266 偶戦、二人の武闘王
クシャは下がろうとするナインを超える速度で間合いを詰めた。後退よりも前進に速度が乗るのは当然と言えば当然だがしかし、ナインが驚いたのは自分が下がり始めようとしたときには既に目の前にクシャがいたこと。これはただ前へ出た、というだけでなく明らかにナインの動きを読んだうえでその選択を潰す行動に入っている――つまりは戦闘開始の宣言からただの一手で攻撃と妨害、その両方を意図して仕掛けてきていることになる。
「っ、」
取ろうとした動作を強制的にキャンセルされたナインはもう、ここからできることなどない。クシャはとっくに彼女の眼前で蹴りの体勢へ移っているのだ。回避も反撃も到底間に合わないのであれば、せめても防御を行うしかない。
腹部を狙っているミドルキックの軌道を見て取ったナインがそこに腕を構え――た瞬間、見えていたはずの脚の軌道が不自然に「くんっ」と曲がった。
途中から進路の跳ね上がったクシャの足甲が、ナインの頭部へ吸い込まれるように入る。
「ぐぅっ!?」
鋼の棍棒で打ち据えられたような衝撃。
軽く蹴っただけでここまでの威力が……いや、それよりも。
今のあからさまな異常はなんだ? ナインは混乱する。
(最初は明らかに! 確実にこいつは俺の脇腹を狙っていた……だけどそこから! こっちが守ったのを確かめてからボディ狙いを頭狙いのハイキックへ変更しやがったのか――そんなことができるのか!?)
ただ蹴撃の進行方向を変えただけではない。サンドバッグを相手になら同様のことを可能とする者も少なからずいるだろうが、こと実戦、それもナインレベルの強者を敵としてこんな真似のできる者が、いったいこの世にどれだけの数いるだろう? 少なくともナインはクシャが実際にやってみせた今でもなおどこか信じられないような思いを抱いてしまう。
特定の部位を狙って、しかしガードされることをしっかりと確認してから別の場所へ。
動く敵、抵抗する敵、しかも武闘王を前にして。並の戦士相手には披露し得ない超高速の一手の中でやるにしては、この芸当は少しばかり曲芸が過ぎるだろう。
――こいつ、器用なんてもんじゃないぞ!
これだけでも自分とクシャの格闘技量に明確な差を――隔絶した差を感じ取ったナインは、このままではまずいと蹴られた衝撃を利用してバク転。振り上げた脚で牽制の攻撃を繰り出すもするりと躱され、逆に伸び切ったところで足首を掴まれてしまう。
「!」
「次策の用意もなく思い切ったことはするもんじゃあない。己ならともかく手前程度なら、余計にな」
「っ、にゃろう!」
片手で少女を逆さまにぶら下げながら、クシャのやったことは正論をかますまさに説教であった。
好機どころではない絶好の甚振るチャンスを、されどこんなのはチャンスでもなんでもないと言わんばかりに。……要は「いつだって仕留められる」と示すその余裕の態度に、ナインのプライドは大いに刺激された。
先輩武闘王だろうとこんな扱いをされるのは我慢ならぬ、と。
二面の時以上に激しく怪物少女の闘志に火がついた。
「お?」
瞬間跳躍。
他人と接触している状態では強制的にその者も跳躍させてしまうこの術の制約を、ここでナインは上手に利用した。
反転する。
自身を正位置に、クシャを逆位置に。
一瞬にして上下がひっくり返ったことにクシャが目を丸くしたところ、ナインは身を捻ることで彼女の手から足を強引に引き剥がし――そのままスケート選手のように回転。重心移動で宙に浮いたままで遠心力を高め、そして放つ。
ナイン渾身のローリングソバットがクシャの身体に突き刺さった。
「……!」
吹き飛ぶクシャ。戦闘モードに移行したナインの蹴りはまともではない。如何にナインと同じ武闘王の位に就く者であっても正面から受けては一溜まりもないだろう……という常識的な考えは、残念なことに彼女には通用せず。
キキィッ、と足裏が地面から離れたはずのクシャが急ブレーキの音を立てて止まる。
何が起こったのかとナインが目を凝らせば、なんてことはない。
腰から解かれた紐――否、尻尾。
尾てい骨に当たる部分から伸びている尾の先を床に擦り付けることでクシャは己を襲う猛烈な慣性に耐えてみせたのだ。
停止したクシャはそのまま尻尾に腰を下ろすようにして空気椅子よろしくあぐらを組み、自分の膝へと肘をつく。手の上に顎まで乗せてなんともリラックスした姿勢である。だが全体重を尻尾だけで支え、手や頭部はともかく下に物のない両脚は筋力のみでその位置に固定していることを考えると、下手な筋トレなどよりよっぽど下半身の筋肉に重負荷がかかっているはずだ。
そんな状態でもまるで負担など感じさせない様子でクシャはにやりと笑った。
「おう、さすがは己の後輩よ。面白い術を使う。それに見かけより力もある。見たところもっと先があるようでもある。なるほどこれは、武闘王に相応しいな――いや、実を言うと己は少々、手前さんを侮っていた節がある。強くはあると思ったがこうして実際に一発浴びせ合うまでは明確に己には劣るものとして見ていたのだ。うん、謝罪しよう。闘錬演武大会も質が落ちた、などと恥ずかしいことを言ってしまう前に気付けていやはや良かった助かった……で、だ」
ぴょいと尻尾で跳ねて立ち上がったクシャは、そこで笑みの質を多少違う種類のものへと変化させながらこう続けた。
「ひとたび蹴ってそれならば。手前の真の力を引き出すには、あと何度痛めつけてやればいいのかな?」
「……俺の本気が見たいって言うのなら、そいつはマジの分水嶺だぜ。俺が力の限りを尽くせばもう引き返せなくなる――そうなれば必ず、戦いは死闘になるんだ」
「そいつは重畳」
警告のような言葉を口にするナインに、クシャは呵々と愉快そうに笑って――消えた。
瞠目するナイン。しかしその目はしかとクシャの影を捉えていた――右。眼球だけを動かしてそちらへ視線をやったナインはすぐさま身を沈めた。直後右から薙ぐ大振りの蹴り。盛大に空振ったクシャの身体が泳ぐ一瞬を逃さず、ナインは下からアッパースイングでその顎を狙う――そこで彼女と目が合って、ナインは瞬間的に己の失策を悟った。
予感と同時に実現する、足元への違和感。さっきと同じだ、掴まれている。だがクシャの両手はしっかりナインの視界に収まっている。ではいったい、少女は何に足を取られているのか?
決まっている――両手足以外にもクシャの自在に操れるもう一本。
尻尾にだ!
「ぐっ――!」
途端に振り回される。打ち込む直前だったが故にナインの足はすっぽりと抜け、面白いようにあっちへこっちへ揺らされ振らされ、回る視界の中でクシャの声。
「うまいもんだろう? 己の尾っぽは第三の手だと思ってくれていい。そら、投げるぞ」
「てめっ、」
ナインが何かを言おうとするもクシャに耳を傾けるつもりはないようだった。言葉の最中でぶんと一際大きく尻尾を振って少女を勢いよく放り投げる。そこは床が途切れ、底の見えない奈落がぽっかりと口を開ける大空間の『処理場』――をも越えて、硬く高く大きい、大空間を作り上げる遺跡の壁。下を除き上左右前後の五方を囲う内の一面へナインは猛烈な勢いで叩きつけられた。
「ぎい……!」
(尻尾一本に、こんなパワーが……! 猿ってそんな感じだったか!? 確かに木の枝に尻尾だけでぶら下がったりしてるようなイメージはあるが……つーかあいつ。こっちの本気を待っているようなことを言ってたけど――そのくせ、そっちだって全然本気を出そうとはしてねえじゃねーか!)
つなぎ目もないツルツルとした壁面に握力だけでヤモリのように張り付いたナイン。少女は険しい表情で、奈落越しでは能楽や歌舞伎の舞台ようにも見える大空間の切り立った床の中央へ視線をやる。そこで仁王立ちする、威風堂々のクシャ・コウカを眺める。
手で掴んだときも、尻尾で掴んだときも。
もっと致命的な攻撃の案は彼女ならいくらだって浮かんだはずで、そして容易く実行に移せたはずで。
なのにどちらともクシャはそうせず、ある種見逃すような行動を取った。
その真意がどこにあるかはともかく、根っこの部分にあるのはやはり「侮り」なのだろう。それを反省したような口振りで尻尾に座りながら語っていたクシャだが、そこにはまだまだ隠し切れない「こちらを下に見ている」意識があるように思える。
それだけ彼女のほうも、ナインの全力をどうしても拝みたい気持ちが強いということなのかもしれないが。
しかし相手の思うがままに誘導されるというのもなんだか癪なものがある。
「いいぜクシャ。そこまでして本気を出させてーってんならその期待に応えることもやぶさかじゃあないよ。……ただし、俺よりも先にまずはあんたの余裕をぶっ壊して――笑みも見せられねえくらいに必死こかせてやってからだがな……!」
それは眼先の勝ち負けに拘泥するよりも、戦士としてのプライドを尊重する選択。
あくまで覚醒モードには入らず戦闘モードのまま、少女は再び瞬間跳躍を発動させた。




