまでに真っ直ぐな攻めに、クシャは思わずといった様子で噴き出した。
それがナインにとって助けとなったのかどうか、拳は無事クシャの胸部へ辿り着く。ヒットの確かな感触。だというのに、クシャは倒れもせずその場に立ったままでいる。
「な、に……効いてないのか?」
「否、そんなことはない。かなり痛い。手前の目から平気のように見えるなら、己の痩せ我慢は成功しているということだな。はっは!」
「っ、……」
何がおかしいのか大口を開けて笑うクシャに、ナインはぎりと歯を噛みしめる。
自身渾身の一打が「痩せ我慢」で耐えられるような代物でないことは、他ならぬナインこそがよく知っている。戦闘モードはナインの筋力を引き上げるような効果など持たないが、それでも戦闘向きの意識を作ることや相手への容赦をなくすという意味では、一撃ごとの威力を引き上げていると表現しても間違いではないはず。
怪物少女として数多の強敵たちを沈めてきた自慢の拳撃。
それをクシャは痛いと言いつつろくに痛がる素振りも見せず、その場から一歩も動くことなく、防御もなしの素の肉体で耐えてしまった――これが戦慄せずにいられようか?
「次は己の番だな」
「! くっ……、」
「はは、逃げるな逃げるな」
不吉な宣言を聞き咄嗟にナインが『跳ぶ』ことを意識したとき、まるでその思考を読み取ったようにしゅるると首に巻き付くクシャの尻尾。
速いというよりも抜け目のない動かし方で巧みに首を掴まれたナインは、今跳んだとしても状況は有利にならないと理解する――とそこへ、戦闘開始時の焼き直しのように迫ってくる豪脚。同じくミドルの軌道を描きながらも明らかに先ほどよりも遥かに力の込められたそれは、拒否権を与えることなく怪物少女へ防御の選択を取らせた。
(だけどマズいぞ、この流れってことは――っ!)
ナインの危惧通り、ブレるクシャの脚。
どこへ叩き込まれるのか見切れなかった少女は先と同じようにガードを固める。しかし先とは違う点がある。それはその守り方だ。
此度のナインは一箇所を守るのではなく、半身で立ち両腕でL字を組むようにして上半身全体をカバーした。空きの部位を減らす。こうすれば狙いを逸らそうとしても腰より下にしか的を変えられない。変更後の大まかな候補さえ絞れていれば、また別の対処も取れる。
そうやって逆にクシャの攻めを誘導しようとしたナインだったが――思惑通りとはならず、少女はその目をくわっと剥いた。
ブレた脚はその行き先を定まらせず、むしろいっそう揺れを激しくさせる。やがてはまるで鞭と化したかのように異様なまでのしなりを見せた。
ひゅぃん、と蹴りとは思えぬ複雑怪奇な軌道でナインの防御をすり抜けたそれは見事に元の狙い通り腹部へと命中し、名状しがたき苦痛を少女へ見舞った。
「かぁっ、~~っく!!」
「さっきから手前はどうも素直すぎるぞ。愚直なのも嫌いじゃない、が、虚実の駆け引きがないことにはやはりつまらん」
苦悶するナインへ呆れたようにしながら、クシャは尻尾を解いてその首を放してやる。――まただ。ナインは痛みよりも屈辱に顔を顰める――また侮られた。
しかしそれは相手が悪いのではない。
侮られる自分が悪いのだ。
「そうら、もう一発行くぞ」
「! この――がっ!」
なんの変哲もないテレフォンパンチ、だったはずがそれはするりと防御を抜けて、ナインの頬へと打ち込まれた。またしても一瞬だけ腕先がしなったのをナインは見逃していない。それは腕自体がひとつの生き物のような、鞭というよりも獲物に襲いかかる蛇を思わせるような動きだった。クシャの腕に宿った猛蛇が自らの意思でもってナインの防御をくぐり抜けたのである。
彼女の卓越した技量を前にしてはガードすらも許されないのだと、そこでようやく理解する。
(ジャラザの技に近いものがある……! これは柔拳の一種だ、変幻自在に力の流れを操る腕力よりも技術を上位に置く拳! だがジャラザとの決定的な違いは、クシャは腕力を必要とする剛拳だって万全に扱える奴だってこと……!)
まだクシャは決して本気の力で殴ってはいない。しかしそれでも食らうたびナインには確実にダメージが蓄積していっている。これはジャラザにも真似できないだろう――彼女の場合は身体能力ではなく独自の水術こそを決め手としているため腕力にそこまで重きを置く必要がないのだが、その分格闘戦ではクータやクレイドールに一歩劣る位置づけにいることも事実。
だが猿人クシャ・コウカは。
柔も剛も高い水準で当たり前のように使いこなす彼女は、当然ながら格闘者としても遥かな高みにいることになり。
それでいて特殊な術や異能をまだひとつも使っていないのだから、戦士としての彼女がいったいどれほどの見上げる先にいるのか――ナインには想像もつかなかった。
殴られた鼻っ柱を押さえつつ、一歩二歩とよろりと後ろへ下がったナイン。
そんなあからさまに劣勢な彼女へ、戦士として、そして武闘王としての先達たつクシャは諭すような声音で言った。
「まずは意を整えろナイン。今一度考えろ、何を競うことがあるのか? 得意不得意は十人十色。手前も武闘王に選ばれた身なれば自分の持ち味というものがあるはずだろう――それを活かさずしてどうする」
「……!」
「敵の土俵に立つことは立派な心掛けだ。強者として値千金の心構えだと言える。だがそれも相手を選ばなければただの莫迦。誇りは抱くべきものだが盲従すべきものではない……なあ、ナイン。手前は己に『負けたくない』のか。それとも『勝ちたい』のか。いったいどちらなんだ?」
「――――あァ、そうだな」
それを聞いてナインは――自身の考えを改めた。
今更ながらに、『先輩』に対する礼儀を欠いていたと気付かされた。
その含蓄ある言葉に深く納得させられたからこそ、侮るどうのこうのと小さなことに拘っていたのを恥じて。
敵わないととっくに理解していながら、それでもクシャの土俵で戦おうとした己が不見識を恥じて。
一人の戦士として、どう戦うか。
超一流の相手に、一流の端くれとしてどう挑むか。
それはプライド云々に左右されるようなことではなく。
相手に自分を認めさせたいならそれこそ、出し惜しみなどしないで。
ただひたすらに全身全霊全力で以って応じること。
それこそが強者としての度量に相応しい態度だと。
それを優しく教えてもらった、からには――。
「――『覚醒モード』」
ぞわり。
空気が変わっていくのをクシャは敏感に感じ取る。しかし彼女のような鋭い知覚を持たずとも、ナインの変貌ぶりは一目瞭然であった。
髪が逆立ち、天を衝くように。
深紅に染まっていた瞳が強く発光し。
全身から濃密で輝かしい闘気を漲らせて。
さっきまでの少女とは、まるで別人かと見紛うほどにその様子を変えている。
それを見たクシャは表情を喜色に染めた。
「――はっは! よきことだなナイン。それが手前の持つ力なのか――わくわくさせてくれるじゃないか!」
「そう、こいつが俺の全力全開。構えなクシャ・コウカ」
「いいだろう! どうか己の期待に応えてくれよ」
「ああ。お前さんの希望通りに、こっから先は大盤振る舞いの超特急だ……せいぜい振り落とされんなよっ!!」