251 ナインズとオイニーの再出発
しばらく袖を通していなかった一張羅のローブを久しぶりに着込んだナインが、フードの奥からぽつりと呟いた。
「なんかさ……逃げだすように出ることになったよな」
「そうか? これまでの街と同じく、目的を果たしたのだから出発した。それだけのように儂には思えるが」
ナインズ一行はアムアシナムを離れ、山越えの真っ最中だ。次なる目的地のために最短距離を行くこの道とは呼べぬ道筋を、しかし困難と感じるものはこの中に一人もいなかった。
銘々が涼しい顔で山林をかき分けて行く。だがナインだけが唯一、道の険しさとはまったく別の理由で表情を曇らせていた。その理由を仲間たちは大体察している。
「罪悪感がそう思わせるのでしょう。マスターは今回の件を悔やんでいる。悪い意味で後ろ髪を引かれているような状態ですね」
「えー、なんで? ご主人様がいなかったら、もっと大変なことになってたでしょ?」
「クータの言う通りだの。主様が止めねば、シリカは宣言した通りアムアシナムを更地に変えていたことだろう。宗教会の壊滅と天秤の羽根一部の被害で済んだのは主様がいてこそだ。そして儂らは運も良かった」
欲張りすぎるな、とジャラザはナインに言う。
「というより、めそめそされてはたまったものではない。それで失われた命が戻ってくるわけでもなし、彼らも余計に浮かばれんだろう。せめても胸を張って顔を上げていてもらいたいというのが、犠牲を減らした功労者へ思うことではないか?」
「…………」
確かに身体を張ってシリカの相手を務め、街にまで被害が及ぶのを食い止めたのは他でもないナインである。功労賞を与えるべきは誰かと場に居合わせた面々に訊ねれば、満場一致で彼女を推すだろう――それはそうかもしれないが。
だが、どうしてもナインはこの結果に満足することはできなかった。
「むしろもっと欲張りたかった。もっと助けたかったよ、俺は。助けるべきだった。助けなきゃならなかったんだ。十使徒のおっさんたちも、使用人や警備隊の人たちも……もっと言えば、シリカのことも。あいつが殺しちまう人の数を少しでも減らしてやるべきだった。俺がきちんと頭の回る奴で、気の利く奴だったなら、早くにシリカの本音や体の中にいる何かにも気付けたかもしれないのに……とんだ底抜けの間抜けを晒しちまったよ」
「はぁん、察するに大勢を救えるだけの力を持つが故の苦悩といったところですかねえ。『力には責任が伴う』とは誰の言葉だったでしょうか? 私としては『責任に力が伴う』の間違いだろうと言ってやりたくもありますが」
と、ナインの赤裸々な吐露に対して絶妙に力の抜けるようなコメントを述べたのはオイニー・ドレチドだ。ナインズの面子に何食わぬ顔で混ざるようについてきて、ここまで同じ道を辿っている彼女は「では私はこの辺で」と唐突に別れを告げた。言うほど彼女たちの会話内容に興味は持っていなかったらしい――単に口を挟む景気づけに思いついたことを述べただけだったようだ。
「もう行くのか?」
「ええ。報告は済んでますが、これを預けに直接首都へ向かわねばなりませんので。……あと七聖具の独断使用に関する鬼のような事後処理も私を待ってくれてますからねえ」
渋い顔をしながら懐をぽんと叩きそう言ったオイニー。
そこに収められているのは七聖具『聖杯』だ。
彼女は『聖剣』と合わせ現在ふたつの七聖具を所有していることになる。ナインの体内の『聖冠』と合わせれば、この場に七つの内の三つが揃っているということでもある。
そう、結局のところナインは体内から聖冠を取り出せず終いだったのだ。自身の事情を詳らかに明かしオイニー立ち合いのもとで試してみたが、聖杯の封印の力を用いても胃の中の――居場所が本当に胃であるかについてナインはかなり懐疑的であるが、とにかく体のどこかにあるはずの聖冠を引っ張りだすことは叶わなかった。
オイニーが言うには、
『いかに聖杯があらゆる力を封じ込める能力を持つとはいえ、同じ七聖具への一方的な干渉は不可能なのでしょう。七聖具は基本、とあるひとつを除いてアイテムとしての格は横並びですからねえ』
ピカレ・グッドマー肝入りの「聖冠には聖杯を」作戦はここにあえなく散ってしまったことになる。ではどうすればいいのかと、グッドマー以上に七聖具については詳しいであろうオイニーに訊ねるナイン。すると次に彼女は、
『知っていますかナインさん。七聖具は宝具と呼ばれるほど稀少なアイテムですが、その真価は七つ揃って初めて発揮されるのです。神具。元々七聖具はそのように呼称されていました。世界中を探しても有数の超稀少アイテム――その力が真に目覚める時ならば、きっとあなたの体に眠る聖冠も大きく反応を示すことでしょう』
何が言いたいかというとつまり、
『そこでどうでしょうか。互いのためになる提案なのですが――引き続き、私の仕事にご協力いただけないでしょうかねえ、ナインさん?』
ということだった。
その提案に仲間たちとひそひそと相談を交わした結果乗ることに決めたナインは、こうして途中までオイニーと同行することになったのだ。
アムアシナムから程よく離れたと判断したところでオイニーはナインズへあっさり別れを切り出し、そして念を押すように告げてくる。
「一応確認しておきますが、次にどこへ行けばいいのかはわかってますよね?」
「や、あまり馬鹿にしてくれるなよオイニー。向かうべきは『クトコステン』。五大都市の最後のひとつだろ?」
「そうです、ナインさん方がまだ訪れていない大都市最後の一角――それがクトコステン。亜人特区であるあの街は、これまでの都市のように馬鹿正直に検問を抜けて入ろうとすると相当な時間がかかります」
「ええっと……実質的にそこは別の国があるようなもん、だったか? だからこうして手形を用意してくれたんだろ? これがないと武闘王だろうが簡単には通過できないだろうからって」
「ええ、その万理平定省印の通行手形はたとえ場所がクトコステンだろうと、国内の都市ならどこででも通用しますからね。それでも門兵の目は厳しいでしょうが、通されるまでに何十日も無為に待たされるなんて事態にはならないはずです」
街には既に、クトコステン支部の治安維持局への監査の名目で万理平定省の執行官とその協力者が入り込んでいるらしい。ここで別離するオイニーより先行してクトコステンに向かい、彼らと手を組んで街にある『ふたつの七聖具』をまとめて回収すること。それが今回ナインズに課された任務である。
「万理平定省が七聖具を蒐集していることはあなた方もご存知の通りです。七つ集め、そしてその力を使う。その際にはナインさんの聖冠も自然とその身から剥がれるでしょうから、まあ……要するにそちらが手伝ってくれるのであれば、こちらも聖冠を食べてしまったことも見逃しましょう、ということですねー。お互い背に腹は代えられぬといった感じになりますが、そちらのほうが単なる信頼関係などよりよほど信が置けて私としては好みですね」
状況さえ変わらなければ、という内心のみで続けられた言葉はしかし、口に出さずともどちらの耳にも届いていたはずだ。それでもナインは飄々と笑みを見せ応じた。
「俺としちゃとにかくありがたい限りだけどな。どっちみちそれくらいしか聖冠をどうにかできそうなアイデアもないんだし……それに俺が大人しく従いさえすれば、おまけでリュウシィのことも見逃してくれるってんだろ?」
「勿論ですとも、そこはお約束した通りですよ。ですがナインさん。くれぐれも言っておきますが――」
「わかってるさ。従うだけじゃなく、任務を果たせと言いたいんだろ。言われなくてもやるからにはちゃんとやるよ。手を抜くような真似はしないさ」
「ふむふむ。そう仰っていただけるなら何よりです……、」
と、それまで普通に会話をしていたオイニーが急に口を閉ざしてさっと顔を上げた。何かを仰ぎ見るようなその仕草に、ナインズも釣られてそちらへ視線をやるが……どう見てもそこには何もない。ただ枝に稔った豊かな緑葉と、それ越しに覗く高い青空があるだけだ。
「どうしたオイニー。あっちに何かあるのか? 俺の目には何も見えないんだが」
代表して皆の疑問を口にしたナインにオイニーは、
「いえ、なんでも。なんでもありませんよ。話の続きといきましょうか――現在のクトコステンを取り巻く少々特殊な事情について、あらかじめ軽く説明しておいたほうがいいでしょうからね」
一見やる気のないような、いつも通りの胡乱な笑みを浮かべるのみだった。